61話 彼が望むコト⑧ 収束
「……いえ、やっぱり聞かなかったことにしてください。
まだ私にはいうことが出来ない」
何かを言おうとした少年は言葉を濁す。
だが、一瞬だけ垣間見せた、濁りのない澄んだ瞳を男は確かに視た。
そこには少年が今まで見せたことのない、希望の光があった。
唐突に少年は立ち上がり、窓に向かう。
そして暗くなった夜空を見上げ、そのまま静かに右手を掲げた。
「征け」
そして、自身の身体に留まった小鳥たちに命じる。
「君たちには翼が在る。
俺には足が在る。
お互いにいつでも会うことができる。
お互いに前に進むことができる。
だから立ち止まるな。
だから停滞するな。
そうすることは何にも勝る悪癖なのだから」
まるで、自身に言い聞かせるかのように。
「だから、征け」
小鳥たちは一斉に飛び立つ。
なかには少年の頬に頬ずりするものもいた。
まるで少年に感謝の念を告げるかのように。
夜空を翔ける鳥たち。
窓辺に佇む少年。
それらが放つ、どこか近寄りがたい、それでいて心惹かれる光景。
それらは幻想的な印象を見る者に与えた。
「……『師匠』、いつか私の心の整理がついたら、お願いを聞いてくれますか」
少年は鳥たちが見えなくなった後も夜空を眺め、独白する。
どこか壮絶な想いを感じさせる声音と共に。
「……ああ。聞いてやるとも。
いくらでも、好きなだけな」
それに男は応える。
冷やかしやごまかしの情を一切籠めず、ただただ真摯に。
少年の顔に安堵の色が広がる。
「なあ、令。
いや、『夜の君』」
だが、唐突に珍妙な名称で呼ばれたことに少年、令は顔をしかめる。
「……何度聞いてもなれませんね、その呼び名」
「いいじゃねえの。
今のお前、そんな呼び名がぴったりだぜ?
その雰囲気も、言葉使いも」
―――そして、その在り方も。
「いえ、私個人としてはどう呼ばれようとどうでもいいのですが、それを言うのが貴方ですと違和感しか感じられないんですよ」
「……ほっとけ、一応自覚している」
事実、男は決して野卑ではないが、どちらかと言えば粗野な容貌であり、令の言うとおり詩的な言い回しがはっきり言って、まったく似合わない。
かなり失礼な発言だったが、男もそれを自覚しているために頷くよりなかった。
「まあそれで、お前の話を聞くことは約束してやる。
それと交換条件だ。
今は俺の話を聞け」
「交換、ですか?」
意外な男の言葉に、令は微かに驚きを見せる。
いつもならば男は令にそんなことを求めたりはしない。
これは、二人にのみ理解できるある符号。
つまり、それはこれから話す内容が、特別なものだということ。
男は令がそのことを理解していることを確認すると、訥々と語る。
「お前は強い。
そして賢い。
非才の身でありながら、良くそこまで行ったもんだよ。
今では大抵のことは一人でどうにか出来るだろうし、むしろこれからの人生で九割九分は一人でやったほうが上手く行くだろう」
そして男は動き、令の前に座りその瞳と正面から向き合う。
令が忌避すると同時に慈しむ、その右目をも。
「だが、お前は絶対に残りの一分で理不尽を経験する」
破滅の宣告。
それを聞いても、言葉にしても、二人に動揺や後悔はない。
「それは決して避けられない。
能力の問題ではない、何が悪いでもない。
ただそうならなければならないと決まっているかのように、この世界がお前を襲う。
そして高みに登っただけ、お前は失敗したとき誰よりも深く、大きく転落する」
他者よりも高みへ登れる。
それは素晴らしいことだろう。
だが、それは同時に愚かの極み。
もし、自分の立っている場所が見えていなかったなら。
もし、自分の分相応の高さを超えていたなら。
―――そしてもし、それらを理解している上で、敢えてそのようなコトをしているなら。
「……なんてことを言っても、お前は生き方を変えようなんてしねえよな」
「……ええ」
男の、諦観と呆れと微かな憤慨、そして大きな悲痛を秘めた顔から、少年は目を逸らす。
「だから、考えろ。
自分に何が出来るのか、そしてどうするべきか。
そして、俺がどういう意図でお前を『夜』とよぶのか」
だからこそ、男は次善策を提示する。
それは、最善策よりも遥かに難しく、長い道。
そんなものを敢えて選ぶのは、男の目の前の存在だけだろう。
「頭の片隅にでも覚えておけ。
いつか理解できればいい」
何も言わず聞き入っていた令だが、上手く飲み込めていそうになかった。
だがそれでも、必死に理解しようと努めている。
そのどうしようもなくひたむきで、そして不器用な様が、男には愛おしかった。
「……分かりました。
それにしても貴方は変わりませんね。
動じず、ただ淡々と己の我を通す。
普通の人だったら破滅宣告なんて遠慮して言えませんよ」
その批難とも取れる言葉に、男への批判の色はない。
このような人間だからこそ、令は付き従っているのだから。
「まあそんなもんだろ。
相手のことを必要以上に気にしても仕方がないし、我慢するのは性に合わん。
それに何より―――」
だからこそ、その返事も予想通りのもの。
「「その方が面白いだろ」」
男の言葉と、令の言葉が、綺麗に重なる。
そのことに男は一瞬驚いたように目を見開き、少年は意地の悪い笑みを浮かべる。
そして、どちらからともなく吹き出した。
一切の邪気を感じさせない声音と共に。
ひたすら楽しそうな笑顔と共に。
日は廻る、時は翔ける。
支配される者たちのことなど意に返さず。
後に、少年は予言の通り人生で二度目の理不尽を味わうことになる。
この時の少年の些細な願いが果たされることは―――永遠にない。
夕暮れに光に照らされながら、瓦礫の山の中一人の青年が佇む。
黙示録のような光景が周囲に広がろうと、それを意に返さず男は目の前の女性を見下ろしていた。
宝石を連想させる美しい青い髪は薄汚れ地面に広がり、シミ一つ無かった白い肌は腫れや擦り傷が無数に広がり、無事なところを探す方が難しい。
そんな彼女、セフィリアを見る令の表情は、前髪に隠れ伺うことは出来ない。
「………………気に入らないなあ」
ポツリと呟かれた言葉は空気へと融けていく。
「突然人が気にしていることをズバズバと指摘してきて。
それで俺が力で脅すようにしてもその裏に隠した秘密に感づいて。
そして最後にはそれか」
そして右手を自らの横につきだす。
「本当に、……憎たらしいよ。
『師匠』と同じで」
唐突に。
令に向かい、銀光が奔る。
そして甲高い衝突音、金臭い匂い。
いつの間にか、令の手にはナイフが握られ、その凶刃から主を守っていた。
「少々無粋がすぎないか、ガイアス殿。
人が感傷に浸っているというのに斬りかかるなど」
「そういうお前は戯れが過ぎる。
ここまでやられて俺たちが動かずに居るとでも思っているのか?」
「当然思っていない。
予定通りの文句を叩きつけて見ただけだ」
剣を持って斬りかかるガイアス、それをナイフで受け止める令。
謁見の時と似たような光景が繰り広げられる。
ただし、各々の雰囲気を逆にした状態で。
謁見では余裕のある態度でいたガイアスが、その表情を憤怒に歪める。
対して、冷や汗を流し内心動揺していた令は、氷のような能面である。
「安心した……! お前が切られる覚悟を決めていたということになっ!」
感情の激するままに繰り出されるガイアスの剣の嵐。
それを令は、障壁を張りながら、足りない分は両手にナイフを持ち、捌き、いなし、逸らしていく。
だが、それでも間に合わない。
両手に持っているナイフだが、片腕は《キキョウ》により傷ついている。
自業自得としかいいようがないが、そのせいでどうしても手数が減っているのだ。
故に、相手のただ一本の剣に有利である筈の手数ですら上回られる。
そして令の絶対防衛線である闘気の障壁が、再び張り直されるよりも早く、一撃の威力に一気に削り取られていく。
いくら手負いとはいえ、それでも令の障壁の強度は些かも衰えてはいない。
例え巨大な落石が降ってきたとしても、その壁の前には容易く防がれるだろう。
それでも、目の前の男の一太刀とは比べるべくもなく脆かった。
これが『剣王』。
これが戦士の国を統べる者の『力』。
「あっちの奴らは来ないのか?」
それを見せられながら、圧倒的に不利な状況に立たされながら。
令の顔には、未だに表情と呼べるものが存在しなかった。
いっそ、不気味なほどに。
「そう焦るな。あいつらにはあいつらの役割があるんだよ」
目の前の『王』が、逆に焦燥を感じるほどに。
その思いを振り払うように叫び、ガイアスは剣を一閃した。
そして、とうとう令を守っていた障壁がすべて破られた。
令は障壁を張るのにほとんど力をさいていない。
独自の理論により、凄まじいとしかいいようのない燃費の良さを実現した彼の障壁は、それゆえに瞬時に貼り直すことができる。
だが、その一瞬の間さえあれば、彼らには十分だった。
光の矢が、文字通り雨のように降り注ぐ。
数秒にも渡り、まるで滝が落ちるような轟音が辺りを支配し、やがて止む。
「これでいけたでしょうか?」
土煙だけが舞うその場に、新たな声が割り込んだ。
弓の『神器』を抱えたオルハウストが、ガイアスの近くに降り立つ。
「さあな。
どう思う、アリエル」
「……なんとも言えませんね。
防御手段を一時的に剥ぎ取った上での攻撃でしたから、普通に考えれば先ず問題なく撃破したと言えるのですが、この周囲の現状を創りだす様を見ていた身としては、確信が持てません」
ガイアスの声に答え、アリエルが《幽姫》を解き姿を現す。
アリエルは自身の身長ほどの長さを持った杖を構え、油断なく令の居た方を見つめる。
彼女は今回の一件を監視していた。
令はセフィリアに向かい、ガイアスたちがまるで全員混乱の処理に向かったかのように語っていたが、彼女だけはその場に留まり情報の収集に勤めていたのだ。
彼女からすれば、非常識ばかり見せつけられ、もはや常識とはなんだったのかすらわからなくなる思いだった。
だからこそ、先の攻撃でいったいコトがどう運ぶのか皆目検討がつかない。
「まあ考えても仕方ねえって。
どうせ直ぐに分かることだしよ」
「その通りだな。
ここまでされて黙っているわけにもいかん。
何をするにも、まず確保してからだ」
最後にザルツとガルディオルが現れ、ガイアスの両脇を固める。
ここに、デルト王国の最高戦力が集結したことになる。
中規模程度までの戦闘であれば、彼らだけで決戦力となれる『四剣』と『剣王』が。
だが、彼らの顔には一切の油断がない。
それほどまでに彼らは、令という唯一人の男を危険視していた。
「……来るな、奴が」
「少しは傷ついていることを期待しましょうか」
その警戒心を肯定するかのように、足音が近づいてくる。
何を警戒するでもなく、平静そのものの調子で。
もうもうと立ち込める土煙を、彼らは各々の『神器』を構え、睨みつけた。
そしてその彼らをしても、現れた彼の姿に、驚きが隠せなかった。
こちらの理解が及ばない力を使い、傷一つなく存在しているならば、覚悟していた。
多少の傷を負って、こちらが有利になっているならば、期待はしていた。
だがその姿は予想だにしていなかった。
致命傷と一目で分かる傷をその全身に負い、それでも平然としている。
矢に貫かれ、腹に穴が空いていた。
矢が掠めて、片腕がちぎれかけていた。
矢が突き刺さり、足から血を吹き出していた。
それにも関わらず、令は慌てる様子すら見せず、平然とこちらに向かってくる。
「今のはオルハウストの仕業か。
矢、というにはあまりにも実体に乏しいなこれは。
自身の生命力をそのまま物理エネルギーに転化した半実体弾か?」
血を垂れ流し、地面を濡らす。
今にも死にそうなのに、相変わらずの無表情でまるで世間話でもするかのように話しかけてくる。
それが、酷く不気味だった。
「……投降する気はあるか。
いくらお前でもその傷ではもう戦えまい」
冷静さを繕い、ガルディオルは降伏を促す。
「罪状は器物損壊か?」
「些か器物の規模が大き過ぎる気がするが、まあ間違ってはいないよ。
ただしそれに加え、あの大聖堂に居た司教の殺人未遂も上がっている。
こちらとしては、このままおとなしく捕まって欲しいんだが」
「未遂? 死んでいなかったのかあれで」
オルハウストが頼み込むように告げるも、令はまったく別のところに反応を示した。
「失敗した。
出力を弱めすぎたな、死ねば良かったのに」
そして続けられたあまりの言葉に、誰もが絶句する。
「貴方……! 神を祀る場を壊して、その信徒を殺しかけて、罪悪感はないの!?
これだけ神を冒涜しておきながら!」
そして、一番早く我に返ったアリエルが吼える。
彼は魔導士でもあるため、敬虔なスルス教の信徒でもあった。
本当ならば、神殿が破壊された時点で戦闘に割り込みたかったが、それでも命令により動くことができなかったのだ。
だからこそ、このようなことを仕出かして置きながら悪びれる様子の全くない令の態度が許せなかった。
「……神、それに信徒ときたか。
果たして本当に冒涜しているのはどちらだろうな。
少なくとも俺にはその司教はクズにしか思えないが」
それでも、令は冷たく一瞥をくれるだけ。
そして彼らが無視出来ない言葉を告げた。
「……どう言う意味だそれ?」
「さて、今日はもう疲れた。
詳しい話は明日な」
余程意外だったのだろう、この手の話とは最も縁遠そうなザルツすら、厳しい口調で詰め寄ってくる。
それを無視し、踵を返し立ち去ろうとする男。
だがそれは当然周りの者たちに妨げられる。
令の首の直ぐ手前に、剣が差し込まれ、それに加え、他の者に周囲を囲まれる。
だれもが今にも襲い掛かってきてもおかしくないほどの気迫をもって。
「逃せるわけがないだろうが。
これだけのコトをした犯人であり、さらに俺たちが知らない事実を知っているお前を」
彼らの場合、令を見逃すという選択肢はとれない。
王都を破壊した主犯を見逃しなどすれば、それだけで国の権威は地に落ちる。
犯人を確保し、しかる後に正当な裁きを下す。
それをしない限り、百歩譲ってこの場の者たちが納得したとしても、国民が絶対に納得しない。
「だろうな。
そして貴方たち六人を相手にしては、俺では力不足だし、こうして数で攻めるというのは間違いではない。
大正解だよ、ガイアス殿」
気のない拍手の音。
手のひらにまで血が付着しているために、乾いた音ではなく、ネチャネチャという湿った音が混じる。
その不快な音と、この絶体絶命の状態で尚も余裕を失わない態度に誰もが眉をひそめるが、ふと、言葉に隠された事実に気づく。
「六人だと?」
「そう。
予定どおり来てくれて助かったよ、俺としては」
令が瓦礫の山を見ながら言うと、彼女は観念したのか姿を現した。
「殿下!?」
「姫様!」
「あー、マズイなこりゃ」
「馬鹿が。
このような場に出てくるなど……」
デルト王国第一王女フレイナの登場に、驚き、目を見開き、瞑目し、吐き捨てる『四剣』。
「何故来たフレイナ」
彼らとは違い、ガイアスだけは目の前の驚異から目をそらさず睨みつけていた。
しかしその瞳には、娘に対する確かな憤りがある。
その怒りに怯みながらも、フレイナは厳しい表情を令に向けてきた。
「言う必要があるの、父様?
国をここまで滅茶苦茶にされて黙っているように教え込まれた覚えはないわ。
たとえ自分が役にたてなくても、その男に文句の一つは言いたかったの」
予想通りが過ぎる言葉を聞き、深くため息を突くガイアス。
フレイナの力は、この場の面々と比べても遜色あるものではない。
曲りなりにも、自身のかつての佩刀を受け継がせたのだから力がない筈がない。
だがそれでも、彼女には致命的な欠点があった。
それがこの場でどう働くのか全く検討がつかない。
先ほどの言葉からして、フレイナもそのことを理解しているのだろう。
だが、王として在れと教えてきた、ほかでもない自身の教えが、替えの聞かない後継者をここまで連れてきてしまった。
もう一度息を吐き、ガイアスは意識を切り替えた。
幸いというべきか、状況はこちらに有利となっている。
それならば、手早く終わらせてしまい、面倒ごとが起きる前に収拾をつけてしまおう、と。
「そう、『力』では負けているね、俺は」
この時ガイアスは、令を制したと認識していた。
それも当然だろう。
目の前の半死人をみて、これ以上なにかできると思う者などいない。
ただ唯一の誤算は―――
「だが、『強さ』で負けている気は微塵もないがね」
―――相手が、令という存在だったということ。
「『力』は所詮、勝負を決定づける一要素に過ぎない。
そう、勝つのは常に『強い』者だ」
その言葉と共に、地面が光る。
五つの頂点を持つ星型の魔法陣――五芒星が。
一体いつの間にやったのか、そう彼らが思うよりも早く、令の呟きにも似た言葉が漏れた。
「《天変万華》」
突如、地面が崩れた。
否、そう認識するほどに、地面が変化した。
液体のように柔らかくなり、そこに足が沈み込む。
当然、令を除いた六人の足が。
抜け出そうともがくも、まるで底なし沼のようにもがけばもがくほど沈み込んでいく。
そして彼ら彼女らを膝下まで飲み込んだところで、今度はまるで鋼鉄のように硬くなり、足を抜けなくする。
そしてそれに驚く暇すらも彼らは与えられなかった。
彼らを拘束した後、令は死にかけとは思えない俊敏さで彼らから距離をとり、自身の周囲に《ダビデ》を突き刺す。
六つの頂点が瞬時に光で結ばれ、令を取り囲む。
「《魔杯》」
そしてその身体をうっすらと光が覆い、致命傷がみるみるうちに癒えていく。
その光景にもがくことすら忘れ、彼らは呆然と見ていることしか出来なかった。
「さて、一気に形成逆転だな、諸君。
その拘束の強度は俺がオルト殿との一戦で使ったものの比ではない。
いくら貴方たちでもそれなりの時間が掛かる。
それと下手に動かないほうがいい、今の踏ん張りが効かない状態では、そちらの刃が届くよりも、俺が首を刎ねる方が早いぞ」
「お前……! 何故なんの前兆もなく魔法を行使できた!?
お前がいくら非常識とはいえ、前兆もなしにできるわけがない!」
一瞬で変わった趨勢にらしくもなく大声を出すガイアスだが、それも仕方がないだろう。
今まで令の使っていた大規模な魔法には、必ず前兆が存在していた。
身体の治療をした時にはそれがあったが、先ほどの地面が液状に変化した時には全く気づくことが出来なかった。
そんなことができるのならば、何故今までやらなかったのか。
その疑念が、百戦錬磨のガイアスをして、冷静さを失わせていた。
「俺には『力』という『強さ』はない。
だからそれとは別の『強さ』に縋っただけだ」
右手にナイフを持ち、真っ直ぐ前に伸ばす。
つい先ほどまでちぎれかけていた腕は完全に治っていた。
何が起きるのか検討がつかず、思わず注視するガイアスたち。
そして、右腕に幾何学模様が浮き上がり、ナイフが紫電を纏った。
すべてを拒絶するかのような強烈な稲光と、大気が裂けるような炸裂音。
それを見る者の中でも、アリエルの驚きは一入だった。
「そんな……。それはあの魔法具の補助がなくてはできないはずでは……」
アリエルは令が腕に《キキョウ》の刃を突き刺すところを見ていた。
腕を自ら傷つけるなど、戦いにおいて不利を誘うだけ。
だからこそ彼女はその行為に意味があると考え、そして《武御雷》の行使には、そうする必要があるのだと考えてしまった。
「だれもそんなことは言っていない。
そっちが勝手に勘違いしていただけだ」
その考えは、完全にドツボ。
《武御雷》の行使に必要だったのは、あらかじめ身体に仕込んでおいた《五光生紋》、それに魔力と闘気のみ。
令は《闘仙術》という存在しないものを口にすることで、特別なものなのだということを印象づけさせることにより、アリエルが『キキョウを右腕に突き刺すこと』を条件だと違和感なく認識できるようにしていたのだ。
「とはいえ、あれにはあれで意味はあったんだが」
右手を何かを掴むように握り、勢い良く引く。
すると周囲の瓦礫の中から、《キキョウ》が飛び出してきた。
その刀身を、主の血で染めて。
「俺が《グリモワール》を魔法を使う直前に投げるのは、長時間肉体から離れていると、籠めた魔力が霧散してしまうからだ。
だが、それならば宿主の肉体に代わるものを用意してやればいい」
それだけで周りの面々は、その代わりになるものの検討がついた。
だがそれを容易に信じることは出来ない。
あまりにもおぞましい考えだったからだ。
「そのためだけに片腕を、犠牲にしたの……?」
代わりとなるもの。
それは『血』。
血には、濃い魔力が溶け込んでいる。
それは公然の事実ではある。
だが、その事実を戦術に組み入れる者など今まで存在しなかった。
血が流れれば、体力が落ち、自身を危機に晒すことになるからだ。
戦いの最中に流れた血を、突発的に利用しようというのならばまだわかる。
「そうだ。
さっき言ったよな。
―――『予定通り』だって」
だがこの男はそうなるように、『予め定めた』上で大量の血を流したのだ。
そしてセフィリアと戦っている時に、無造作に投げ捨てているように見せかけて、《キキョウ》を配置していた。
今この時、自身よりも『力』ある者を追い詰めるために。
その発想に寒気を覚える。
目の前の男は、自身の身体を物事を有利に進めるための『道具』としか見ていない。
「…………なあグランド、いや、レイだったか」
だからこそ、ガイアスは冷や汗を流しながら告げる。
「今までみてきた中で、これほど『化物』という言葉を使いたくなったことはないぞ」
確かな、畏怖と共に。
目の前の存在は、微かに肩を竦めるのみ。
「さて、どうしたものか。
そういうわけで今諸君の命は俺の采配一つというわけだが」
先ほどとは逆に、ガイアスの首元に刃が突きつけられる。
すべてを消し去る、神罰の如き輝きが。
「ガイアス様!」
悲痛な叫びが上がった。
まるで想い人を心配するかのような、情愛に満ちた声音。
その声の主が誰のものなのか、令以外は咄嗟に思いつかなかった。
そういった感情とは最も無縁だと思えた者のものだったから。
全員が一斉に声の主を見やる。
「え、……へ、あう……」
その当人は、視線を向けられると、顔を赤く染めて下を向いてしまう。
「…………く、クク、アははははは!!」
令は肩を抱いて始め笑いを必死に堪えていたが、やがて堪えきれず吹き出した。
そしてひとしきり笑った後、顔を下げたまま《キキョウ》を周囲に解き放つ。
思いがけないことで惚けていたガイアスたちだったが、それを見て再度緊張を深める。
「《五芒桔梗印》完全展開。
変換範囲指定、自身を中心に半径一キロメートルと再設定。
変換物質指定、石。
変換様態指定、『始』固体、『過』液体、『結』固体。
変換形状指定、『結』直方」
言葉を紡ぐ度に、陣の光が強まっていく。
そしてまるで昼間のような明るさとなったとき―――
「《天変万華》」
――支配者の宣言がこだまする。
先ほどとは比べ物にならない激変。
周りを埋め尽くしていた瓦礫、残骸、かつての文明物たち。
それが、飴のように溶け、形を失っていく。
ガイアスたちの足元も含め、建造物の形を保っていたもの以外、すべてが溶けていく。
そしてすべてが液状と化したとき、第二の激変。
液体が硬度を取り戻して行き、見事な石材へと姿を変えていく。
それは大理石のような艶を持ち、元の石よりも遥かに強固な、高級な屋敷に使われていてもおかしくないような代物。
自身の常識が塗り替えられるかのようなその光景に、誰もが目を奪われる。
そして、知らずの内に拘束が解かれていたことに再度驚く。
「いや、楽しませてもらったよ。
おかげで多少は気が紛れた。
しかしやはり事前の準備なしで使うとなると時間がかかるなこれは。
これでは実戦には使えん」
いつの間にか令は、いつもの飄々とした空気を取り戻していた。
「何のつもりだよ。
なんで俺らを放した」
「なんだ。
死にたかったのか?」
「そういうわけでは無い。
だが分かっているだろう。
例えお前が俺たちを開放しようと、貴様を逃がす理由にはなりえんのだぞ」
最も厳つい顔をした二人が、厳しい視線を令へと向ける。
「それでも、戦いたくはなくなっただろう」
だが、令の一言に全員が渋面になる。
誰もがその言葉を否定することが出来なかった。
ここで逃がしたところで、それを恩に感じて、令を捕まえずにいることなど有り得ない。
だが、既に彼らは負けたのだ。
負けて、そして情けまでかけられた。
その上で取り押さえるなど、恥知らずとしか思えなかった。
―――その隙を、目の前の男は見逃さない。
「だからさ、諸君。
みんなが納得出来て、そして俺も無事この場を切り抜けられて、そんな万々歳な提案があるんだが、乗らないか?」
大仰な仕草でそんなことを言い出した。
全員が一体何をする気なのか、と令を注視する。
そして全員の視線が自身に留まったことを確認すると、令はニッコリと笑って―――
―――自身の右腕を、切り落とした。
「………………は?」
今日この日、ガイアスたちは自身の常識を超えた事態を何度も経験していた。
ほかでもない、目の前の男の手によって。
それでも、この展開は彼らの常識は愚か、彼らの認識すら根底から覆しかねない衝撃を与えた。
膨大な量の冷や汗をかく男。
息もあまり安定していない。
周囲の者は、その様を呆然と眺めることしか出来なかった。
「けじめ、だよ。
これで今日のところは、勘弁願いたい」
令は右腕を凍らせると、それをガイアスに差し出す。
それでガイアスは我に返る。
「っ! 貴様は一体何がしたいのだ!?」
もはやそれは怒号に等しい。
自身の常識が、目の前の存在と過ごせば過ごすほど音を立てて崩れていく。
無遠慮に、なんの呵責もなく己を徹す男。
それに耐えられなくなり、ガイアスは気がつけば叫んでしまっていた。
「冷静に考えれば直ぐに分かることだ。
俺は、最短の道を通ったに過ぎない」
だが、冷静な声が有無を言わさずガイアスに染み渡り、彼は熱を冷ました。
そして、令の言葉をこの上なく正しいと理解した。
ついさっき、令はガイアスたちに勝った。
そして彼らの中には、このまま戦うことの迷いが生まれていた。
そして令はそこにつけこんだ。
お互いが戦いたくないと思い、二の足を踏んでいる。
この膠着状態を脱するにはどうしたらいいか。
答えは簡単だ、理由を与えてやればいい。
それを目の前の男は、この一手で解決させてしまった。
この場合、ガイアスたちが懸念しているのは、対外的なデルトという国の信用の失陥である。
王都を破壊した犯罪者を逃がすような国など、誰も信用しないだろう。
令が先ほどから言っているとおり、明日その理由を説明するのであれば、問題無い。
一日程度であれば外に知られることはないし、捜査中と銘打てば数日は保つ。
令がそのまま逃げてしまえば、事件の解決はほぼ不可能なものとなるが、その場合は令の右腕が役に立つ。
実際に右腕を見せ、これだけ追い詰めたという事実を認めさせる。
その上で、これだけの手傷を負わせたのだからもう死んでいるとでも言えばいい。
実際に逮捕することが最善の手ではあり、国の信頼が失われるが、かろうじて許容範囲には収まるだろう。
そもそも、この場でガイアスたちが考える最悪の事態は、令という予測不能な爆弾が爆発することによるこの場に居るデルト上層部の全滅なのだ。
それに比べれば、その程度の信頼の失墜など問題にもならない。
何より、けじめという行動をとることで、彼らの中には今この場で争う気を完全になくなってしまった。
「…………オルハウスト、この王都で原因不明の大規模爆発が発生した。
直ちに調査団を組織し、原因の究明に当たれ」
「…………分かりました」
だからこそ、自身はこの提案に乗るしかない。
大きくため息を吐き、ガイアスはそう判断する。
「ザルツ、ガルディオル、周辺住民に被害がないかを私兵を持って調査。
明日までに報告書を作成し提出しろ」
「はあ……、リョウカイ」
「……いつか借りを返させてもらうぞ、小僧」
ザルツがやる気ななさそうな答えを返し、ガルディオルは令を睨む。
「アリエルは……とりあえず、フレイナの面倒を見てやってくれ」
「……はい」
ガイアスに話しかけられてぶり返したのか、また顔を熱を再燃させたアリエルが、猟奇的な場面を見せつけられて顔を青くしたフレイナを支える。
令はその場を立ち去るために気絶しているセフィリアを片手で器用に抱きとめる。
右肩からの出血は既にとまり、冷や汗もなくなっていた。
そして何も言わず、歩いていく。
今、ガイアスは原因不明といったのだ。
つまりそれは、令の存在をこの場にいないものとして扱うということ。
ここで下手なことを話して、話をややこしくするわけにはいかない。
「…………迷惑をかけます」
それでも、それだけを口にして令は去っていった。
後に、自身をジッと見つめる彼らと、片腕を残して。