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蚊が嫌い

 ボクは蚊が嫌い、特に血を吸った蚊のことが。

 小学三年生のユウキは、真夏の日照りが教室の冷えきった廊下を焼き焦がそうとするのを避けるように肩身を狭く窓のそばの席で縮こまっていた。外は摂氏四十度はある。こんなに暑いのに外で汗をかきに行くなんてなんて馬鹿げた野郎共だ、と思いながらカーテンの隙間から差し込む陽の光を避けていたが、次の授業中には自分の腕に当たるだろうと予測して席を立った。カーテンの隙間を閉めただけだったが、安定の教室で放課後に遊ぶ約束をしていた学級傾国の美女、マドカに話しかけられた。

「ユウキくんも一緒に遊ばない? 私の家でシール交換しようって話してたんだけど」

 たった一瞬のために席を立っただけなのに白羽の矢が立った。ボクの内心では裸のボクが腰を横に振って両手を上げて揺れて踊っている。カーテンに手をかけると熱を帯びていた。外からの熱が内側へ入り込もうとしているのが伝わる。しかし教室は外から帰ってくることを想定して休み時間が始まると同時にエアーコンディショナーを強めにつけていった馬鹿野郎共のおかげで北極と化していた。ここが本当に北極に近ければ、性差の少ないといわれるボクはマドカと性行為をして男女を確認される羽目になったかもしれない。もちろんボクが上に乗る、それくらいペンギンの性別は判別がつかないのだ。

「い、いこうかな。ボクなんかが行っていいの?」

「うん。ユミちゃんが来て欲しいって。それに男の子の集めてるシールも私、欲しいと思っていたんだ」

 蚊が耳元を通ったのがわかった。

 ユミちゃんは傾国の美女に群がる蚊の一匹だ。ハエではない、蚊だ。ハエは腐敗物を分解し受粉を行う数も多い、それに動物の餌にもなる世界に必要な虫なのだ。無意味に生きている蚊とは比べ物にもならない。彼女は平均的な容姿と優しい性格、想像するに温厚な家庭で育てられた箱入り娘で、でも危なげがあって親は子が成長して苦労することもあるだろうが、二十代後半では結婚して幸せな家庭を作る優良物件だろう。しかしボクの目にはマドカしか映らない。蚊なんて嫌いだ、だって血を吸うし。

 ボクは遊ぶ約束を了承した。これまでに集めたシール帳が火を噴く時が来たぞ、と内心ではユミちゃんに感謝もしていた。男子とは趣味の合わないボクにとって、性別が後天的に決まるのであれば、異性との関わりが自分の性別を定めるとさえ思っていた。なにも蚊がいなくなれなんて思わない、多分水とかを綺麗にするくらいはしているだろうと思うからだ。

 時刻を示すチャイムが鳴った。地ならしを起こすような足音が教室に近づいてきて、我先にとドアを開けて熱気を持ち込んできたのは外に遊びに行っていた生徒らだ。ボクはそれらを見つめていた。なんと汗の輝くことだ。むせ返るような臭いの蒸気を立ち込めてこちらに近づいてくる。席に座ると木の板が曇った。温度差が目に見えて現れたのだ。ボクはそれを凝視して消えるのを待った。隣の席のユウタくんが入ってきたことで北極は四季折々な日本の快適な温度感に留まった。彼はそのまた隣の席のマドカと話をしている。僕からしてユウタくんを挟んでマドカがいる。ボクは嫉妬で気が狂いそうになった。馬鹿野郎め。

 担任の先生は少し遅れてやってきて、授業が始まった。ボクは授業を聞かなくても大抵の事は答えられる。予習復習を欠かさないからだ。黒板には簡単な数式が書き記されている。ボクはどれも見た事があった。隣のユウタくんは頭を抱えていた。しめしめ、教えてやろうかと彼の方に椅子を近づけた。いつ聞いてきてもいいぞと目線をくれてやっていると、マドカの先に目で捉えられるか定かでない黒い小さな粒が浮いているのが見えた。蚊だ。ボクは目でそれを追いかけた。自分のことを思うと本当は追いかけない方がいいことはわかっていた。しかし目で追ってしまった。蚊はマドカに止まってホッと胸をなでおろした。

「なあなあマドカ、これ教えてくれ。今日の日付だと俺が一番に当たるかもしれない」

 なにさいつもはボクに助けを媚びてくるくせに、とボクは目を細くして目尻をひりつかせた。黒板を突くチョークの音がいつもより強く感じた。担任はシャツの一番上のボタンを解いて中のシャツを引っ張りハタハタしている。黒板から離れた席で遠目から見ても髪の毛が水っぽくなっているのがわかった。じゃあ次の問題を、と振り返った時に今日の日付を見てユウタくんを当てた。それに難なく答えると、マドカと机の下で手を叩き合わせているのが見えた。その手が離れると蚊が現れ、担任に向かって飛んでいくのをボクは世界の終わりを見つめるように眺めていた。

 蚊が嫌いなのは世界中でデング熱やウイルスを運んで死者が出ていることを非難しているからではない。そんな大層な悩み事を九歳のボクが考えたって仕方がないことだ。しかしそこに付随する特徴が嫌いなのだ。蚊は血を吸う。それこそがボクが蚊を嫌う理由だ。血を吸わない蚊は嫌いじゃないけれど、どうも好きになれないのは人間にステイするからだ。血を吸った蚊、よそ者に刺した口が自分の皮膚に挿入され赤の他人の血が極わずかでもボクに触れてしまうのが、まるで自分の中に他人を植え付けられているような気がして気が狂いそうになるのだ。

 担任は飢えを凌いだみすぼらしい体型をしていてよく汗をかいている。ボクはもしもその濡れた皮膚に蚊が止まって、腹を満たして飛んだ先が自分だったらと思うと冷や汗が止まらなくなった。止まらないでくれ、止まらないでくれと願った。ボクはこんなにも小さな粒を目で追いかけたことがなかった。自分の顔がどうなっているかなどお構い無しに目で追うと、エアーコンディショナーの冷気に流されて見失ってしまった。焦るのはまだ早いと周囲を見渡すも見つからない。万事休すか、ボクは泡を吹いて倒れそうになった。

「大丈夫かお前」

 ユウタくんの一声で我に返ったボクは浮いていた腰を落とした。しかし見失ってしまった、ならばもう自分の周囲を警戒して蚊に刺されないことを目的にするしかなかった。尿意を我慢している小学三年生は馬鹿にする標的になりやすい。仲の良さなんて関係ない欠落のデリカシーが我々には備わっている。ボクはそうなっても構わない、そんなちっぽけな醜態よりも蚊が嫌いなのだ。まだ硬くなっていない柔らかい肌を隠すように半袖Tシャツの袖を伸ばし、恥ずかしげもなく内太ももを密着させて蚊に刺される面積を減らした。足は小刻み動かしておこう、自分だけの世界を確立していくのが可笑しいのはボクが小学三年生だからだった。

「おいユウキ当てられてるぞ」

 ユウタくんの一声にまた我に返された。黒板を見ると問題は簡単なものだったが異常に頬を赤らめた、教室中の視線がボクに向いていた。おい馬鹿なのか、と担任を睨みつけた。相場は縦だろう、誰が横に生徒を指名していくんだ。その世間とのズレがてめえの股擦れを起こしているんだぞ、とボクは思ったが呑み込んで口にしなかった。

 トントントンと杖をつくような音がした。ボクはその音の方を向いた。依然他人の失態を望む希望の目の数々は輝きを失せなかったが、ユウタくんは違った。ノートの端に書いた文字を指さしてボクに答えを伝えようとしていた。奥ではマドカが彼より大きく異なった文字を書いていた。

 ボクはマドカと同じ答えを口にした。ユウタくんは慌てふためいていた。どうやら間違えさせようとはしていなかったようで、ボクに解き方を教えてくれといつものように机を寄せた。水分が蒸発するのについていった熱に温度を奪われた皮はさぶいぼが立ち、しかし肩を寄せ合うと芯にこもった熱が出口を求めて少しずつ外へ漏れ出している。その熱が寂しいボクの冷たい皮膚に温もりをくれた。

 蚊がどこかにいる。その懸念を背負って目線を筆先と空間それぞれにやって警戒したがすぐに見つかった。ユウタくんの肩に止まったのだ。ボクは背筋が凍る思いをした。釘を刺すように留められた目は蚊が嘴を肌に刺し込み血を吸う刹那を焼き付けた。固唾を飲み込んだ。蚊が羽をばたつかせるのがスローモーションに見え、自分の腕に飛んでくるまでの間はボクの人生の体感の大半を占めた。ボクは蚊が嫌いだ。血を吸って他人に飛び移る習性がまるで自分と他者を無理やりひとつにしてしまうような、だだっ広い空間で他人と裸で肌を寄せ合い縛られるような、悍ましさがあるからだ。

 ユウタくんの血を吸った蚊が腕に着地して口が入ってくるのを感じた。ボクの中に彼の残りかすが付着して、血が腹の中で混ざりあっている。ひとえにボクとユウタくんが繋がったのだ。バチン、と目を覚ますような音と同時にボクの腕はひりついた。

「蚊、倒したった」

 血が広がって精細な毛穴の隙間を縫ってボクの中に入ってくる。彼は叩いたあと自分の手で掬うように血を拭いさった。そしてボクに向かって太陽のように暑苦しい笑顔をお見舞してくれた。終礼がまるで時間をズラして延ばしているように感じた。ユウタくんは手を机の角に擦り付けると帰り支度を始めた。

 彼の手は冷たかった。ボクはマドカと遊ぶ約束を蹴ってユウタの後についていった。

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