58話 彼が望むコト⑤ 賭け
活動報告始めました。
これからはあっちメインでいこうと思います。
「なんで…………」
雨。
まるで天の底が抜けたかのような土砂降りの雨が、すべてを濡らす。
水というのは人にとって天然の敵と言える。
ただ身体に触れるだけで体温が奪われ、体力がなくなり、病へと発展する。
故に人は濡れることを嫌う。
それを誰もが理解しているために、生理的な嫌悪を感じるのだ。
「どうして…………」
なのにその少年は、濡れることも構わず呆然と呟き続ける。
いや、そもそも雨が降っていることにも気がついていないのかもしれない。
それほど今の彼の様子は尋常ではなかった。
顔からは一切の血の気が抜け、生気が感じられない。
目は瞳孔が開ききっており、まともに目の前の光景を認識できていないだろう。
だが、それでも彼は今の状況を何の問題なく認識出来ていた。
出来てしまっていた。
その両手が伝える生暖かい感覚。
雨粒とは違う、粘性が高くぬるりとした鉄臭い液体。
血。
彼の両手を濡らすそれが、彼が今抱きかかえている男がどのような状態なのかを如実に教えていた。
もう助からない、と。
「なんで…………」
少年は呟き続ける。
何故こうなったのか。
何が悪かったのか。
誰がこんなことをしたのか。
茫洋とした頭を、そんな思いがぐるぐると周り続ける。
「…………ひでえ顔してんなあ、おい」
「『 』さん!?」
今にも死にそうな男が言葉を紡ぐと、少年は驚く。
それほどまでに男の容態は悪かった。
だが、その言葉を聞いて少年の顔に生気が宿る。
目に光が戻り、男の名を必死の形相で叫ぶ。
もう失いたくは無かった。
理性が男が生き残る道が無いと確信しながらも、感情がそれを許さない。
拒絶する。
否定する。
討ち滅ぼす。
男が、かつての自分の家族と同じようにこれから死ぬという認識を。
それほど男は彼にとっての重要な部分を占めていたのだ。
この世でただ一人、彼が『敬意』を抱くのではなく『尊敬』をするほどに。
男と出会うまでの自分。
どこか機械のように、ただ『目的』を果たすために生きていた。
出会って変われた自分。
喜怒哀楽、忘れかけていた感情を理解できるようになれた。
だからこそ、考え続ける、念じ続ける。
何故こうなったのか。
何が悪かったのか。
誰がこんなことをしたのか。
その強い想いは、やがて対象への憎しみに昇華していく。
「がっ、がはっ、げほっ……!」
「な! 喋ろうとしないでください!
身体に……障ります……!」
男が何かを喋ろうとして咽せるのを見て、少年はそれを叱りつける。
身体に障るも何も、それ以前の問題。
それは理解しており、だからこそ後半の言葉は悲痛なものとなっていた。
だが、それでも口にせずにはいられなかった。
「きっと助かりますから……!
どうやってでも、どんな手を使っても……」
男に生きていてほしい。
ただその一心で彼は、心にもないことを口にし続ける。
「ははっ……」
男は笑う。
口の端から血を流しながら。
それは一体どのような意味が込められた笑みか。
みるみるうちに男の活力が失われていく。
身体の悲鳴を無視して、無理やり言葉を絞り出そうとしているが故に。
「だから止めてください!
これ以上自分で命をすり減らして何がしたいんですか!」
その様子に、とうとう少年は男を怒鳴りつけてしまう。
今や、少年が怒鳴るだけで命が尽きてしまいそうなほどまでに男は限界だった。
それでもその身を案じ、おもわず口が動いていた。
「いいんだよ……もう終わりなんだからな
だからせめて、これだけは言っておきたい……」
それに対するは、諦めの言葉。
「く……あ……あ……」
少年の想いは言葉にならず、呻き声となり溢れる。
感情だけでは現実は変わらない。
もうどうしようもないことはどうしようもない。
今なお、彼のなかには激情が溢れてそれを受け入れようとはしない。
「なん……です、か」
それでも彼は、聞くための言葉を搾り出した。
自身の感情よりも、男の意志を優先したかった。
自身の癇癪のような我が儘で、男の最期を穢すわけにはいかない。
その言葉を受けた男は、ほんの微かであるが、失われつつある自身に許された限りの笑顔を浮かべる。
少年の憧れた、どこまでも純粋な笑みを。
そして最期の一言を告げる。
「本当に、優しいなあ……お前は……」
それには一体どのような想いが籠められていたのか。
男はそう言い残し、笑いながら逝く。
その様子を少年は見ていなかった。
『優しい』。
その一言が、彼に突き刺さる。
―――何故こうなったのか。
少年が、『優しい』ために余計なことをしてしまったからだ。
―――何が悪かったのか。
少年が、『優しい』ためにあのとき人を見捨てられなかったことだ。
―――では。
―――誰がこんなことをしたのか。
簡単だ。
そう、あまりにも簡単すぎて、逆に気づけなかっただけ。
「『優しい』人である……俺自身……」
彼はその答えに行き着く。
その途端。
「………………………………あはっ」
彼の心の均衡は崩れ去る。
「あははっ……ははは、ハハハハっハハハハハハハハハハハッハハハハハッハ!!!」
男を抱きしめたまま、目を見開き、雨ではない液体で顔を濡らしながら彼は嗤う。
「アハハハハハハハッハハハハハッハッハハハハッハハハアハッハハハッハハ!!!」
天を仰ぎ、悲鳴のように、慟哭のように、ひたすらに笑う、哂う、嗤う。
あまりにも愚かな、自分自身を。
そんな自分のなかに、狂いながらも冷静な自分がいることに気がつく。
その自分は思考をやめず、今度は今回の解決策を模索する。
いや、答えはもう出ている。
『優しい』が故に、こうなった。
ならば対処は簡単だ。
捨てる。
その感情を。
その思いを。
たとえ捨てられずとも、認めない。
誰が指摘しようと、誰がそのことを賞賛しようと、自身は決してそのような感情をもっているとは認めない。
そうすれば、いずれ時間が解決する。
それが自分にとっての『普通』となりさえすれば、自分は自覚しなくてすむ。
(そう、この糞くだらない『もの』を……)
その考えに行き着き、少年は嗤うのを止める。
そのまま動きをとめ、どれほどの時間がたったか分からなくなるほどの時間を過ごす。
そして唐突に立ち上がり、男を優しく背負い、歩き出す。
少年は男の言葉の一側面しか見えなかった。
だがそれでも、厄介であることにその考えは間違いではない。
ほんの一部でも、男の言葉にそういった意図が含まれていたことに変わりはないのだから。
彼にとってはそれだけで十分だった。
いや、そもそも正しいかどうかなど彼には関係がないのだ。
いつも彼にとって重要なのは、自身がどう考えるか、感じるかということ。
少年にとっての真実は、他者の意見に依存せず、自分の心の中のみで完結している。
故に、少年の抱いたこの想いは彼にとって紛れのない真実である。
「そうですよね……『師匠』」
その言葉を聞くものは誰もいない。
少年の背の男も。
その言葉を無意識に発した、白骨のように白い髪で表情が隠れた少年自身も。
そして彼は歩き続ける。
まるで幽鬼のような足取りで。
―――いつの日か、自分が正されるその日まで。
セフィリアは目の前の光景が理解が出来なかった。
大聖堂が崩れた。
荘厳な建物には一直線の亀裂が走り、彼女の直ぐ脇の地面がなくなっていた。
そのことは『結果』として理解できる。
だが、その『原因』は完全に彼女の理解の外にあった。
魔法ならば理解出来る。
令が使う上位魔法、それを彼女は見たことがある。
あれならばこれだけの破壊など造作もないだろう。
だが、彼女の目の前の男。
本来の姿ではない、茶髪で白皙の肌。
人並みより長い長さであるその髪が目を隠し、その表情を窺い知ることは出来ない。
そして問題はその体勢。
人の身の丈を裕に超える刀身を持つ、白い布で固く包まれた剣。
それを右手一本で握り締め、振り下ろしている。
今の令の態勢から導かれる答えはただ一つ。
切ったのだ。
この巨大な建築物を。
規格外に大きいとはいえ、ただの剣で。
それだけでもおかしいというのに、ましてや片手で。
そのあまりに現実離れした光景は、セフィリアを凍りつかせるには十分だった。
「ははは……。
面白いこと言ってくれるな糞女」
そしてその声に籠められた激情がそれに拍車をかける。
令は顔を上げる。
「う、あ……」
そしてその目を見た瞬間、まるで心臓を握りつぶされたかのような錯覚を覚えた。
目は口ほどにものを言う。
まさにそれを体現したかのようなその在り方。
「優しい……?
そんなことがあってたまるか」
激情に満ちた、すべての感情を混ぜ込んだ『黒』。
『偽装』の虚飾を塗りつぶし、それだけが彼女を射抜く。
身動きが取れない。
少しでも刺激してしまえば、自分は終わってしまう。
そんなことを、彼女は本気で思った。
「あってはならないんだよそんなことは!
それじゃあ俺は何も変わっていないということだ!
あれだけ悲しんで!
あれだけ苦しんで!
あれだけ後悔して!
にも関わらず、それを教訓にすらできていないなどとあってたまるか!」
その目がセフィリアを、物理的な圧力すら伴ったと錯覚させるほど威圧する。
一歩引いただけでは逃れられない。
いや、例えどれだけ離れたとしてもその視線を感じてしまうだろうと思えるほどの、感情の噴火。
そう、噴火だ。
今まで溜め込んでいたものが、ここで一気に彼女へと襲いかかる。
「もしそうだとしたら、ならばあれはなんだった。
何の意味があった。
『あの人』の死が、何の意味が無かったとでも言いたいのかお前は!」
言葉の意味など理解できてはいない。
だが一言ごとに籠められた激情がセフィリアをどんどん追い詰める。
と、ここで令は突然剣を握っていない左手で顔を覆うと、しばらくの間停止する。
「これ以上言うようならば、俺はお前を殺す」
左手を顔から離して剣を持ち直して肩に担ぎ、殺害予告をしたときの令は先ほどまでよりも冷静そうに見えた。
だが依然その瞳は激したままである。
激情と冷静さをそのまま抱え込んだ令の姿は、その異質さが極まって一層不気味に見えた。
このままではこの感情だけで自身が壊れてしまうのではないか。
思わずセフィリアはそう錯覚してしまう。
(これは……早まりましたか……?)
冷や汗が自身の頬を伝うのを実感し、諦めの滲んだ乾いた笑みを浮かべてセフィリアは少し自分の行動を後悔する。
セフィリアは実を言うと、このような展開になるように意図的に仕組んでいた。
今まで話を通して彼女はあることを実感し、確信した。
だからこそ、セフィリアは令をわざと挑発した。
彼のこれまでの嗜好や行動、そして何より、今までの表情に影が出来た時のことを考え、気にしそうなことを推測し、そこを攻めて。
それは賭けだった。
それも相当に分の悪い。
そして彼女は賭けに勝った。
ただ、同時に問題もあった。
あまりに上手く行き過ぎたのだ。
彼女の言葉は、目の前の存在の根幹を為す部分を攻撃してしまった。
そしてそれが、悪い『なにか』を引きずりだしてしまった。
令はセフィリアを甘く見ていた。
だからこそ今、彼はこのような事態に陥っている。
だが、同時にセフィリアも令を甘く見ていた。
ただ目の前に在るだけで他者を蝕む威圧感。
単なる示威行為ですら周囲に甚大な損害を与えてしまう強大な力。
この存在を相手にすることが、とんでもなく馬鹿な行いに思えてくる。
正直、今すぐ逃げ出してしまいたかった。
(それでも……)
だが、それは自分の矜持に反する。
いや、彼女のなかに在るのは矜持などというご大層なものではない。
「それでも、私は言わせていただきます」
ただの、頑固さ。
他の者が聞いたら馬鹿にされそうなその理由。
彼女は元来、何かに対する執着が強い。
令に良く、許容を超えた質問をしてしまい脅されることもそれが原因。
そのため彼女は頑なになる。
一度決めたことを、ただひたすらに、頑固に、自分が納得出来るまで続けるのだ。
時にそのせいで危険に陥るのだが。
だが、果たしてそれが悪いことだろうか。
頑固と言えば聞こえは悪いが、それは一途ということでもある。
一途さは時に大きな力を人に与える。
ただ一つのことを見て、それに立ち向かう。
そして一途に見ているからこそ、彼女は本来誰よりも物事の真贋を見極めることに長けている。
今まではそれを表に出す機会も、自覚も無かった。
だが、皮肉にも令がその力を引き出した。
それを糧に、彼女は令に立ち向かう。
「いくら取り繕おうと、貴方の事実は変わりません」
視線に足が震えながらも、恐怖に呂律が回らなくなっていても、彼女は己の覚悟を見せつける。
「貴方がどれだけ嫌おうとも、その優しさは貴方にとっての事実です!
それなのに貴方が貴方を否定するのですか!
それで本当に何かを変えられると、この国を救えると思っているのですか!」
挫けそうになる心を、必死に奮い立たせる。
彼を視線に入れては何も言えなくなりそうだったから、目を固く閉じ、暗闇の恐怖に震えながら、叫びを上げる。
「エルスさんが言っていました。
自分が風邪を引いた時、ずっと傍に居てくれたと。
貴方はその時の彼女の笑顔を知っていますか?」
嬉しそうに、頬を染めて話してくれた。
申し訳ないことをしたのに、嬉しさがそれを上回ってしまうと自己嫌悪に浸りながら。
それでも本当に嬉しそうにしていたのをセフィリアは知っている。
「ルルさんが笑っていました。
見ず知らずの男性に、重い荷物を持っている女性に、困っている老人に、迷子の子どもに、彼らがあまり気にしないように気遣いまでして助けていたと。
貴方はその時の彼女の笑顔を知っていますか?」
楽しそうに、冗談めかしながら話してくれた。
あまり相手が気にしないように、彼らにとって決して痛手にならない程度の、それでいて相場より大分安い値段の料金をとったり、わざと腹立たせるようなことを言っていたと。
呆れたようにしながらも、親切にする令を誇りに思っていたことをセフィリアは知っている。
「クルスくんが決意していました。
いつの日か、何でも出来る貴方のような存在になりたいと。
まるで英雄に憧れるかのように、目を無邪気に輝かせていた彼の顔を貴方は知っていますか?」
深刻そうに、真剣な顔で話してくれた。
その表情と、令の武勇伝や親切話を口にする時の弾んだ声がおかしくて思わず大笑いしてしまった。
その時の膨れた年相応の顔と、『レイさんになるための百の方法』などという、その緻密な内容が現実味を持ちすぎていて、逆に胡散臭くなるような将来設計を真面目に考えていたことを彼女は知っている。
「貴方は知っていますか」
ここで一息吐き、目を閉じたまま深呼吸を繰り返す。
そして言う。
「貴方に『友達』と言われたことを、酔った勢いで暴れまわるほど喜んでいたレオンさんの泣き笑いを」
嬉しさで、泣きながら大声で話してくれた。
ネストの中に置かれた酒場で、酔った拍子に周りの酔っ払いと喧嘩した。
その酔っ払いは、令のことをよく知らないのにネストキーパーであるディックに良く呼ばれていたことに嫉妬したために悪口を言い、それでレオンがキレた。
その時に壊した備品は、彼が自腹で払った。
だが彼はそれを微塵も気にせず、払ったあとにそのまま近くに居たセフィリアに酔ったまま話した。
泣き顔で、その時の自分がどれだけ嬉しかったかを。
その時の彼の、希望に満ちあふれた顔を彼女は知っている。
そのまま彼女は叫ぶ。
「彼らにその思いを与えたのは誰ですか!
彼らがそう思うことが出来たのは何故ですか!
全部貴方がやったこと、全部貴方が優しかったからでしょうが!
それなのに貴方がそれを否定するんですか!?」
ただひたすらに、己の感情を。
自分がどれだけ大事なものを捨てようとしているのか。
それを知らしめるために。
セフィリアは、荒く息をする。
肩を上下させ、胸を抑え、肺に空気を送り込む。
そのまましばらく時が過ぎる。
「だからどうした」
セフィリアは目を開け、令に目を向ける。
一見、さっきまでと何一つ変わらない表情。
彼は何の感慨もなさそうに続ける。
「そんなことが分かっていないとでも思っていたのか?
とっくに理解している、そんなことは。
俺の行動で何を感じようとそちらの勝手だ。
好きに思うといい」
「だが、それに対しどう考えるかは俺の自由だ。
そして俺は優しさなど認めない。
『あの人』を、『師匠』を失う原因になった感情など、俺は認めない。
それを彼らがどう思おうともだ」
彼女は理解する。
彼の言葉の中に、どうしようない苦味があることを。
そして、彼が、すべての答えを出してしまっているということを。
それはどうしようも無く厄介だった。
大抵の者のように、知らないから間違うのではない。
一部の者のように、悪い部分から目を背けて間違うのではない。
間違っていることを知り、理解した上で、敢えてその道を選んでいる。
それは、他者に意見を左右されない。
普通の人間のように、間違いを認識させても止まることは絶対に無い。
そうだともう知ってしまっているから。
だからこそ、現状彼女に出来ることは何も無かった。
(やっぱり、こうするしかないんですね)
ある手段を除いて。
「貴方は私をまだ連れて行くつもりですか?」
セフィリアは令を見て尋ねる。
その言葉に令は答えない。
それが答えなのだろう。
それは、彼女にとっては好都合だった。
彼女は未だ衰えない威圧感を放つ令に向い、何とか笑みを創り話かける。
「ねえ令さん。
だったら賭けをしませんか?」
そして、あまりに馬鹿なことを提案する。
状況を理解しているものが見たら、卒倒しそうな内容を。