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悪役令嬢は、私の顔で笑っている

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/05

 その朝、オルフェリア・ルゼルヴァーンは、学園の廊下に一歩入った瞬間から、自分が昨日までの自分ではなくなっていることを知った。


 いいえ。


 正しくは、周囲がそう決めたのだと知った。


 白大理石の廊下。高い窓から差す朝の光。制服の裾を整えながら歩く令嬢たち。いつもなら彼女たちは、オルフェリアを見ると丁寧に膝を折る。恐れ半分、敬意半分。王太子リュシアン殿下の婚約者であり、ルゼルヴァーン公爵家の一人娘である彼女に対して、それは当然の礼だった。


 けれど今日は違った。


 彼女たちは礼をする前に、まず顔を強張らせた。


 道を空ける。


 目を伏せる。


 小さく囁く。


「……本当にいらしたわ」


「昨日のことがあったのに」


「平然としていらっしゃるのね」


 オルフェリアは足を止めなかった。


 顎を引きすぎず、背筋を伸ばしすぎず、歩幅は一定に。扇は右手に軽く添える。視線は真正面。王太子妃となる女は、廊下の噂ごときに振り返ってはならない。


 そう教えられてきた。


 幼い頃から、泣くな、怒るな、声を荒げるな、歩く時に裾を乱すな、笑う時に歯を見せるな、返事は半拍遅く、否定は一拍置いて、謝罪は深すぎず浅すぎず。


 オルフェリアらしく。


 ルゼルヴァーンの娘らしく。


 未来の王太子妃らしく。


 彼女はそうやって、少しずつ削られ、磨かれ、形を整えられてきた。


 だから、その日も彼女は完璧に歩いた。


 完璧に歩きながら、廊下の窓に映る自分の姿を見た。


 銀灰色の髪。紫がかった瞳。乱れのない襟元。いつもと同じ顔。


 ただ、ほんの一瞬。


 窓の中の自分だけが、こちらより先に瞬きをした気がした。


 教室へ入ると、空気が凍った。


 窓際に、聖女ミアベル・セレネが座っていた。薄金の髪を肩に垂らし、白い襟元に小さな青いリボンを結んだ少女である。最近、神殿から学園へ編入してきたばかりで、癒やしの力を持つと噂されている。


 彼女の頬に、薄い赤みがあった。


 叩かれたような跡。


 その隣には、王太子リュシアンが立っていた。美しく整った顔立ちに、不快と怒りを隠そうともしない。


「オルフェリア」


 名を呼ばれた。


 彼女はゆっくりと膝を折る。


「おはようございます、リュシアン殿下」


「昨夜、君はどこにいた」


 唐突な問いだった。


 周囲の生徒たちが息を詰める。


 オルフェリアは顔を上げた。


「昨夜でございますか」


「ああ」


「屋敷の自室におりました。夕食の後は、侍女に茶を運ばせ、刺繍をしてから休みました」


「温室には行っていないと?」


「温室?」


 彼女が聞き返した瞬間、ミアベルが小さく震えた。


 その震え方は美しかった。


 怯えた小鳥のように肩をすぼめ、けれど相手を責めるほど強くは見えない。守ってやらねばならない弱さ。誰もが手を差し伸べたくなるような可憐さ。


 リュシアンはミアベルの前に半歩出た。


「昨夜、君はミアベルを温室に呼び出した。私に近づくなと脅し、彼女の頬を打った。違うか」


 教室中の視線が、オルフェリアに突き刺さった。


 オルフェリアは一度だけ瞬きをした。


「違います」


「では、ミアベルが嘘をついていると?」


「私は昨夜、温室へ行っておりません」


「君を見た者がいる」


「見間違いでしょう」


「声も聞いている」


「似た声の者がいたのでしょう」


「君の扇が落ちていた」


 リュシアンが、机の上に何かを置いた。


 白蝶貝の扇。


 オルフェリアのものだった。


 昨日の朝、彼女が確かに持っていた扇。だが昨夜は、化粧台の上に置いたはずだった。今朝、支度の時には見当たらず、侍女が別の扇を用意した。


 オルフェリアは机の上の扇を見た。


 閉じられた扇の根元に、小さな赤い染みがある。


「……血でございますか」


 誰かが小さく悲鳴を漏らした。


 リュシアンの目が鋭くなる。


「それを私に聞くのか」


「殿下。私は存じません」


「君は昔から誇り高かった。だが、ここまで醜い振る舞いをする女だとは思わなかった」


 教室の空気が、ぴしりと割れる音がした気がした。


 オルフェリアは、頬を打たれたわけでもないのに、顔の片側が冷たくなった。


 何も言えないのではない。


 言葉はあった。


 私はやっていない。


 証拠をお調べください。


 屋敷の者に確認を。


 聖女様にも、もう一度詳しいお話を。


 けれど、それらの言葉が口から出る前に、周囲の目が答えを決めていた。


 やはり。


 ついに本性を。


 完璧すぎる女は、裏で何をするかわからない。


 王太子の婚約者が、聖女に嫉妬したのだ。


 物語は、もう完成していた。


 オルフェリアが何を言っても、そこに収まるように折り曲げられるだけだった。


 だから彼女は扇を手に取った。


 血の染みを見つめ、静かに閉じる。


「調査をお願いいたします」


「白々しい」


「私は、昨夜の件に関わっておりません」


 ミアベルが顔を上げた。


 涙で濡れた瞳が、まっすぐオルフェリアを見る。


「オルフェリア様」


 その声は震えていた。


「わたし、責めたいわけではないんです。ただ、どうしてあんなことをなさったのか、知りたくて」


「ですから、私は――」


「昨日のあなたは、少しだけ、違う方みたいでした」


 オルフェリアは口を閉じた。


 ミアベルの声は小さかったが、教室の全員に届いた。


「お顔も、お声も、全部オルフェリア様でした。でも、笑い方だけが……」


 彼女は言いよどんだ。


 リュシアンが優しく促す。


「無理に言わなくていい」


 ミアベルは首を振る。


「怖かったんです。まるで、オルフェリア様の形をした、別の何かみたいで」


 その瞬間、オルフェリアの背筋を、冷たいものが這った。


 別の何か。


 その言葉だけが、妙に耳に残った。


 それから、教室の窓ガラスに映る自分を見た。


 窓の中のオルフェリアは、こちらと同じ顔で立っている。


 けれど、その口元だけが、ほんのわずかに上がっていた。


 その日のうちに、噂は学園中へ広がった。


 オルフェリア・ルゼルヴァーンは聖女に嫉妬した。


 夜の温室で聖女を脅した。


 顔を打ち、血のついた扇を落とした。


 それでも平然と登校した。


 悪役令嬢。


 誰かが小さくそう囁いたのを、オルフェリアは聞いた。


 悪役令嬢。


 なんて、わかりやすい名だろう。


 午後になると、二つ目の噂が流れた。


 オルフェリアが、リュシアンの執務室前で泣き叫んだという。


「婚約を破棄しないで」


「聖女様を選ばないで」


「私を捨てるなら、あの方を殺してしまう」


 そう叫んだらしい。


 その時刻、オルフェリアは学園の図書室にいた。王国法制史の古い写本を読んでいた。貸出記録もある。司書も彼女を見ている。


 だが、執務室前で彼女を見た者もいた。


 声を聞いた者もいた。


 歩く時に右足から半歩出る癖。怒る時にも声を荒げず、語尾だけがわずかに落ちる癖。リュシアンを呼ぶ時だけ、殿下、の前に微かな息を置く癖。


 すべて、オルフェリアそのものだったという。


 さらに三つ目。


 夕刻、聖女の祈りの間に嫌がらせの手紙が置かれていた。


 筆跡はオルフェリアのもの。


 封蝋もルゼルヴァーン家のもの。


 文面は短かった。


 お前の場所ではない。


 その紙を見せられた時、オルフェリアは初めて、指先が震えた。


 筆跡が似ているのではない。


 自分の筆跡だった。


 左へ少し流れる癖。長い母音の終筆。幼い頃、家庭教師に何度も直されたのに直らなかった線。


 あまりにも自分の字だった。


 だが、もっと嫌だったのは、その一文が見覚えのない言葉ではなかったことだ。


 お前の場所ではない。


 そう言われてきたような気がした。


 声に出されずとも。


 いつも。


 どこでも。


 夜、屋敷へ戻ったオルフェリアは、侍女長を呼んだ。


「昨夜、私は部屋から出ましたか」


 侍女長エダは、白髪の混じった髪をきっちり結った女だった。母が亡くなってから、ずっとオルフェリアの身の回りを見てきた。


 エダは答える前に、妙な沈黙を挟んだ。


「……お嬢様は、お休みになられました」


「それは知っています。私が部屋から出たかと聞いています」


「いいえ」


「本当に?」


「はい」


「では、どうしてためらったの」


 エダは唇を引き結んだ。


 オルフェリアは椅子に腰かけたまま、彼女を見つめる。


「言いなさい」


 命じると、エダは小さく頭を下げた。


「昨夜、私はお嬢様が部屋にいらっしゃることを確認いたしました。寝台でお休みでした。呼吸も穏やかで、熱もありませんでした」


「ええ」


「ですが、その後で……廊下の奥に、お嬢様を見ました」


 部屋の燭台が、かすかに揺れた。


「私を?」


「はい」


「どこで」


「古い衣装部屋の前です」


 その部屋の名を聞いた瞬間、オルフェリアの胸の奥が重くなった。


 屋敷の東棟の端にある部屋。


 歴代のルゼルヴァーン家の女たちが使った衣装や宝飾品、古い肖像画、壊れた鏡をしまってある。幼い頃、近づいてはいけないと言われていた場所だった。


「あなたは、それを私に報告しなかった」


「お嬢様は寝台にいらっしゃいましたので」


「では、あなたが見たのは誰」


 エダは答えなかった。


 代わりに、手をぎゅっと握り込む。


「エダ」


「申し上げたくありません」


「命令です」


 エダは顔を上げた。


 その目には、オルフェリアが幼い頃から一度も見たことのない怯えがあった。


「替え影でございます」


「……替え影?」


「ルゼルヴァーン家の女たちだけが知る、古い言い伝えです」


 オルフェリアは扇を膝の上に置いた。


「続けて」


 エダは一度、扉の方を見た。誰もいないことを確かめるように。


「昔、王家に嫁ぐことを嫌がった令嬢がいたそうです。泣き、叫び、逃げようとした。けれど婚礼の朝、その方は別人のように穏やかになった。美しく、従順で、誰もが望む公爵令嬢そのものになったそうです」


「……それで?」


「家の者は喜びました。王家も喜びました。けれど、乳母だけが気づいた。笑う時だけ、その方はご本人ではなかったと」


 オルフェリアはゆっくりと息を吸った。


「替え影とは、何なの」


「存じません。ただ、言い伝えでは、人の顔を盗む影ではないと。人が望んだ姿を、その人の代わりに演じるものだと」


 人が望んだ姿。


 その言葉は、日中にミアベルが言った「別の何か」よりも深く、オルフェリアの胸に沈んだ。


「娘が家の望む姿から外れそうになると、古い衣装部屋から出ると聞いております。泣かない娘。怒らない娘。従順な婚約者。捨てられて当然の悪女。人々がそうあれと願った形を、影がかぶるのだと」


「馬鹿げています」


 そう言った自分の声は、思ったよりも冷えていた。


 エダはうなずかなかった。


「私も、そう思いたかった」


「では、昨夜あなたが見た私は」


「お嬢様のお顔をしていました。お嬢様のお声で、私に言いました」


「何と」


 エダの喉が震えた。


「『もう、お嬢様はお疲れでしょう。私が代わります』と」


 夜更け。


 屋敷の者たちが寝静まった後、オルフェリアは一人で東棟へ向かった。


 燭台は持たなかった。月明かりだけで十分だったし、火を持って歩けば誰かに見つかる。廊下の窓から差す青白い光が、絨毯の模様を水の底のように揺らしていた。


 歩くたび、窓に彼女の姿が映る。


 一枚目の窓では、横顔。


 二枚目の窓では、白い寝間着の裾。


 三枚目の窓では、こちらを見ている紫の瞳。


 オルフェリアは足を止めた。


 窓の中の自分は、まだ一歩先を歩いていた。


 すぐに月明かりが雲に隠れ、そこにはただ暗いガラスだけが残った。


 古い衣装部屋の前に立つ。


 扉は閉まっている。


 けれど、その向こうから音がした。


 布が擦れる音。


 誰かが、ドレスの裾を引きずって歩く音。


 それから、低い笑い声。


 オルフェリアは扉に手をかけた。


 冷たい。


 木製のはずなのに、まるで冬の湖面に触れたようだった。


 扉を開ける。


 中は暗かった。


 だが、窓から差す月明かりが、壁際に並ぶ鏡を照らしていた。金の縁取りが剥がれた鏡。ひびの入った鏡。曇って何も映さない鏡。床には古い衣装箱がいくつも積まれ、色褪せたドレスが半ば溢れている。


 空気に、古い香水と乾いた花の匂いが混じっていた。


 部屋の奥に、誰かが立っている。


 白い寝間着。


 長い銀灰色の髪。


 紫がかった瞳。


 細い首。


 オルフェリアと同じ顔。


 それは鏡に映った姿ではなかった。鏡の前に、確かに立っていた。


 相手はゆっくりと振り返る。


 そして、微笑んだ。


 オルフェリアは自分の笑顔を知っている。


 笑う時は、口角を上げすぎない。目元を緩めすぎない。頬に力を入れない。王太子妃となる女は、無邪気に笑ってはいけない。見下すように見えてもいけない。相手を安心させ、同時に距離を保つ笑み。


 目の前の女は、その笑みをしていた。


 完璧に。


 けれど、違った。


 その奥に、誰のものでもない空洞があった。


「こんばんは、オルフェリア」


 声も同じだった。


「あなたは誰」


「あなたですわ」


「違います」


「そうかしら」


 女は首を傾げた。


 その仕草も、オルフェリアが式典の退屈な挨拶を聞く時に使うものだった。


「では、わたくしは誰なのでしょう。あなたの顔をして、あなたの声を持ち、あなたの癖を覚え、あなたが望まれる通りに振る舞える。これでも、あなたではないと?」


「私は、聖女様を脅していない」


「ええ。あなたはしていない」


「殿下の前で泣き叫んでもいない」


「ええ。あなたは泣けませんもの」


 オルフェリアは息を止めた。


 女は楽しげに微笑む。


「あなたはお可哀想。幼い頃から、泣かないように作られた。怒らないように縫われた。声を荒げないように喉を締められた。だから、わたくしが代わりに叫んで差し上げました」


「余計なことを」


「本当に?」


 女は一歩近づいた。


 床板が軋む。


「殿下は、あなたが嫌いです」


 言葉は刃のように静かだった。


「完璧すぎて息が詰まる。正しくて、隙がなくて、自分の未熟を映す鏡のようで嫌い。けれど、あなたに何の落ち度もなければ、自分が悪者になってしまう。だから、あなたには悪女であってほしかった」


 オルフェリアは何も言わなかった。


「聖女様は、可憐な被害者でいたかった。皆に守られ、愛され、殿下の隣に立つ理由が欲しかった。だから、あなたには加害者であってほしかった」


「黙りなさい」


「貴族たちは、完璧な公爵令嬢が崩れるところを見たかった。高いところにいる女が、嫉妬で醜くなる姿を見たかった。だから、あなたには悪役であってほしかった」


「黙りなさい」


「お父様は、家のために差し出せる娘を望んだ。泣かず、怒らず、王家の隣に置いて恥ずかしくない人形を。だから、あなたには人間であってほしくなかった」


「黙れと言っているの!」


 声が響いた。


 衣装部屋の鏡が、かすかに震えた。


 オルフェリアは自分の声を聞いて驚いた。


 怒鳴った。


 生まれて初めてに近いほど、はっきりと。


 目の前の女は、嬉しそうに目を細めた。


「ほら。やっと少し、本物らしくなった」


 オルフェリアの指が冷たくなる。


「あなたは何がしたいの」


「生きたいのです」


「私として?」


「いいえ」


 女は首を振った。


「皆様が望むあなたとして」


 月明かりの中で、彼女の顔が揺れた。


 一瞬、オルフェリアの顔ではなくなった気がした。知らない令嬢の顔。古い肖像画に描かれた女の顔。幼い少女の顔。涙を流せなかった誰かの顔。


 瞬きすると、またオルフェリアに戻っていた。


「あなたは、わたくしを怪物だと思うでしょう。でも、わたくしを作ったのはあなたではありません。あなたを見ている人たちです」


「だから私の顔で罪を犯したの」


「罪?」


 女は笑った。


 それはオルフェリアの笑い方ではなかった。


 口元だけが笑い、目の奥がぽっかりと空いたまま、誰もいない部屋に向かって笑うような顔だった。


「違いますわ。望まれた物語を進めただけです。悪役令嬢は聖女に嫉妬する。王太子に縋る。証拠を残す。断罪される。そうすれば殿下は自由になり、聖女様は愛され、貴族たちは納得し、お父様は『残念な娘だった』と嘆いて責任を逃れられる」


 オルフェリアは目の前の顔を見つめた。


 自分の顔。


 自分よりも、自分らしく見える顔。


「あなたは、私を消すつもり?」


「消す必要などありません。皆様が選ばなくなれば、それはもう、いないのと同じです」


 女はオルフェリアの髪に触れようとした。


 オルフェリアは一歩下がった。


「明日の夜、王宮で断罪がございます」


「断罪?」


「殿下が皆様の前であなたの罪を告げます。婚約破棄もなさるでしょう」


「そんな話、私は聞いていない」


「あなたに聞かせる必要がなかったのです。主役は、わたくしですもの」


 女は、オルフェリアと同じ顔で、静かに笑った。


「お待ちしておりますわ。大広間で」


 次の瞬間、窓の外で雲が月を隠した。


 部屋が闇に沈む。


 オルフェリアが再び目を凝らした時、そこに女はいなかった。


 鏡だけが並んでいた。


 どの鏡にも、オルフェリアは映っていなかった。


 翌日の夜、王宮の大広間は華やかだった。


 天井から幾重にも垂れる水晶灯。壁一面の金細工。磨き上げられた床。香水と花と葡萄酒の匂い。貴族たちは美しい装いで集まり、すでに何かを期待している顔をしていた。


 王家主催の慈善夜会。


 表向きは、神殿への寄付を募るための宴。


 だが、誰もが知っていた。


 今夜、何かが起こる。


 オルフェリアが入場すると、ざわめきが波のように広がった。


 彼女は淡い銀色のドレスを着ていた。髪にはルゼルヴァーン家に伝わる紫水晶の髪飾り。首元には、公爵家の娘であることを示す宝石。


 王太子の婚約者として、何度も身につけてきたもの。


 今日は、それらが鎖のように重かった。


 広間の奥に、リュシアンがいた。


 隣にはミアベル。


 白いドレスを着た彼女は、まさに聖女だった。清らかで、か弱く、誰もが守るべき存在。頬の赤みはすでに消えていたが、彼女は時折そこに指を添え、痛みを思い出すように目を伏せた。


 それだけで、周囲の同情は彼女へ流れた。


 リュシアンが進み出た。


「オルフェリア・ルゼルヴァーン」


 広間の音楽が止まる。


 貴族たちは一斉に口を閉ざした。


 オルフェリアは膝を折る。


「はい、殿下」


「君に問う。聖女ミアベルへの数々の嫌がらせ、私への侮辱、偽書簡による脅迫、毒物の所持。これらを認めるか」


 予定通りだった。


 広間の端に父公爵の姿が見える。厳格な顔をしていたが、目は揺れていた。彼は娘を信じたいのではない。家名が傷つくことを恐れている顔だった。


 オルフェリアは静かに答えた。


「認めません」


 広間がざわめく。


 リュシアンは眉を寄せた。


「まだ白を切るのか」


「私は、そのようなことをしておりません」


「証拠は揃っている。君の扇、君の筆跡、君を見た者たちの証言。何より、ミアベル本人が――」


「殿下」


 オルフェリアはリュシアンの言葉を遮った。


 広間に、小さな驚きが走る。


 王太子の言葉を遮るなど、これまでの彼女ならあり得ないことだった。


「あなたは、私を見ましたか」


 リュシアンは一瞬、言葉に詰まった。


「何?」


「温室で聖女様を脅す私を。執務室の前で泣き叫ぶ私を。毒を持つ私を。あなたご自身の目で、ご覧になりましたか」


「目撃者がいる」


「あなたは見ていないのですね」


「証拠は――」


「殿下は、私がそうする女だと、信じたかっただけではありませんか」


 リュシアンの顔が赤くなった。


「無礼だぞ」


「無礼で結構です。どうせ今夜、私は無礼で醜く嫉妬深い悪役令嬢として断罪されるのでしょう?」


 誰かが息を呑んだ。


 リュシアンの瞳に怒りが宿る。


「君は変わった」


 その声は、どこか勝ち誇っていた。


「昔の君は、もっと誇り高かった。完璧で、気高く、誰よりも王太子妃にふさわしかった。だが今の君は――」


「今の私は?」


「私の知るオルフェリアではない」


 その時。


 広間の扉が、ゆっくりと開いた。


 風はなかった。


 それなのに、水晶灯の火が一斉に揺れた。


 貴族たちが振り返る。


 扉の向こうから、一人の令嬢が入ってきた。


 淡い銀色のドレス。


 紫水晶の髪飾り。


 銀灰色の髪。


 紫がかった瞳。


 オルフェリア・ルゼルヴァーンが、もう一人。


 広間が凍った。


 ミアベルが小さな悲鳴を上げる。


 父公爵が一歩前に出かけ、その場に止まる。


 リュシアンは、二人を見比べた。


 オルフェリアは、扉から現れた自分の顔を見た。


 替え影は完璧だった。


 歩き方も、視線の上げ方も、ドレスの裾を捌く指先も。本人であるオルフェリアが見ても、見事なほどだった。


 替え影は広間の中央で膝を折る。


 そして、涙を浮かべた。


「殿下」


 声が震えていた。


 美しい震えだった。


「どうか、お気をつけくださいませ。そちらは、わたくしの顔をした影です」


 貴族たちがざわめいた。


「では、どちらが」


「同じ顔だ」


「まさか、魔物か」


「いや、あちらの方が先に――」


 替え影は顔を上げた。


 涙に濡れた瞳で、まっすぐリュシアンを見る。


「わたくしは、ずっと閉じ込められておりました。そちらの影が、わたくしに成り代わって、聖女様を傷つけ、殿下を侮辱したのです」


 なんて上手なのだろう。


 オルフェリアは感心すらした。


 声の震わせ方。涙の量。言葉の選び方。自分を被害者に置きながら、相手を化け物にする間合い。


 それは、周囲が望むオルフェリアだった。


 誇り高く、美しく、けれど本当は傷ついていた令嬢。


 悪役として断罪されるにも、悲劇の婚約者として救われるにも都合がいい。


 リュシアンの目が揺れた。


 父公爵も、迷っていた。


 彼らは見分けられない。


 いいえ。


 見分けたいと思っていない。


 どちらが本物かではなく、どちらを選べば自分に都合がいいかを測っている。


 替え影はそれを知っていた。


 だから微笑んだ。


 オルフェリアの顔で。


「お父様」


 替え影が公爵に呼びかける。


「わたくしです。幼い頃、母の葬儀の夜に、泣いてはいけないとお父様に言われました。わたくしは泣きませんでした。だから、お父様は褒めてくださいましたね」


 父公爵の顔が歪んだ。


 それは本当の記憶だった。


 オルフェリアしか知らないはずの記憶。


 替え影は続けた。


「殿下。十歳の春、初めて王宮の庭でお会いした時、あなたはわたくしに、笑わないのかとおっしゃいました。わたくしは、未来の王太子妃はむやみに笑わないものですと答えました」


 リュシアンの喉が動く。


 それも本当だった。


 替え影は、記憶まで持っている。


 いや、違う。


 あれは記憶を盗んだのではない。


 周囲が覚えている“オルフェリア”を着ているのだ。


 父の中の娘。


 王太子の中の婚約者。


 貴族たちの中の悪役令嬢。


 それらを縫い合わせて、オルフェリアよりもオルフェリアらしく立っている。


 替え影が、今度はオルフェリアを見る。


「もうおやめなさい。わたくしの顔で、これ以上罪を重ねないで」


 広間の空気が傾いた。


 貴族たちは、替え影を信じ始めていた。


 なぜなら、替え影の方がわかりやすいからだ。


 美しく泣く本物。


 醜く黙る偽物。


 物語として、そちらの方が整っている。


 リュシアンが口を開いた。


「オルフェリア」


 二人が同時に彼を見る。


 リュシアンは迷った。


 その迷いが、答えだった。


 オルフェリアは笑った。


 広間中の視線が彼女に集まる。


 替え影も、笑みを消した。


「殿下」


 オルフェリアは静かに言った。


「どうぞお選びくださいませ」


「何を」


「あなたが婚約者と呼んでいたのは、わたくしですか。それとも、あなたに都合よく悪女になってくれる、わたくしの顔をした何かですか」


 リュシアンは答えなかった。


「お父様」


 今度は父を見る。


「あなたが育てた娘は、ここにいるわたくしですか。それとも、泣かず、怒らず、家のために差し出される人形ですか」


 父も答えなかった。


 オルフェリアは広間を見渡した。


 誰も、彼女の目を見なかった。


 それで十分だった。


「皆様も、どうぞご覧くださいませ。悪役令嬢は、どちらに見えますか」


 沈黙。


 答えはない。


 けれど、答えはあった。


 彼らは替え影を選びかけている。


 オルフェリアは、その事実に傷つくと思っていた。


 だが不思議なことに、胸の奥は静かだった。


 冷え切っていたわけではない。


 むしろ、初めて息ができた。


 自分を見てもらえなかったのではない。


 最初から、誰も見ていなかった。


 ならば、見せる必要もない。


 オルフェリアは髪に手を伸ばした。


 紫水晶の髪飾りを外す。


 父公爵が目を見開いた。


「オルフェリア、何を――」


 彼女は答えなかった。


 次に首飾りを外す。


 ルゼルヴァーン家の紋章が刻まれた宝石。幼い頃から、式典のたびにつけさせられたもの。


 それを床に置く。


 小さな音が、大広間に響いた。


 替え影の顔が強張った。


「何をしているの」


「差し上げますわ」


 オルフェリアは替え影を見た。


「わたくしの顔も、名前も、婚約者も、公爵令嬢の立場も、悪役令嬢の役目も。欲しかったのでしょう? どうぞ、すべて差し上げます」


 替え影が一歩下がった。


「やめなさい」


「なぜ?」


「それは、あなたのものでしょう」


「いいえ」


 オルフェリアは微笑んだ。


 今度は、教えられた通りではなく。


「あなたが言ったのです。皆様が望んだわたくしなのだと。ならば、それはもう、わたくしのものではありません」


 替え影の唇が震えた。


「やめて」


「オルフェリア・ルゼルヴァーンは差し上げます。王太子殿下の婚約者も、嫉妬深い悪女も、断罪されるべき令嬢も。あなたにぴったりですわ」


「違う」


「違わないでしょう。あなたの方が、ずっと上手に笑っている」


 替え影の顔が崩れ始めた。


 最初は口元だった。


 オルフェリアと同じ形をしていた唇が、別の誰かのものに変わる。次に目元。頬。髪の色。輪郭。


 広間の貴族たちが悲鳴を上げた。


 替え影は両手で顔を押さえる。


「いや」


 声が幾重にも重なった。


 少女の声。


 若い女の声。


 老いた女の声。


 泣きたかった声。


 怒りたかった声。


 言えなかった声。


「いや、いや、わたくしは、あなたとして、あなたの代わりに、皆様の望む通りに――」


「ご苦労様」


 オルフェリアは言った。


「もう終わりです」


 壁際の鏡が、一枚割れた。


 続いて、二枚目。


 三枚目。


 大広間に飾られていた鏡という鏡が、内側から叩かれたように割れていく。破片が床に散り、水晶灯の光を受けて星のように光った。


 替え影はその中央で、いくつもの顔に変わった。


 古い肖像画の令嬢。


 婚礼衣装の女。


 子供のまま泣いている少女。


 目を伏せた母。


 知らない誰か。


 そして最後に、もう一度オルフェリアの顔になった。


 替え影は笑った。


 それは、勝者の笑みではなかった。


 役目から解かれた者の、空っぽな笑みだった。


「……あなたは、どこへ行くの」


 替え影が尋ねた。


 オルフェリアは少し考えた。


「私の顔で笑える場所へ」


 替え影は目を細めた。


 次の瞬間、床に落ちた鏡の破片が光を弾き、替え影の姿はほどけるように消えた。


 広間には、悲鳴も怒号もなかった。


 皆、ただ立ち尽くしていた。


 リュシアンが一歩近づく。


「オルフェリア」


「その名は差し上げました」


「待ってくれ。今のは、何だったのだ。私は、君を誤解して――」


「誤解?」


 彼女は振り返った。


 リュシアンが息を呑む。


「殿下は私を見ていなかった。だから、誤る対象もございません」


「違う、私は」


「いいえ。あなたは、あなたに都合のよい私だけを見ていました」


 父公爵も歩み寄った。


「戻りなさい。お前はルゼルヴァーン家の娘だ」


「それも、先ほど床に置きました」


「何を馬鹿なことを」


「お父様」


 彼女は父を見た。


「私は、母の葬儀の夜、本当は泣きたかったのです」


 父公爵の顔が強張る。


「けれど、あなたは褒めました。泣かなかった私を。だから私は、泣けない娘になりました」


「それは、お前のために」


 オルフェリアは首を横に振った。


「お父様は、泣かなかった私だけを娘にしたのです」


 父は黙った。


 オルフェリアはもう何も言わなかった。


 広間を歩く。


 誰も止められなかった。


 床に散った鏡の破片が、彼女の足元で小さく鳴る。その一つに、彼女の顔が映った。


 宝石を外し、髪飾りを失い、王太子の隣に立つための笑みを捨てた顔。


 誰のものでもない顔。


 彼女は、その破片を拾わなかった。


 王宮の扉を出ると、夜明け前の空が薄青くなっていた。


 庭の薔薇はまだ眠っている。


 遠くで鳥が一羽鳴いた。


 背後から、誰かが彼女の名を呼んだ気がした。


 オルフェリア。


 オルフェリア。


 だが、それはもう彼女の名ではなかった。


 彼女は振り返らなかった。


 王宮の大広間では、誰も動けずにいた。


 リュシアンは割れた鏡の前に立ち尽くし、父公爵は床に置かれた紫水晶の髪飾りを見下ろしていた。貴族たちは互いに顔を見合わせ、今見たものをどう語れば自分たちが悪く見えないか、もう考え始めていた。


 魔物が出たのだ。


 公爵令嬢は取り憑かれていたのだ。


 王太子殿下は騙されていたのだ。


 聖女様は被害者だったのだ。


 誰かが囁いたわけではない。


 それでも、広間のあちこちで、同じ形の言い訳が生まれ始めていた。


 その中で、聖女ミアベルだけが膝をついていた。


 彼女の白いドレスの裾に、鏡の破片が散っている。


「……終わった、の?」


 小さな声だった。


 誰も答えなかった。


 ミアベルは震える指で、破片を一つ拾った。


 そこには、自分の顔が映るはずだった。


 涙で濡れた瞳。


 血の気を失った頬。


 恐怖で歪んだ唇。


 けれど、鏡の中のミアベルは泣いていなかった。


 清らかに微笑んでいた。


 誰もが守りたくなるように、可憐に。


 傷つけられてなお人を許す、聖女そのものの顔で。


 ミアベルの唇は動いていない。


 それなのに、鏡の中の彼女だけが口を開いた。


「あなたの形なら、きっと愛されると思ったの」


 ミアベルは悲鳴を上げた。


 しかし、周囲の貴族たちは振り返らなかった。


 彼女の悲鳴は、聖女らしくなかったから。


 夜明け前の王宮に、その声が吸い込まれていく。


 鏡の中の聖女だけが、聖女らしく笑っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


「自分と同じ顔をした何か」と「周囲が望む役割」を軸にした、悪役令嬢もののホラーとして書いてみました。


誰かに決めつけられた姿。 誰かに望まれた振る舞い。 いつの間にか、自分よりも“それらしい自分”の方が本物のように扱われてしまう怖さ。


悪役令嬢も、聖女も、令嬢も、婚約者も、名前がついた瞬間に逃げ場を失うことがあるのかもしれません。


今回も、とある曲の雰囲気から着想を得ています。 直接なぞるというより、そこから受け取った「似ている何か」「奪われる顔」「役を被せられる不気味さ」を、悪役令嬢ホラーとして膨らませました。


少しでもゾワッとしていただけたなら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
これ、続編も気になりますね 名前を捨てた令嬢だけでなく聖女がどうなるのかも見たいです
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