悪役令嬢は、私の顔で笑っている
その朝、オルフェリア・ルゼルヴァーンは、学園の廊下に一歩入った瞬間から、自分が昨日までの自分ではなくなっていることを知った。
いいえ。
正しくは、周囲がそう決めたのだと知った。
白大理石の廊下。高い窓から差す朝の光。制服の裾を整えながら歩く令嬢たち。いつもなら彼女たちは、オルフェリアを見ると丁寧に膝を折る。恐れ半分、敬意半分。王太子リュシアン殿下の婚約者であり、ルゼルヴァーン公爵家の一人娘である彼女に対して、それは当然の礼だった。
けれど今日は違った。
彼女たちは礼をする前に、まず顔を強張らせた。
道を空ける。
目を伏せる。
小さく囁く。
「……本当にいらしたわ」
「昨日のことがあったのに」
「平然としていらっしゃるのね」
オルフェリアは足を止めなかった。
顎を引きすぎず、背筋を伸ばしすぎず、歩幅は一定に。扇は右手に軽く添える。視線は真正面。王太子妃となる女は、廊下の噂ごときに振り返ってはならない。
そう教えられてきた。
幼い頃から、泣くな、怒るな、声を荒げるな、歩く時に裾を乱すな、笑う時に歯を見せるな、返事は半拍遅く、否定は一拍置いて、謝罪は深すぎず浅すぎず。
オルフェリアらしく。
ルゼルヴァーンの娘らしく。
未来の王太子妃らしく。
彼女はそうやって、少しずつ削られ、磨かれ、形を整えられてきた。
だから、その日も彼女は完璧に歩いた。
完璧に歩きながら、廊下の窓に映る自分の姿を見た。
銀灰色の髪。紫がかった瞳。乱れのない襟元。いつもと同じ顔。
ただ、ほんの一瞬。
窓の中の自分だけが、こちらより先に瞬きをした気がした。
教室へ入ると、空気が凍った。
窓際に、聖女ミアベル・セレネが座っていた。薄金の髪を肩に垂らし、白い襟元に小さな青いリボンを結んだ少女である。最近、神殿から学園へ編入してきたばかりで、癒やしの力を持つと噂されている。
彼女の頬に、薄い赤みがあった。
叩かれたような跡。
その隣には、王太子リュシアンが立っていた。美しく整った顔立ちに、不快と怒りを隠そうともしない。
「オルフェリア」
名を呼ばれた。
彼女はゆっくりと膝を折る。
「おはようございます、リュシアン殿下」
「昨夜、君はどこにいた」
唐突な問いだった。
周囲の生徒たちが息を詰める。
オルフェリアは顔を上げた。
「昨夜でございますか」
「ああ」
「屋敷の自室におりました。夕食の後は、侍女に茶を運ばせ、刺繍をしてから休みました」
「温室には行っていないと?」
「温室?」
彼女が聞き返した瞬間、ミアベルが小さく震えた。
その震え方は美しかった。
怯えた小鳥のように肩をすぼめ、けれど相手を責めるほど強くは見えない。守ってやらねばならない弱さ。誰もが手を差し伸べたくなるような可憐さ。
リュシアンはミアベルの前に半歩出た。
「昨夜、君はミアベルを温室に呼び出した。私に近づくなと脅し、彼女の頬を打った。違うか」
教室中の視線が、オルフェリアに突き刺さった。
オルフェリアは一度だけ瞬きをした。
「違います」
「では、ミアベルが嘘をついていると?」
「私は昨夜、温室へ行っておりません」
「君を見た者がいる」
「見間違いでしょう」
「声も聞いている」
「似た声の者がいたのでしょう」
「君の扇が落ちていた」
リュシアンが、机の上に何かを置いた。
白蝶貝の扇。
オルフェリアのものだった。
昨日の朝、彼女が確かに持っていた扇。だが昨夜は、化粧台の上に置いたはずだった。今朝、支度の時には見当たらず、侍女が別の扇を用意した。
オルフェリアは机の上の扇を見た。
閉じられた扇の根元に、小さな赤い染みがある。
「……血でございますか」
誰かが小さく悲鳴を漏らした。
リュシアンの目が鋭くなる。
「それを私に聞くのか」
「殿下。私は存じません」
「君は昔から誇り高かった。だが、ここまで醜い振る舞いをする女だとは思わなかった」
教室の空気が、ぴしりと割れる音がした気がした。
オルフェリアは、頬を打たれたわけでもないのに、顔の片側が冷たくなった。
何も言えないのではない。
言葉はあった。
私はやっていない。
証拠をお調べください。
屋敷の者に確認を。
聖女様にも、もう一度詳しいお話を。
けれど、それらの言葉が口から出る前に、周囲の目が答えを決めていた。
やはり。
ついに本性を。
完璧すぎる女は、裏で何をするかわからない。
王太子の婚約者が、聖女に嫉妬したのだ。
物語は、もう完成していた。
オルフェリアが何を言っても、そこに収まるように折り曲げられるだけだった。
だから彼女は扇を手に取った。
血の染みを見つめ、静かに閉じる。
「調査をお願いいたします」
「白々しい」
「私は、昨夜の件に関わっておりません」
ミアベルが顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、まっすぐオルフェリアを見る。
「オルフェリア様」
その声は震えていた。
「わたし、責めたいわけではないんです。ただ、どうしてあんなことをなさったのか、知りたくて」
「ですから、私は――」
「昨日のあなたは、少しだけ、違う方みたいでした」
オルフェリアは口を閉じた。
ミアベルの声は小さかったが、教室の全員に届いた。
「お顔も、お声も、全部オルフェリア様でした。でも、笑い方だけが……」
彼女は言いよどんだ。
リュシアンが優しく促す。
「無理に言わなくていい」
ミアベルは首を振る。
「怖かったんです。まるで、オルフェリア様の形をした、別の何かみたいで」
その瞬間、オルフェリアの背筋を、冷たいものが這った。
別の何か。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
それから、教室の窓ガラスに映る自分を見た。
窓の中のオルフェリアは、こちらと同じ顔で立っている。
けれど、その口元だけが、ほんのわずかに上がっていた。
その日のうちに、噂は学園中へ広がった。
オルフェリア・ルゼルヴァーンは聖女に嫉妬した。
夜の温室で聖女を脅した。
顔を打ち、血のついた扇を落とした。
それでも平然と登校した。
悪役令嬢。
誰かが小さくそう囁いたのを、オルフェリアは聞いた。
悪役令嬢。
なんて、わかりやすい名だろう。
午後になると、二つ目の噂が流れた。
オルフェリアが、リュシアンの執務室前で泣き叫んだという。
「婚約を破棄しないで」
「聖女様を選ばないで」
「私を捨てるなら、あの方を殺してしまう」
そう叫んだらしい。
その時刻、オルフェリアは学園の図書室にいた。王国法制史の古い写本を読んでいた。貸出記録もある。司書も彼女を見ている。
だが、執務室前で彼女を見た者もいた。
声を聞いた者もいた。
歩く時に右足から半歩出る癖。怒る時にも声を荒げず、語尾だけがわずかに落ちる癖。リュシアンを呼ぶ時だけ、殿下、の前に微かな息を置く癖。
すべて、オルフェリアそのものだったという。
さらに三つ目。
夕刻、聖女の祈りの間に嫌がらせの手紙が置かれていた。
筆跡はオルフェリアのもの。
封蝋もルゼルヴァーン家のもの。
文面は短かった。
お前の場所ではない。
その紙を見せられた時、オルフェリアは初めて、指先が震えた。
筆跡が似ているのではない。
自分の筆跡だった。
左へ少し流れる癖。長い母音の終筆。幼い頃、家庭教師に何度も直されたのに直らなかった線。
あまりにも自分の字だった。
だが、もっと嫌だったのは、その一文が見覚えのない言葉ではなかったことだ。
お前の場所ではない。
そう言われてきたような気がした。
声に出されずとも。
いつも。
どこでも。
夜、屋敷へ戻ったオルフェリアは、侍女長を呼んだ。
「昨夜、私は部屋から出ましたか」
侍女長エダは、白髪の混じった髪をきっちり結った女だった。母が亡くなってから、ずっとオルフェリアの身の回りを見てきた。
エダは答える前に、妙な沈黙を挟んだ。
「……お嬢様は、お休みになられました」
「それは知っています。私が部屋から出たかと聞いています」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「では、どうしてためらったの」
エダは唇を引き結んだ。
オルフェリアは椅子に腰かけたまま、彼女を見つめる。
「言いなさい」
命じると、エダは小さく頭を下げた。
「昨夜、私はお嬢様が部屋にいらっしゃることを確認いたしました。寝台でお休みでした。呼吸も穏やかで、熱もありませんでした」
「ええ」
「ですが、その後で……廊下の奥に、お嬢様を見ました」
部屋の燭台が、かすかに揺れた。
「私を?」
「はい」
「どこで」
「古い衣装部屋の前です」
その部屋の名を聞いた瞬間、オルフェリアの胸の奥が重くなった。
屋敷の東棟の端にある部屋。
歴代のルゼルヴァーン家の女たちが使った衣装や宝飾品、古い肖像画、壊れた鏡をしまってある。幼い頃、近づいてはいけないと言われていた場所だった。
「あなたは、それを私に報告しなかった」
「お嬢様は寝台にいらっしゃいましたので」
「では、あなたが見たのは誰」
エダは答えなかった。
代わりに、手をぎゅっと握り込む。
「エダ」
「申し上げたくありません」
「命令です」
エダは顔を上げた。
その目には、オルフェリアが幼い頃から一度も見たことのない怯えがあった。
「替え影でございます」
「……替え影?」
「ルゼルヴァーン家の女たちだけが知る、古い言い伝えです」
オルフェリアは扇を膝の上に置いた。
「続けて」
エダは一度、扉の方を見た。誰もいないことを確かめるように。
「昔、王家に嫁ぐことを嫌がった令嬢がいたそうです。泣き、叫び、逃げようとした。けれど婚礼の朝、その方は別人のように穏やかになった。美しく、従順で、誰もが望む公爵令嬢そのものになったそうです」
「……それで?」
「家の者は喜びました。王家も喜びました。けれど、乳母だけが気づいた。笑う時だけ、その方はご本人ではなかったと」
オルフェリアはゆっくりと息を吸った。
「替え影とは、何なの」
「存じません。ただ、言い伝えでは、人の顔を盗む影ではないと。人が望んだ姿を、その人の代わりに演じるものだと」
人が望んだ姿。
その言葉は、日中にミアベルが言った「別の何か」よりも深く、オルフェリアの胸に沈んだ。
「娘が家の望む姿から外れそうになると、古い衣装部屋から出ると聞いております。泣かない娘。怒らない娘。従順な婚約者。捨てられて当然の悪女。人々がそうあれと願った形を、影がかぶるのだと」
「馬鹿げています」
そう言った自分の声は、思ったよりも冷えていた。
エダはうなずかなかった。
「私も、そう思いたかった」
「では、昨夜あなたが見た私は」
「お嬢様のお顔をしていました。お嬢様のお声で、私に言いました」
「何と」
エダの喉が震えた。
「『もう、お嬢様はお疲れでしょう。私が代わります』と」
夜更け。
屋敷の者たちが寝静まった後、オルフェリアは一人で東棟へ向かった。
燭台は持たなかった。月明かりだけで十分だったし、火を持って歩けば誰かに見つかる。廊下の窓から差す青白い光が、絨毯の模様を水の底のように揺らしていた。
歩くたび、窓に彼女の姿が映る。
一枚目の窓では、横顔。
二枚目の窓では、白い寝間着の裾。
三枚目の窓では、こちらを見ている紫の瞳。
オルフェリアは足を止めた。
窓の中の自分は、まだ一歩先を歩いていた。
すぐに月明かりが雲に隠れ、そこにはただ暗いガラスだけが残った。
古い衣装部屋の前に立つ。
扉は閉まっている。
けれど、その向こうから音がした。
布が擦れる音。
誰かが、ドレスの裾を引きずって歩く音。
それから、低い笑い声。
オルフェリアは扉に手をかけた。
冷たい。
木製のはずなのに、まるで冬の湖面に触れたようだった。
扉を開ける。
中は暗かった。
だが、窓から差す月明かりが、壁際に並ぶ鏡を照らしていた。金の縁取りが剥がれた鏡。ひびの入った鏡。曇って何も映さない鏡。床には古い衣装箱がいくつも積まれ、色褪せたドレスが半ば溢れている。
空気に、古い香水と乾いた花の匂いが混じっていた。
部屋の奥に、誰かが立っている。
白い寝間着。
長い銀灰色の髪。
紫がかった瞳。
細い首。
オルフェリアと同じ顔。
それは鏡に映った姿ではなかった。鏡の前に、確かに立っていた。
相手はゆっくりと振り返る。
そして、微笑んだ。
オルフェリアは自分の笑顔を知っている。
笑う時は、口角を上げすぎない。目元を緩めすぎない。頬に力を入れない。王太子妃となる女は、無邪気に笑ってはいけない。見下すように見えてもいけない。相手を安心させ、同時に距離を保つ笑み。
目の前の女は、その笑みをしていた。
完璧に。
けれど、違った。
その奥に、誰のものでもない空洞があった。
「こんばんは、オルフェリア」
声も同じだった。
「あなたは誰」
「あなたですわ」
「違います」
「そうかしら」
女は首を傾げた。
その仕草も、オルフェリアが式典の退屈な挨拶を聞く時に使うものだった。
「では、わたくしは誰なのでしょう。あなたの顔をして、あなたの声を持ち、あなたの癖を覚え、あなたが望まれる通りに振る舞える。これでも、あなたではないと?」
「私は、聖女様を脅していない」
「ええ。あなたはしていない」
「殿下の前で泣き叫んでもいない」
「ええ。あなたは泣けませんもの」
オルフェリアは息を止めた。
女は楽しげに微笑む。
「あなたはお可哀想。幼い頃から、泣かないように作られた。怒らないように縫われた。声を荒げないように喉を締められた。だから、わたくしが代わりに叫んで差し上げました」
「余計なことを」
「本当に?」
女は一歩近づいた。
床板が軋む。
「殿下は、あなたが嫌いです」
言葉は刃のように静かだった。
「完璧すぎて息が詰まる。正しくて、隙がなくて、自分の未熟を映す鏡のようで嫌い。けれど、あなたに何の落ち度もなければ、自分が悪者になってしまう。だから、あなたには悪女であってほしかった」
オルフェリアは何も言わなかった。
「聖女様は、可憐な被害者でいたかった。皆に守られ、愛され、殿下の隣に立つ理由が欲しかった。だから、あなたには加害者であってほしかった」
「黙りなさい」
「貴族たちは、完璧な公爵令嬢が崩れるところを見たかった。高いところにいる女が、嫉妬で醜くなる姿を見たかった。だから、あなたには悪役であってほしかった」
「黙りなさい」
「お父様は、家のために差し出せる娘を望んだ。泣かず、怒らず、王家の隣に置いて恥ずかしくない人形を。だから、あなたには人間であってほしくなかった」
「黙れと言っているの!」
声が響いた。
衣装部屋の鏡が、かすかに震えた。
オルフェリアは自分の声を聞いて驚いた。
怒鳴った。
生まれて初めてに近いほど、はっきりと。
目の前の女は、嬉しそうに目を細めた。
「ほら。やっと少し、本物らしくなった」
オルフェリアの指が冷たくなる。
「あなたは何がしたいの」
「生きたいのです」
「私として?」
「いいえ」
女は首を振った。
「皆様が望むあなたとして」
月明かりの中で、彼女の顔が揺れた。
一瞬、オルフェリアの顔ではなくなった気がした。知らない令嬢の顔。古い肖像画に描かれた女の顔。幼い少女の顔。涙を流せなかった誰かの顔。
瞬きすると、またオルフェリアに戻っていた。
「あなたは、わたくしを怪物だと思うでしょう。でも、わたくしを作ったのはあなたではありません。あなたを見ている人たちです」
「だから私の顔で罪を犯したの」
「罪?」
女は笑った。
それはオルフェリアの笑い方ではなかった。
口元だけが笑い、目の奥がぽっかりと空いたまま、誰もいない部屋に向かって笑うような顔だった。
「違いますわ。望まれた物語を進めただけです。悪役令嬢は聖女に嫉妬する。王太子に縋る。証拠を残す。断罪される。そうすれば殿下は自由になり、聖女様は愛され、貴族たちは納得し、お父様は『残念な娘だった』と嘆いて責任を逃れられる」
オルフェリアは目の前の顔を見つめた。
自分の顔。
自分よりも、自分らしく見える顔。
「あなたは、私を消すつもり?」
「消す必要などありません。皆様が選ばなくなれば、それはもう、いないのと同じです」
女はオルフェリアの髪に触れようとした。
オルフェリアは一歩下がった。
「明日の夜、王宮で断罪がございます」
「断罪?」
「殿下が皆様の前であなたの罪を告げます。婚約破棄もなさるでしょう」
「そんな話、私は聞いていない」
「あなたに聞かせる必要がなかったのです。主役は、わたくしですもの」
女は、オルフェリアと同じ顔で、静かに笑った。
「お待ちしておりますわ。大広間で」
次の瞬間、窓の外で雲が月を隠した。
部屋が闇に沈む。
オルフェリアが再び目を凝らした時、そこに女はいなかった。
鏡だけが並んでいた。
どの鏡にも、オルフェリアは映っていなかった。
翌日の夜、王宮の大広間は華やかだった。
天井から幾重にも垂れる水晶灯。壁一面の金細工。磨き上げられた床。香水と花と葡萄酒の匂い。貴族たちは美しい装いで集まり、すでに何かを期待している顔をしていた。
王家主催の慈善夜会。
表向きは、神殿への寄付を募るための宴。
だが、誰もが知っていた。
今夜、何かが起こる。
オルフェリアが入場すると、ざわめきが波のように広がった。
彼女は淡い銀色のドレスを着ていた。髪にはルゼルヴァーン家に伝わる紫水晶の髪飾り。首元には、公爵家の娘であることを示す宝石。
王太子の婚約者として、何度も身につけてきたもの。
今日は、それらが鎖のように重かった。
広間の奥に、リュシアンがいた。
隣にはミアベル。
白いドレスを着た彼女は、まさに聖女だった。清らかで、か弱く、誰もが守るべき存在。頬の赤みはすでに消えていたが、彼女は時折そこに指を添え、痛みを思い出すように目を伏せた。
それだけで、周囲の同情は彼女へ流れた。
リュシアンが進み出た。
「オルフェリア・ルゼルヴァーン」
広間の音楽が止まる。
貴族たちは一斉に口を閉ざした。
オルフェリアは膝を折る。
「はい、殿下」
「君に問う。聖女ミアベルへの数々の嫌がらせ、私への侮辱、偽書簡による脅迫、毒物の所持。これらを認めるか」
予定通りだった。
広間の端に父公爵の姿が見える。厳格な顔をしていたが、目は揺れていた。彼は娘を信じたいのではない。家名が傷つくことを恐れている顔だった。
オルフェリアは静かに答えた。
「認めません」
広間がざわめく。
リュシアンは眉を寄せた。
「まだ白を切るのか」
「私は、そのようなことをしておりません」
「証拠は揃っている。君の扇、君の筆跡、君を見た者たちの証言。何より、ミアベル本人が――」
「殿下」
オルフェリアはリュシアンの言葉を遮った。
広間に、小さな驚きが走る。
王太子の言葉を遮るなど、これまでの彼女ならあり得ないことだった。
「あなたは、私を見ましたか」
リュシアンは一瞬、言葉に詰まった。
「何?」
「温室で聖女様を脅す私を。執務室の前で泣き叫ぶ私を。毒を持つ私を。あなたご自身の目で、ご覧になりましたか」
「目撃者がいる」
「あなたは見ていないのですね」
「証拠は――」
「殿下は、私がそうする女だと、信じたかっただけではありませんか」
リュシアンの顔が赤くなった。
「無礼だぞ」
「無礼で結構です。どうせ今夜、私は無礼で醜く嫉妬深い悪役令嬢として断罪されるのでしょう?」
誰かが息を呑んだ。
リュシアンの瞳に怒りが宿る。
「君は変わった」
その声は、どこか勝ち誇っていた。
「昔の君は、もっと誇り高かった。完璧で、気高く、誰よりも王太子妃にふさわしかった。だが今の君は――」
「今の私は?」
「私の知るオルフェリアではない」
その時。
広間の扉が、ゆっくりと開いた。
風はなかった。
それなのに、水晶灯の火が一斉に揺れた。
貴族たちが振り返る。
扉の向こうから、一人の令嬢が入ってきた。
淡い銀色のドレス。
紫水晶の髪飾り。
銀灰色の髪。
紫がかった瞳。
オルフェリア・ルゼルヴァーンが、もう一人。
広間が凍った。
ミアベルが小さな悲鳴を上げる。
父公爵が一歩前に出かけ、その場に止まる。
リュシアンは、二人を見比べた。
オルフェリアは、扉から現れた自分の顔を見た。
替え影は完璧だった。
歩き方も、視線の上げ方も、ドレスの裾を捌く指先も。本人であるオルフェリアが見ても、見事なほどだった。
替え影は広間の中央で膝を折る。
そして、涙を浮かべた。
「殿下」
声が震えていた。
美しい震えだった。
「どうか、お気をつけくださいませ。そちらは、わたくしの顔をした影です」
貴族たちがざわめいた。
「では、どちらが」
「同じ顔だ」
「まさか、魔物か」
「いや、あちらの方が先に――」
替え影は顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、まっすぐリュシアンを見る。
「わたくしは、ずっと閉じ込められておりました。そちらの影が、わたくしに成り代わって、聖女様を傷つけ、殿下を侮辱したのです」
なんて上手なのだろう。
オルフェリアは感心すらした。
声の震わせ方。涙の量。言葉の選び方。自分を被害者に置きながら、相手を化け物にする間合い。
それは、周囲が望むオルフェリアだった。
誇り高く、美しく、けれど本当は傷ついていた令嬢。
悪役として断罪されるにも、悲劇の婚約者として救われるにも都合がいい。
リュシアンの目が揺れた。
父公爵も、迷っていた。
彼らは見分けられない。
いいえ。
見分けたいと思っていない。
どちらが本物かではなく、どちらを選べば自分に都合がいいかを測っている。
替え影はそれを知っていた。
だから微笑んだ。
オルフェリアの顔で。
「お父様」
替え影が公爵に呼びかける。
「わたくしです。幼い頃、母の葬儀の夜に、泣いてはいけないとお父様に言われました。わたくしは泣きませんでした。だから、お父様は褒めてくださいましたね」
父公爵の顔が歪んだ。
それは本当の記憶だった。
オルフェリアしか知らないはずの記憶。
替え影は続けた。
「殿下。十歳の春、初めて王宮の庭でお会いした時、あなたはわたくしに、笑わないのかとおっしゃいました。わたくしは、未来の王太子妃はむやみに笑わないものですと答えました」
リュシアンの喉が動く。
それも本当だった。
替え影は、記憶まで持っている。
いや、違う。
あれは記憶を盗んだのではない。
周囲が覚えている“オルフェリア”を着ているのだ。
父の中の娘。
王太子の中の婚約者。
貴族たちの中の悪役令嬢。
それらを縫い合わせて、オルフェリアよりもオルフェリアらしく立っている。
替え影が、今度はオルフェリアを見る。
「もうおやめなさい。わたくしの顔で、これ以上罪を重ねないで」
広間の空気が傾いた。
貴族たちは、替え影を信じ始めていた。
なぜなら、替え影の方がわかりやすいからだ。
美しく泣く本物。
醜く黙る偽物。
物語として、そちらの方が整っている。
リュシアンが口を開いた。
「オルフェリア」
二人が同時に彼を見る。
リュシアンは迷った。
その迷いが、答えだった。
オルフェリアは笑った。
広間中の視線が彼女に集まる。
替え影も、笑みを消した。
「殿下」
オルフェリアは静かに言った。
「どうぞお選びくださいませ」
「何を」
「あなたが婚約者と呼んでいたのは、わたくしですか。それとも、あなたに都合よく悪女になってくれる、わたくしの顔をした何かですか」
リュシアンは答えなかった。
「お父様」
今度は父を見る。
「あなたが育てた娘は、ここにいるわたくしですか。それとも、泣かず、怒らず、家のために差し出される人形ですか」
父も答えなかった。
オルフェリアは広間を見渡した。
誰も、彼女の目を見なかった。
それで十分だった。
「皆様も、どうぞご覧くださいませ。悪役令嬢は、どちらに見えますか」
沈黙。
答えはない。
けれど、答えはあった。
彼らは替え影を選びかけている。
オルフェリアは、その事実に傷つくと思っていた。
だが不思議なことに、胸の奥は静かだった。
冷え切っていたわけではない。
むしろ、初めて息ができた。
自分を見てもらえなかったのではない。
最初から、誰も見ていなかった。
ならば、見せる必要もない。
オルフェリアは髪に手を伸ばした。
紫水晶の髪飾りを外す。
父公爵が目を見開いた。
「オルフェリア、何を――」
彼女は答えなかった。
次に首飾りを外す。
ルゼルヴァーン家の紋章が刻まれた宝石。幼い頃から、式典のたびにつけさせられたもの。
それを床に置く。
小さな音が、大広間に響いた。
替え影の顔が強張った。
「何をしているの」
「差し上げますわ」
オルフェリアは替え影を見た。
「わたくしの顔も、名前も、婚約者も、公爵令嬢の立場も、悪役令嬢の役目も。欲しかったのでしょう? どうぞ、すべて差し上げます」
替え影が一歩下がった。
「やめなさい」
「なぜ?」
「それは、あなたのものでしょう」
「いいえ」
オルフェリアは微笑んだ。
今度は、教えられた通りではなく。
「あなたが言ったのです。皆様が望んだわたくしなのだと。ならば、それはもう、わたくしのものではありません」
替え影の唇が震えた。
「やめて」
「オルフェリア・ルゼルヴァーンは差し上げます。王太子殿下の婚約者も、嫉妬深い悪女も、断罪されるべき令嬢も。あなたにぴったりですわ」
「違う」
「違わないでしょう。あなたの方が、ずっと上手に笑っている」
替え影の顔が崩れ始めた。
最初は口元だった。
オルフェリアと同じ形をしていた唇が、別の誰かのものに変わる。次に目元。頬。髪の色。輪郭。
広間の貴族たちが悲鳴を上げた。
替え影は両手で顔を押さえる。
「いや」
声が幾重にも重なった。
少女の声。
若い女の声。
老いた女の声。
泣きたかった声。
怒りたかった声。
言えなかった声。
「いや、いや、わたくしは、あなたとして、あなたの代わりに、皆様の望む通りに――」
「ご苦労様」
オルフェリアは言った。
「もう終わりです」
壁際の鏡が、一枚割れた。
続いて、二枚目。
三枚目。
大広間に飾られていた鏡という鏡が、内側から叩かれたように割れていく。破片が床に散り、水晶灯の光を受けて星のように光った。
替え影はその中央で、いくつもの顔に変わった。
古い肖像画の令嬢。
婚礼衣装の女。
子供のまま泣いている少女。
目を伏せた母。
知らない誰か。
そして最後に、もう一度オルフェリアの顔になった。
替え影は笑った。
それは、勝者の笑みではなかった。
役目から解かれた者の、空っぽな笑みだった。
「……あなたは、どこへ行くの」
替え影が尋ねた。
オルフェリアは少し考えた。
「私の顔で笑える場所へ」
替え影は目を細めた。
次の瞬間、床に落ちた鏡の破片が光を弾き、替え影の姿はほどけるように消えた。
広間には、悲鳴も怒号もなかった。
皆、ただ立ち尽くしていた。
リュシアンが一歩近づく。
「オルフェリア」
「その名は差し上げました」
「待ってくれ。今のは、何だったのだ。私は、君を誤解して――」
「誤解?」
彼女は振り返った。
リュシアンが息を呑む。
「殿下は私を見ていなかった。だから、誤る対象もございません」
「違う、私は」
「いいえ。あなたは、あなたに都合のよい私だけを見ていました」
父公爵も歩み寄った。
「戻りなさい。お前はルゼルヴァーン家の娘だ」
「それも、先ほど床に置きました」
「何を馬鹿なことを」
「お父様」
彼女は父を見た。
「私は、母の葬儀の夜、本当は泣きたかったのです」
父公爵の顔が強張る。
「けれど、あなたは褒めました。泣かなかった私を。だから私は、泣けない娘になりました」
「それは、お前のために」
オルフェリアは首を横に振った。
「お父様は、泣かなかった私だけを娘にしたのです」
父は黙った。
オルフェリアはもう何も言わなかった。
広間を歩く。
誰も止められなかった。
床に散った鏡の破片が、彼女の足元で小さく鳴る。その一つに、彼女の顔が映った。
宝石を外し、髪飾りを失い、王太子の隣に立つための笑みを捨てた顔。
誰のものでもない顔。
彼女は、その破片を拾わなかった。
王宮の扉を出ると、夜明け前の空が薄青くなっていた。
庭の薔薇はまだ眠っている。
遠くで鳥が一羽鳴いた。
背後から、誰かが彼女の名を呼んだ気がした。
オルフェリア。
オルフェリア。
だが、それはもう彼女の名ではなかった。
彼女は振り返らなかった。
王宮の大広間では、誰も動けずにいた。
リュシアンは割れた鏡の前に立ち尽くし、父公爵は床に置かれた紫水晶の髪飾りを見下ろしていた。貴族たちは互いに顔を見合わせ、今見たものをどう語れば自分たちが悪く見えないか、もう考え始めていた。
魔物が出たのだ。
公爵令嬢は取り憑かれていたのだ。
王太子殿下は騙されていたのだ。
聖女様は被害者だったのだ。
誰かが囁いたわけではない。
それでも、広間のあちこちで、同じ形の言い訳が生まれ始めていた。
その中で、聖女ミアベルだけが膝をついていた。
彼女の白いドレスの裾に、鏡の破片が散っている。
「……終わった、の?」
小さな声だった。
誰も答えなかった。
ミアベルは震える指で、破片を一つ拾った。
そこには、自分の顔が映るはずだった。
涙で濡れた瞳。
血の気を失った頬。
恐怖で歪んだ唇。
けれど、鏡の中のミアベルは泣いていなかった。
清らかに微笑んでいた。
誰もが守りたくなるように、可憐に。
傷つけられてなお人を許す、聖女そのものの顔で。
ミアベルの唇は動いていない。
それなのに、鏡の中の彼女だけが口を開いた。
「あなたの形なら、きっと愛されると思ったの」
ミアベルは悲鳴を上げた。
しかし、周囲の貴族たちは振り返らなかった。
彼女の悲鳴は、聖女らしくなかったから。
夜明け前の王宮に、その声が吸い込まれていく。
鏡の中の聖女だけが、聖女らしく笑っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「自分と同じ顔をした何か」と「周囲が望む役割」を軸にした、悪役令嬢もののホラーとして書いてみました。
誰かに決めつけられた姿。 誰かに望まれた振る舞い。 いつの間にか、自分よりも“それらしい自分”の方が本物のように扱われてしまう怖さ。
悪役令嬢も、聖女も、令嬢も、婚約者も、名前がついた瞬間に逃げ場を失うことがあるのかもしれません。
今回も、とある曲の雰囲気から着想を得ています。 直接なぞるというより、そこから受け取った「似ている何か」「奪われる顔」「役を被せられる不気味さ」を、悪役令嬢ホラーとして膨らませました。
少しでもゾワッとしていただけたなら嬉しいです。




