75話 空
不機嫌。
今の彼女を表す言葉として、それ以上ふさわしい言葉はないだろう。
もう一週間になるというのに、未だこの態度だけは抜けない。
それが見方を変えれば、子供じみた感情の発露だということなど分かっていても、やはり彼女はその様子を変える気はない。
「それじゃあ、次は向こうに行きますか」
少なくとも、彼女の目の前の男が視界から消えない限りそれは続くだろう。
袖裾の広い独特の衣装に身を包み、人目を引く巨大な剣を背負い、偽物の茶髪を揺らしながら彼女の前を歩く。
借り物の姿ではあっても、顔立ちそのものに変化はない。彼女からみてそれなりの整っていた。だが、周囲に目を凝らせば一人二人は同じくらいの容姿はみつけられる。
だが、その中身はほかには絶対に居ないと断言できるほど奇特な人間。
彼をずっと、彼女は睨み続けている。
生来の紅髪が、常より微かに荒い足踏みに揺れる。
そんな彼女、フレイナの機嫌の悪さを意に返す様子もなく、むしろどこか楽しんでいそうにも見える男。
つくづく性格が悪いと思う。
借り物のグランドの姿をしていても、いや、借り物だからこそ、体面を気にせず直になれるのだろうか。
「ちょっと。どこか行くなら先に行先教えてよ」
「同行することについては了承したが、気配りをしろとはガイアス殿に言われていないのでね。まあ諦めんさい」
棘のある声に、男は振り向かずに返す。
ビキリと額に青筋が浮かんだ。
黙ってついていきながら、ついて行きたくてついて行く訳じゃないと言い訳する。
他に二人同行者は居るのだが、ひとりはいつの間にか姿を消しているし、もう一人は『見えなく』なっているのだから、実質自分一人しか令についていく者はいない。
少しくらい気にかけてくれてもいいんじゃないか。そんな身勝手な子供の言い分も頭をよぎる。
それも意味のないことだと分かってはいたが。
彼女が男、令についていっているのは、父の意向である。
『可能な限りあいつについて目を光らせておけ』そういう『命令』。
言葉だけをとれば、男の監視をさせるためのもの。だが彼女はそれを建前と捉えている。
理由は簡単。今の自分では、男に対する牽制にも抑止力にもならないからだ。
もしもの時は、時間稼ぎくらいはできる。事実、この前だって、接近戦であれば互角で戦え、慣れてからは圧倒出来た。縦横無尽の軌道戦を挑まれても、経験がある今ならば勝てずとも負けもないと断言できる。
『以前』であれば。
「っ―――」
令の背にある『それ』が、考え事をしていて油断した彼女の目に映る。
身の丈ほどもある、布に包まれた巨大な板。
途端、全身が硬直し、足が止まる。
身体が震えるのを歯を食い縛り耐えようとするが焼石に水。
視界が眩暈にぼやける。
「大丈夫ですか?」
右手に温もりを感じ、身体に感覚が戻る。
いきなり、自分の隣に女性が出現し、回りの通行人が驚く。
こちらを心配そうに見る灰色の瞳に、姉のようなアリエルがまだ生きていることに、心の底から安堵を覚える。
「…………ええ」
もう一度、令の〈アロンダイト〉に目をやる。今度は心構えが出来ていたので大丈夫だった。
フレイナは、戦う者として致命的な欠点がある。
その一つが、敵を傷つける行為ができないこと。
どれだけ覚悟を決め、心を閉ざして切り裂こうとしても、身体がそれを拒絶する。
〈四剣〉に匹敵する技量があっても、敵を殺せない戦士など、欠陥品もいいところ。
そして、それに新たにもう一つ加わった。
―――〈武器恐怖症〉。
令の、最後の一撃の脅威と恐怖は、彼女の心に深い傷を負わせた。
白熱する大気。天を焦がす焔。研ぎ澄まされた戦意。殺すという意志。
それは、未だ二十に届かない小娘を壊すには十分過ぎた。
あれ以来、抜かれた刃を見ると身体が強張る。
事の発端である令の剣の場合はそれが顕著で、身体が震え、眩暈がし、ろくに動けなくなる。
それを誤魔化すために、気を強く持とうとし、ことさら令に強く当たってしまう。
「アリエル殿。貴方姿見せていいんですか。一応隠密行動中でしょう」
「初めから気が付いているお前に今更隠す必要があるとでも?」
使用していた〈幽姫〉を解いてフレイナを励ましていたアリエルに、令の言葉が飛ぶが、彼女は侮蔑すら混じったように感じる不機嫌な声で返す。
フレイナが顔を引き攣らせる中、令は背中からでも笑っていると分かるほど楽しそうに身体を揺らす。
「まだ怒ってるんですか。私は貴女のためを思ってガイアス殿の背に張り付けたんですが」
令の頭に、完全な死角からナイフが飛ぶ。
令はそれを首を傾けて躱し、射線上のだれかに当たらないようにそれをつかむ。
人通りの多い、王都の町中。
ナイフを飛ばすなど危険にもほどがあるが、これは令が受け止めるという確信があったからこその行為でもある。
その投げた主、アリエルに令は振り向く。
無言で睨み合う両者。
一方は喜悦に顔を歪め、もう一方は羞恥に顔を染める。
「セイッ!」
「なんのこれしき」
「また始まった……」
「始まりましたねー」
取っ組み合いを始めた前の二人とは別、後ろから聞こえた声に振り向くと、青い髪の女性が立っていた。
一体いつ来た。どこから沸いた。なぜ毎日こちらの意表を突く現れ方をする。散々言ってやりたいことを飲み込み、フレイナは視線を前に向ける。
アリエルがフレイナと共にいるのは、姿を消せる〈固有魔法〉を活かし、令の監視をするため―――ではない。
令には彼女の《幽姫》は効かないことは体験済み。なのにこうしてここに居るのは、フレイナの護衛が理由の一つ。
そして何より、ガイアスの傍に居られないから。
恋心を暴露された上、そして一週間前、ガイアスに強制的に縛り付けられたアリエル。
起きたと思ったら顔を真っ赤に染めて負荷過剰を起こし気絶する。それを何度も繰り返した。
性悪なことに、令の巻いたロープはどうやったのか〈魔式〉を複雑に練り込み、時間経過で解ける仕組みになっていた。それ以外で無理やり解こうとすると、締まる。
解こうとすると締め付けられるので、解き方が分からず、そして令への連絡はつかず、極め付けに起きては気絶するといういつか悶死するんじゃないかと心配になるほど初心な乙女を背負わされ、途方に暮れていたところに、期限が来てあっさりと解けた。
ちなみに、ガイアスはそんなことがあったので、その日の令にした謝罪を青筋を浮かべながら撤回した。
そんな生き地獄――天国ともいうのだろうか――を味わったアリエルは、ガイアスの顔を見るたびに顔が爆発し、仕事が手につかなくなるはめになった。
なので、しばらくの間距離を取るためにガイアスがアリエルに令監視の任を与えた、というわけだ。アリエルは実務派だったのでそれほど机仕事が多くなかったことも幸いした。
そんなことがあったわけで、いろいろ、それはもういろいろな意味で、令に隔意があるアリエル。
最近、威嚇する猫のようにことあるごとに令と衝突するようになった。
今日に至っては、人通りの多い町中と来たものだ。
〈氷の殺人人形〉と呼ばれた彼女はどこにいったのだろう。
「貴女、止めてくれない?」
なんとなく居た堪れなくなったフレイナは、彼女が知る限りもっとも信頼されているであろう女性へと要請する。
彼女は苦笑すると、周囲に観戦客のでき始めた、人外同士の争いに目を向ける。
「私の言葉では、あの人は考慮するし、躊躇いもするでしょうけど、本当の意味で行動を制限することなんてありませんよ。―――というわけで、あの女の敵の敗北を二人で願いましょう」
言葉の後半から、急に黒い気配を発し始めたセフィリアから彼女は一歩距離を取ろうとし、だが後ろの彼女から距離を取ろうとすれば、過剰なほど闘気を発揮し全身を輝かせる狂戦士と悪魔相手に近づかざるをえないことに気付き、愕然とする。
「どうして私、こんなことになってるんだろ……」
前門の虎、後門の狼。そんな状況に自分が実際に落ちることになるとは、フレイナは考えたことすらなかった。
ついさっきまでの自分は、令に怯えに近い想いを抱いていたのに、そんなもの簡単に霧散してしまった。
本当に、どうしてこうなってしまったのか。
フレイナは考える。
「くっ……ひ、卑怯な……!」
「何を仰せられる。これしきの嘘に引っかかる方が悪いのだよ! アハハハハハハハハハっ! …………いや、正直俺も後ろを指さして『あ、ガイアス殿』なんて今時子供でも引っかからない手に引っかかるとは思わなかったから複雑だけどさ」
「あの人この間私が作った手料理を食べてなんて言ったと思います『おいしい』ええそれをきいた時は嬉しかったです良かったと思いましたそのあとの『こうすればもっといい』という実演を伴った言動さえなければね味付けをほんの少し変えたら本当においしくなったんですよあの時の女性としての誇りを汚された感覚は今も覚えてますそのくらいでどうしたですかそうですね本来なら落ち込みはしてもこうはなりませんよ……最後の悪意に満ち満ちたドヤ顔さえなければねッ!!」
そして結論を下した。
逃げた。
後ろのどす黒い気配で空気すらゆがませ始めた『未知』と、前の相手を降して背中を踏みにじり、複雑そうな顔で高笑いをする『魔王』から。
間違っても同類に思われたくなかった。
◇◆◇◆
路地裏まで来たところで、フレイナは壁を背にし、一息つく。
全く騒がしい。
これが、非常時が始まるまでの間続くと思うと、苦笑が漏れる。
だが、ふと思う。
どうして自分は、『笑った』のだろう。
これがもう、一週間続いている。
騒がしく、慌ただしい日常。
だが、それを思い返して出てくるのは、やはり苦笑。
おそらく、アリエルに聞いても同じ思いだろう。
さっきのような取っ組み合いは、もう二桁を数える。
だが、その時、彼と彼女が武器を取り出したことは一度もない。
はじめの数日、アリエルは令を射殺しそうなほどの権幕で睨んでいたにも関わらず、だ。
いまは、そのようなことがあったなど忘れたかのように振る舞えている。
「なんでだろ」
それが何に対する疑問なのか、フレイナ自身判然としなかった。
変わったらしいセフィリアか。変わったように見えるアリエルか。それとも変わらない令か?
普段の自分では考えられないほど、呆けた様子で空を眺め、そして理解する。
「なんで、私は変わったんだろ」
『以前』の自分ならば、このように空を眺めるなどしなかった。
それ以前に、あのような馬鹿騒ぎが起こったりすれば、間違いなく激怒して収束のために動いていた。
どうすれば止まるかなどいい。何かをしなければ、現実は変わらない。
そう思っていたし、今でもそう思う。
なのに、今の自分は動かなかった。
『動けない』のではなく、『動かなかった』。
無意識のうちに、こうした方がいいんだと、そう考えていたのが、落ち着いた今なら分かる。
あの場面で、フレイナの回りの人間は、誰も困っていなかった。
溜息があり、苦笑があり、そして、それらよりも少しだけ多い、笑顔があった。
街の人たちは不思議と町中で起きた問題を、誰も解決しようとはしなかった。
はやし立てる者、からかう者、形だけ止めようとする者、いろいろな想いがあった。
それを、どこか楽しんでみている自分がいた。
『以前』の自分であれば、考えられないことだった。
「なんで、私はレイと一緒にいられるんだろ」
頭の中では、令に対して隔意はない。
あれは自分が望んだ結果であり、相手にその責任はない。アリエルが死んだかと思ったときは信じられないほどの怨みを覚えたが、芝居だったことを知ればそんな思いも薄れた。
行動を読み切れなかった。こうなると考えなかった。甘い自分が悪い。
だが、それでも身体は令を相手にすると強張り、背中の剣を見ると眩暈がする。
これでも大分、改善されたのだ。
同行初日は、目すら合わせられず、近くに立つだけで極寒の地に居るかのように震えが止まらなかった。
そんな怯える小動物のようなフレイナを前にして、令は平常だった。
―――平常に、外道だった。
怯えて言葉を発せない彼女に、ここぞとばかりにネチネチネチネチ……嫌味と侮りの集中砲火を加えた。
相手の神経を逆なでし、怒りを煽る実に性格の悪い行動。
だが、不思議なことに怒り以外は抱かない。
普通は、あれだけ言われれば怒りと共に怨みや僻みといった、よくない感情も芽生えるのだが、それがない。
そして、その怒りが三日目辺りで、彼女の許容量を超えた。
有体に言って、爆発した。
自分の者とは思えない罵詈雑言を、今までの人生で用いたの数倍の量を、子供の文章以前の拙さで、フレイナは並べ立てた。
必死に、そうしなければ死ぬというくらい。
そして気が付いた時、フレイナの喉が掠れ、言葉を発せなくなったとき。
―――令は、笑っていた。
心の底から楽しそうに、しかし笑いをこらえ、無言で身体を震わせながらフレイナにどこからか取り出した喉薬を手渡し、走り去った。
令を見るたび、殺されそうになったときの令の無表情が過ぎり、フレイナの身体は震える。
そして、同時に、令のあの笑顔が頭から離れない。
令といるのは、はっきり言って不快だ。
それは断言出来る。悪口を言われて、気分が良い筈がない。
なのに、なぜか自分は、令のそばから離れようとは思わない。
親の言葉。王の命令。姉の存在。それらを理由とすることなく、自分は天秤にかけた上で、令の近くに居ることを選んでいる。
「なんでだろ」
何故か。彼女は考える。
どうしてこうも、自分は、アリエルは、セフィリアは、彼に『引き寄せられる』のだろう。
目を瞑り、令の今までの行動、言動を吟味する。
どれほどそうしていたか。彼女には分からない。
「…………透き通ってる?」
気が付けば、そんな言葉を発していた。
首を振って、今の自分の言葉を考える。
気が付いたら喉から零れていた結論だった。
自分で言っておきながら、その意味がつかめない。
「なんなんだろ」
そう言って、彼女は全身の力を抜く。
そういえば、自分の身体の調子が大分よくなった気がする。
前までは、全身の節々に不快感があったのに、それが今はない。
治療を受けるどころか、令に伸されて調子が良くなるなど可笑しい。
もう一つそういえば。そう思い、フレイナは腰のものに目を向ける。
神器〈ラディラ〉。
令に折られたはずなのに、その姿は些かの衰えもなく、フレイナの眼前にある。
いや、それはまだいい。
問題は、今のフレイナ、〈武器恐怖症〉であるフレイナで合っても、その刀身を眺めて何の怯えも抱かないということ。
例外なく、武器であれば身体がかすかに強張るのに、これだけが例外だった。
「なんなんだろ」
〈いま〉の自分と、〈まえ〉の自分の違いは。
そして何より。
「なんでだろ」
〈いま〉の、壊れた後の自分のほうが、好きになれているのは。
考えても、答えは出ない。
それがなんとなく、心地いい。
困惑以上の穏やかさに包まれ、彼女は思考の海を揺蕩う。
無意識の内に。
彼女は空を見上げていた。
―――遠く、広く、どこまでも『透き通った』大空を。
その自覚も、無いままに。