二章
二章
ゴザーラは苛立っていた。
「まだなのですか?」
何度も同じことを言ってしまう。
その度に、サンクから返される言葉も同じだった。
「落ち着いてください、姫様」
姫様、と呼ばれることに少し抵抗を感じる。
確かに自分は、ウルース大地を支配した女王キザラの血を引いている。
しかし。
ゴザーラは自分が住む家の中を見渡してみた。
つるされたシャンデリアは、一部が壊れている。
豪華な絨毯には、赤い染みがついている。
床の大理石は、欠けている箇所が多い。
ゴザーラが物心ついた時から、住んでいる家はこうだった。
小さい頃の自分は、よく両親にねだったものだ。
「引越ししたい。普通の家でいいから、こんなボロボロじゃない家に」
その度に、不細工な父と綺麗な母はさとしてきた。
「我らのような高貴な一族が、庶民の家に住んではいけないのです。どれだけ、キザラ様がお嘆きになるか考えなさい」
そんなものか、と思っていた。
だが、今から五年前に召使いのサンクから聞いた言葉に、ゴザーラは世界がひっくり返るようなショックを受けた。
その頃すでに、老婆だったサンクはこう告げた。
「引越しは、できないのです。ご主人様が莫大な額の借金をかかえていますから」
そんな話、両親は一度もしてくれなかった。
「なんのための借金? 一族の復興のため? それとも、貧しい人を救うため?」
サンクは沈黙の後、静かに言った。
「剣闘士の戦いのためです」
剣闘士?
太っていた父。
とてもじゃないが、戦える体じゃない。
「嘘をつかないで。お父様が戦うわけがない」
「もちろん、ご自身は戦いません。戦うのは、別の方」
え、と五年前の自分は怪訝な顔をした。
「その剣闘士は、我が一族に忠誠を誓った人なの?」
「いいえ、全く忠誠心は関係ありません。ただの、ギャンブルですから」
「はあ?」
「ご主人様はしょっちゅう『剣闘士の祭場』に行っては、予想が外れて大金を失っているのです」
なにも言えなかった。ただただ呆然としたのを覚えている。
「奥様は、やめてくれと何度もおっしゃっているのですが」
「お父様が、拒絶している?」
「いいえ。『分かった。おれも損はしたくない。やめよう』そんな風におっしゃいます。
しかし次の日には、平気で約束を破るのです。問い詰められると『足が勝手にあそこへ行ってしまう。おれでなく、おれの足に文句をつけてくれ』と返されます」
「な、な、な」
そんなろくでもない男だったのか!
それなら「おれはギャンブルはやめられないんだ。許してくれ」と返した方がましだ。
「あ、あの馬鹿親父が!」
その晩に起きたのは、激しい親子喧嘩。
四日間に及ぶその喧嘩で、ゴザーラは何とか父親を家から追い出すことに成功した。
美しい母は、涙を流して喜んでくれた。
「ごめんなさいね。ゴザーラに、本当のことを言えなくて」
ゴザーラは、母の手を握って微笑んだ。
「お父様から禁じられていたのなら、仕方ないわ」
それから数か月後、父が死んだことを聞いた。
借金まみれの極貧生活で、酒におぼれて死んだそうだ。
なんとも思わなかった。
美しかった母が死んだ時は、三日間号泣した。
唯一の救いは、サンクがずっと手を握っていてくれたこと。
「私の力ではとても代わりにはなりませんが、姫様をお守りし、幸福へと導きます。あなたのお母様もそれを望んでおられるはず」
母の死の悲しみに泣いた後は、サンクの優しさに泣いた。
父のことは憎んでいる。
理由は二つ。
一つ目は、私と違って賭け事にうつつを抜かすところ。
二つ目は、私とよく似ている所があること。
金具を叩く音がして、ゴザーラは現実に戻された。
帰ってきたのだ!
どうだろう。
ボードゲンとの交渉はうまく行ったのか?
駆けだそうとするゴザーラを、サンクが押しとどめた。
「姫様、まずは私が使者に会います。少々お待ちを」
「分かったわ」
広い部屋を小走りで走って、象の絵が描かれた重い扉を開けてサンクは出ていく。
どうなったのか。
うまく行ったのだろうか。
ボードゲンの性格からして。
帰ってきたサンクがドアを開けると、ゴザーラは息を荒くして迫った。
「どうだった? ボードゲンの返答は?」
「ボードゲンの元へつかわした使者、ではありませんでした」
「へ?」
「カルナンという男を知っていますか?」
「ああ、カルナンね。あいつがどうしたの?」
「姫様への恋文です」
なんか、とてつもなく嫌な気になった。
「カルナンはお嫌いですか?」
「いいえ、嫌な予感がしただけ。別に、嫌悪してはいないわ」
「……はい」
「読みあげてくれる?」
「承知いたしました。書かれていることを朗読いたします」
サンクが咳払いをした。
「ゴザーラ様、あなたを一目見たその日から、あなたの美しさに……あ、姫様」
手紙を奪って、びりびりに破いた。
「ふざけるな!」
ゴザーラは叫んだ。
「やはり、お怒りになりますか」
「何が美しさだ! 地獄に落ちろ、カルナン!」
この家には、鏡が一枚もない。
その理由は、自分の顔が父にそっくりだからだ。
歴史上最も不細工な姫君。
ウルース大地の誰もが使う通称である。
何故だ?
どうして、美しかった母に似なくて、性格だけでなく顔もひどかった父に似てしまったのか。
「あなたは美しい」
と言われると殺してやりたくなる。
しかし「あなたは不細工ですね」と言われても失礼だから殺してやりたくなる。
「あなたの顔は普通ですよ」と言われるのはまだましだが、腹が立つ。自分の顔はどう見ても普通よりひどいからだ。
容姿に関して唯一怒りを覚えないのは、サンクの言葉。
「姫様は私よりはるかに美しいです」
本気で言っているのが分かる。
なんと言っても、サンクは八十七才なのだ。しわだらけでしみも多い、老いた女のサンク。母が死んだ今、世界一好きなのがサンクだ。
「早く、肉体の泉の水を飲みたいわ」
「姫様の願いは重々承知しています」
あれを飲めば、自分は絶世の美女になれる。
いや、ただの美女でない。
最高のプロポーションの体の、男が夢でしか見られないような完璧な女性になれる。
ウルース大地の全ての男が自分に惚れるだろう。
そうして、自分に陰口を叩いた男を見返してやるんだ。
金具を叩く音がして、再びゴザーラの動悸は激しくなった。
果たして、うまく行ったのか?
ゆっくりと扉が開いた。部屋に入ってきた召使いの女。
太っている四十五歳のマリンは、悲しげな顔をしていた。
「駄目だったのね?」
「はい、姫様。申し訳ございません」
ため息をついた。
「いいわ。たぶんこうなるだろうとは思っていた」
肉体の泉に触れるのを許されるのは、ウルース大地で最強の者以外には三人しかいない。
最強の、今で言うとボードゲンが認めた者だけである。
すでにジャゴーとギンカンが特別な肉体を持っている。
最後の一人に、自分なんかを選ぶはずがない。
「まあ、いいわ。お母様の服が、宝飾が失われなくて良かったとも言える」
ゴザーラはいたわりの心をこめて言った。
「きっと、神様がおっしゃったのね。母の形見を手放すな、と」
「あの、本当にすみません」
ゴザーラは笑いかけた。
「だから、いいと言っているじゃない」
「それが、最悪の事態になってしまったのです」
「え?」
最悪の事態?
「なにが、なにが起きたというの?」
「ボードゲンは、あの男は私が持って行った物を全て奪った後で、私を追い返したのです」
「なんですって!」
サンクが、悲痛な叫び声をあげた。
「抗議すると、『文句があるならおれを倒して、奪い返せ。一対一の戦いなら受けてやる』と言いました」
ゴザーラの体が、怒りに震えだす。
「おのれ、おのれ! ボードゲン!」
理不尽にも、大切な母の形見を奪ったのか!
涙は流れない。
悲しみではない。自分を支配しているのは、怒りだ。
「姫様、このサンクが悪かったのです。こうなる事態を、想定すべきでした。間違った進言をして、本当に申し訳ございません!」
「いいえ、サンクは悪くない。悪いのはボードゲンよ!」
ゴザーラはこぶしを握り締めた。
「いいわ、そこまでほざくのなら、私がボードゲンを倒す」
「姫様!」
サンクが慌ててゴザーラの服をつかんだ。
「おやめください! どんな残酷な目に会うか分かりません」
「やめないわ。絶対にやめない! あいつを倒せば、母の形見は取り戻せる。そして、自分は絶世の美女になれる!」
復讐のため、大切な物を取り戻すため、美女になるため。
これしか道はない!
「お願い。止めないで、サンク」
サンクはしわだらけの顔を震わせた。
下を向いて、ぶつぶつとつぶやく。
考え事がある時、サンクはいつもこうする。
「分かりました。止めはしません」
「分かってくれたのね、サンク」
「ただし、条件があります」
老婆のサンクは低い声を出した。
「このウルース大地に、肉体の泉を求めるものは多いです。その連中の中で、聖魂の宿る泉に触れた者は、姫様を含めて何人いますか?」
「四人」
はい、とサンクはうなずく。
「姫様。妹が病のシガース。男になりたいユリード。剣士のキギダン」
何を言いたいのか、分かってきた。
「まずは、そいつらを倒せということね」
「はい。この三人に勝てば、ボードゲンに挑んでもかまいません」
ゴザーラは黙った。
熱の泉には、触れられない。
美女になりたいから泣いたことなどない。
天候の泉にも触れるのは不可能。
鉄の泉は、恐らく達成できないだろう。
「自分が触れるのが許されるのは、花の泉だけか」
花の泉に宿る聖魂の条件は三つ。
ウルース大地全土を支配する王の血を引いていること。
そして、その王の一族が没落していること。
それに加えて、女であること。
今のウルース大地では、その条件を満たすのはゴザーラだけだ。
「分かったわ。三人とも、倒してみせる」
ゴザーラの声にこもっていたのは、決意と怒り。
三人を倒す!
そしてジャゴーとギンカンを倒し、ボードゲンを殺す!
成し遂げてみせる。
この家に、鏡がおけるようにするためなら死もいとわない。
「まずは、シガースから倒すわ!」
天国から見ていてください、お母様!
■■■
「おれはもう負けて、脱落したよ」
シガースの言葉に、拍子抜けした。
「そうなの?」
「ああ、そうだ。ユリードには勝てなかった」
へえ、とゴザーラは返す。
「最愛の妹の命を、諦めたのね」
「いや、違う」
シガースは首を振った。
「ユリードが約束してくれた。メリアンヌの病を癒すって」
「え? どうして?」
「たぶん、メリアンヌが好みのタイプだからじゃないかな」
自分の顔が引きつるのが分かる。
メリアンヌは美少女だと知っている。
ユリードの心は男。
綺麗な女が、そんなに好きか!
おのれ、男め!
言葉も返さずに、ゴザーラはシガースの家から背を向けた。
下手な舗装で歩きにくい道を避けて進むゴザーラに、サンクがついてくる。
「嫌なやつね、ユリードって」
え、とサンクがつぶやく。
「どこが嫌なのですか?」
「体は女性でも、所詮は男の心。女を顔で判断する屑よ」
サンクはなにも言わない。何を言っても自分を傷つけてしまう。それが分かっているのだ。
小さな虫が飛び交っている。ゴザーラは、別に虫が嫌いではなかった。虫は、自分の容姿について何か言ってくることはないのだから。
「マリンは?」
「ユリードを探しているはずです」
「そう」
立ち並ぶ平凡な家屋を、かすかな羨望の思いで見つめる。
豪華でありつつ廃れた屋敷に住む自分。普通の家に住むことは、まだしていない。いや、一生引っ越しはしないだろう。
母と共に住んだ、思い出のある屋敷なのだから。
マリンが駆けてくるのが見えた。
肥満体のマリンは、びっしょりと汗をかいている。
「はあ、はあ、はあ」
「大丈夫? マリン」
「は、はい」
「どこにいるの? ユリードは」
「ここだ」
いきなり、声がした。
マリンの背後から、丸坊主の女が出てくる。
化粧をしていない顔で、冷たい視線の持ち主。
ゴザーラは憎々しげににらみつけた。
「あなたがユリードね」
「ああ、そうだ。ゴザーラ」
「要求するわ。私と戦いなさい!」
「やめておけ。負けて、恥をかくだけだ」
「な、なにを――」
「私はすでに、二つの泉に触れた」
ゴザーラは息を飲む。
「天候の泉と、後はなに?」
「熱の泉だ。花の泉にしか触れていないお前は、絶対に勝てない」
ユリードの見下した顔。
「いいわ! 倒してやる! あんたこそ、敗北して笑われるといいわ!」
「ふうん」
ユリードの眼は冷たいまま。
しかしこいつは美女や美少女には優しげな顔を見せるのだろう。そうに決まっている。
「あんたみたいな男、ぶっ殺してやる!」
ユリードが吹き出して笑った。
「なにがおかしいのよ?」
「いや、男と言われたのがうれしくてな。どうやら、思っているよりいい奴だな。お前は」
「はあ? ぶっ殺してやる、と言ったのにいい奴とはなによ?」
「別に。ただの事実だ」
「顔と違って、心はいいと言いたいの?」
ユリードは顔をしかめた。
「そんなつもりはない。勘違いするな」
「なに? 馬鹿みたいと言いたいの? 被害妄想のかたまりを、軽蔑する気持ち?」
「コンプレックスのかたまり」
「なんですって!」
「私と似ているな、お前は」
一瞬、何も返せなかった。
ユリードは背を向けて、歩き出す。
「逃げるの? 私と戦うのが嫌?」
「別に。民家の前で戦うのが非常識だ。理由は、それだけだ」
さてはこいつ。
「有利な場所で戦うつもりね」
「まさか」
ユリードが返してきた声は素っ気ない。
「変な勘ぐりはやめろ。花が咲くところで戦うつもりだ」
ゴザーラはにらみつけるが、ユリードはこちらを見ようともしない。
「どこで戦うの?」
「お前が決めていい」
素っ気ない言葉。
「なら、南の広場にするわ」
ユリードはこちらを見た。冷たい視線。
「なによ。文句があるの?」
「あるなら口に出してる。くだらぬことを言うな」
あの、とサンクが言った。
「ユリード様、もう少し礼儀をお守りください」
「礼儀?」
歩きながら視線を走らせるユリード。
「どんな礼儀だ?」
「姫様に非礼すぎます」
「いいや、構わないわ」
ゴザーラが言うと、サンクは顔をゆがめた。
「しかし、姫様」
「お世辞は嫌いよ。軽蔑していながら馬鹿丁寧な口調をしてくるよりも、失礼な方がいい」
そうか、とつぶやいてユリードは歩いていく。
ゴザーラは空を見上げた。
晴れている。雲もほとんどない。
こいつは、雨を降らせるつもりはない。それは分かった。
大道でなく、あえて脇道を進むゴザーラ。近道をしているわけではない。こんなに狭くて臭い道を歩くのは、自分の顔を見られたくないからだ。
ユリードは、黙ってついてくる。
幸いなことに、カルナンに会う前に噴水が見えてきた。銅でつくられた樹木の像とそれを取り囲んで水をあげる噴水は、女王キザラの代から南の広場のシンボルだ。
南の広場には、大勢の人が集まっていた。多くは子供だ。やかましくわめいて、走り回っている。
ゴザーラは念じる。
次々に水色の花が咲きだす。
子供たちが、驚いた顔をする。
すぐに、体中をかきはじめた。
「おい! 不細工な姫君だぜ!」
「本当だ! 不細工過ぎてかゆい!」
腹が立つから更に花粉を多めに出した。もっとかゆくするために。
案の定、やかましくわめきながら散っていく子供たち。
くたばれ、ガキども!
心の中で叫んだ。
「これでいいか。ゴザーラ」
広場にいるのは、三人だけになった。
ゴザーラとサンクとユリード。
「ええ、始めましょう」
ユリードの年齢は二十五歳。
ならば、一番効果的な花は何色なのか簡単に判断できる。
ユリードの周囲に赤い花が咲き始める。
相当かゆいはずだが、ユリードは表情にすら出さない。ユリードが手をかざすのが見えた。
その手から熱波が繰り出された。
赤い花が、どんどん潤いをなくし、枯れていく。
花をよけながら駆け出すユリード。
想像以上の速さに、ゴザーラの全身から汗が出る。
接近されるまでの時間は、驚くほど短かった。
殴られる。そう思った。
ユリードは、ゴザーラの手をつかんできた。
「降伏してくれ」
「な、なによ。攻撃しないの?」
「女を殴るような男にはなりたくない」
じっと見つめてくるユリード。
「へえ、いい人なのね。ならば降伏してあげる……はずがないでしょ!」
赤い花が咲いたのはユリードの足元。
いくつもの花が敵の両足に巻きついていく。
ユリードの顔から冷静さが失われる。もう全身に花粉が付着しているはず。
このまま極限まで行けば、あまりのかゆさに耐えられず、発狂する。
熱波を足元へ送るユリード。
顔面を狙って、ゴザーラは殴りつけた。
「きゃあ!」
叫んだのはゴザーラの方だった。
顔が熱気に包まれている。
火傷した手に必死で息を吹きかける。
「とりたくなかった手を、使うしかないか」
ユリードは、突如ゴザーラを抱きしめてきた。
動揺したのは一瞬。
「いやああ!」
熱気がゴザーラを襲う。
「熱い! 熱すぎる!」
「降伏しろ。さもなくば、熱さに意識を失うぞ」
「だ、誰があんたなんかに」
「仕方ないな」
更なる熱さがゴザーラを包み込んだ。
意識がもうろうとなる。
「おやめください! もう、姫様は負けました! 手を離して!」
「サ、サンク……」
「姫様、降伏してください! しなければ、サンクは自害いたします!」
今の自分に、花を咲かせる余裕はない。
できるのは、サンクの思いやりを理解することくらいだ。
「負けよ。私の負けよ、ユリード!」
ユリードが体を離す。
一気に涼しくなる。
サンクが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 姫様」
ゴザーラは荒い息をつきながら、敵をにらむ。
「ね、熱の力がここまですごいとは、予想外ね」
「違うぞ」
「え?」
「日差しを夏のようにしたのも大きい」
ゴザーラは、はっとした。
「天候の力も、使っていたのね」
「今、涼しいのも私の力だ」
悔しさに、ゴザーラは顔をゆがめた。
勝てなかった。
「これで」
ゴザーラの口から、怨念のこもった声が出る。
「これで私は美人になれない。ちくしょう。美人なんて、全員死ねばいいんだ! 男なんて大嫌いだ!」
「変な人間だな、お前」
ユリードの辛辣な言葉。
「美人が嫌いなら、自分が嫌悪する美人でないことを喜べばいいではないか」
ゴザーラはにらみつけるが、ユリードは無表情のまま。
「男が嫌いなら、男が寄り付かないことに満足すればいい」
「どんな男にも恋心を抱いてもらえない、私の気持ちが分かるか!」
「どんな男の恋心も、おぞましくて鳥肌が立つ私の気持ちは分からないだろう」
静かな声。
「思いなど、自分でも分からないことがある。ましてや他人に分かるはずがない」
憤怒の形相を向けたが、ユリードは無表情のままだった。
■■■
「ただいま」
玄関のドアを開けると、足音がした。
駆け出してきたのはエミリー。
小柄な体の腰まで伸びた、水色の髪が揺れている。
青い瞳は濡れているように見える。
「おかえりなさいませ。ユリード様!」
抱きついてくる。
「どうした? エミリー」
「帰りが遅いから、心配になって」
抱きしめた時のエミリーの感触は、どんな時も変わらない。柔らかさを、愛おしく思う。
「私を案じてくれて、ありがとうな。エミリー」
「無事に帰ってきてくれて、ありがとうございます。ユリード様」
水色の髪をなでる。至福の一時だった。
「明日はあの祭りの日ですね」
「ああ、そうだな」
四大祭りの中で、待ち望んでいた祭りが来る。
男祭り。子供祭り。老人祭り。
そして女祭り。
「せっかくの祭りなんだから、早く寝ましょう」
「夕飯は?」
「コロキムのバター焼きです」
「へえ。ちょうど食べたいと思っていた」
「本当ですか?」
「ああ、えらいぞ。エミリー」
エミリーがはにかむ。
壁は灰色だ。ユリードの好きな色が灰色だからだ。
内装を選ぶ時に、エミリーに意見を聞いた。どんな家に住みたいのかを。
ユリード様が好きな家です、と頬を真っ赤にしながら答えてくれた。決して忘れられない、大切な思い出である。
テーブルのがたついた椅子を引いて座り、台所で調理をするエミリーを見つめる。エミリーは料理が上手い。テーブルの木目を指でなぞりながら、ユリードは待つ。
エミリーの持つ皿がことん、とテーブルで音を立てる。
「完成しました、ユリード様」
夕食での話題は、今日の戦いのことだった。
「では、向こうは殴ってきたのですね。しかも顔を」
「ああ」
「ひどい! ユリード様のお顔を殴るなんて。見損ないました!」
「まあ、気にするな。全然痛くなかった。痛い思いをしたのは向こうの方だ」
「そんな相手でも殴らないなんて、優しい方ですね」
「普通だ。女を殴る男になりたくない。それだけのことだ」
「格好いいです、ユリード様」
うっとりとした目つきでこちらを見てくる。
「ほら、コロキムが冷めるぞ。早く食え」
コロキムを食べ終えたユリードは、残ったスープを飲む。
エミリーは切ったコロキムを口に運んだ。丁寧に噛む。
「明日はどこをまわりますか?」
「エミリーが決めていい」
「本当に! なら、母に会いに行ってもいいですか?」
「リリンさんか。私も、会いたいと思っていた」
会話に夢中になっているエミリーは、食べることを忘れている。あえて、注意はしなかった。
長い食事の後で寝室に入る。昼間は白い壁は、暗くてくすんだ色に見える。
二人で大きなベッドに並んで寝る。いつものようにユリードの左手を、エミリーの両手が包んだ。
「おやすみなさいませ、ユリード様」
「おやすみ、エミリー」
エミリーはいつも通りすぐに寝息を立て始めた。
ユリードは暗い寝室で、天井を見つめる。入口に近い隅にある染みに視線が行く。
男になれるだろうか。
射精が、どんなものかは分からない。
驚くほど気持ちがいいことしか知らない。
男になりたい。
男になって、エミリーと交わりたい。
左手は温かい。
眠気は感じない。
目指す目標の困難さ。
達成した時の喜び。
その二つが頭に代わる代わる浮かんで、離れなかった。
朝が来て、エミリーは目覚める。
「よく眠れましたか? ユリード様」
「ああ、お前が手を握っていてくれたからな」
はにかむエミリーが、可愛い。
女祭りの日は、もちろん晴れにした。それも、秋の心地よい快晴だ。
「さあ、行きましょう。ユリード様」
うなずいて、家を出る。
町はごった返していた。
家から出ているのが全員女なのは、確かめるまでもない。
男祭りの日には外出を禁じられる女たち。
女祭りの日は、逆になる。
女しかいない道。贅沢な光景だ。
エミリーはうれしそうに眺めて、右手でユリードの左手を握り締める。
そのまま手をつないで、歩いた。小柄なエミリーは歩きが遅い。もちろん、ゆっくり歩いてあげる。
「ボードゲンに勝ったら、こんなこともできなくなるな。少し寂しい」
「なら、挑むのをやめますか?」
まさか、とユリードは微笑む。
「男になるのは生涯の夢だ。叶えてみせる」
エミリーはにっこりと笑った。
「ユリード様の喜びは、私の幸福です。必ず勝ってくださいね、ボードゲンに」
「ああ」
「ただ、絶対に勝てると確信できるまで、戦わないでください。ユリード様に万一のことがあれば、私は死にたくなりますから」
「分かっている」
嘘だった。
エミリーは、戦いがどんなものか理解していない。
絶対に勝てると確信を持てる戦いはできない。ボードゲンが相手には。
策を練って、賭けに出るしかない。
死ぬかもしれんな。
覚悟の上だ。
「お客さん! うちのフルーツは美味いよ!」
客引きの声をあげているのは、背の高い女だった。年齢は、三十代後半か。質素だが清潔な服を着ている。
ユリードは近づいた。
「おすすめは?」
「パーニイの果実だね」
「そうか。一つもらおう」
「あいよっ!」
店を離れた後で、エミリーが見上げてくる。
「変わった物を買いましたね。パーニイなんて」
「なんだ。分かってないのか?」
「え? あっ、母のためですか!」
「せっかく会いに行くんだ。喜ぶ顔が見たい」
エミリーが心底からうれしそうな顔をする。
「世界一思いやりのある方ですね。ユリード様は」
「こら」
エミリーのひたいを優しく叩いた。
「言いすぎだ。こんなの、普通のことだ」
女だけの道を二人で歩く。塔から出て来た尼僧が、弾んだ声を交わしている。時おり男の服を着ている者も見かけるが、そういう人々は男装しているのだった。
男装している女性と一緒に歩きたいという思いは、理解できるような気がした。親しみを感じる。
エミリーはきょろきょろと見渡している。
ユリードはそんなエミリーを見つめた。
可愛いな、と改めて思う。
真昼に、リリンの住む家についた。初めて見た時は外見の貧相さに驚いた家だが、中は案外快適なのだ。
「お母さん、私とユリード様だよ」
玄関のドアが開き、リリンの体が見えた。
「よく来たね。エミリー。そしてユリードさん」
リリンは太り気味だ。
太りすぎているわけではない。甘いものが好きなので、程よく太っている。
年を取った女性は骨がもろくなる。だが、太れば骨は丈夫になるものだ。だから太るのはいいことだ。
中年を過ぎた女性が太るのは神の恵みだと、ユリードは思っていた。
「パーニイだ。受け取ってくれ」
「ああ、こんなに立派なパーニイ。本当にありがとうね。ユリードさん」
リリンは笑顔だった。
感じのいい人だ。
エミリーの恋人になってあいさつに行くと、すごく喜んでくれたのを思い出す。
「どんな男に言い寄られても嫌がる子で、ユリードさんに出会えて良かった」
そう言って微笑んでくれた。
「客室を片づけるから、今夜はここに寝てくださいね」
「ありがとう、リリンさん」
「じゃあ、ゲームしない?」
エミリーが言うと、リリンは笑った。
「あら、せっかくの女祭りなのに。家でいいの?」
「うん。お母さんと一緒にいたい」
リリンはうれしそうな声を上げた。
切り分けたパーニイを食べる。半分はリリンが。残りの半分はユリードとエミリーが食べた。ユリードの方が量は多い。
エミリーがパーニイをさほど好きではないからだ。
エミリーが好きなビスケットを食べながら、カードを十二枚ずつ配る。
勝つとうれしいし、負けると愛しい人の喜ぶ顔が見える。だから、負けても楽しい。
エミリーは勝つと子供のように喜んだ。
負けると頬をふくらませる。リスみたいで可愛い。
異変があったのは、七回目のゲームのためにユリードがカードを配っている時だった。
「あら」
リリンが振り返る。
「いけないわ」
平然とした口調だ。
「どうした? リリンさ……ぎゃああ!」
カエルだ!
緑色のそれを見た瞬間、ユリードは持っていたカードをぶちまけた。
「来るな! 来るなあ!」
部屋の隅に慌てて逃げる。
あの不気味な生き物が、部屋の中をぴょんと跳ねる。
「相変わらずですね、ユリード様」
エミリーは落ち着いた声を出す。
どうして、落ち着いていられるのだろう。
「私がつかまえます」
「なにい! 駄目だ! さわるなあ!」
エミリーの顔に戸惑いが見える。
「え、でもユリード様」
「リリンさん、お願いします!」
「はいはい」
リリンは笑いをこらえた顔で、カエルを布で包んだ。
「逃がして、いいですか?」
「ああ、殺さないでくれ!」
「へえ、優しいんですね」
「そうだ!」
嘘だ。
この床がカエルの体液で汚れるかと思うと、ぞっとするからだった。
リリンがカエルを包んだまま玄関に向かう。
「大丈夫ですか? ユリード様」
「はあ、はあ、はあ」
「あの」
「もちろん、大丈夫だ。それより、決してカエルにさわるな。一生だ」
ユリードはエミリーの両手を握って、眼を見つめる。
「どうして?」
「愛しいお前の手が、カエルにふれることを想像しただけで耐えられないからだ」
「はあ」
「いいか、絶対だぞ」
くすくすとエミリーは笑う。
「分かりましたよ。約束します」
深く息をついた。
「男になれば、平気になるのかな」
「ううん。たぶん、変わらないと思います。男でカエルにさわれない人はたくさんいます」
「そうか」
ほっとする。
あんなのが平気になって、自分の手がふれることを思うとぞっとする。
リリンが戻ってきた。床に散らばったカードを拾い出す。
そうか。自分がぶちまけたんだ。
「邪魔が入ったし、もうゲームはやめて寝る?」
「いいや、絶対にやめない」
今眠ったら、夢にカエルが出てきそうだ。
「ドアを閉めて、続きをやろう」
はい、とエミリーは優しく答えてきた。
しばらくは、カエルが気になってゲームに集中できなかった。
だから長引くのは仕方ない。
深夜になるまで、ゲームは続いた。
「では、ここらでやめてお風呂に入りましょう」
リリンがそう言った時には、かなり眠くなっていた。エミリーも眠そうだ。
お湯をたっぷりためた浴槽に入る。体が熱くなってくると、全身を隅々まで洗う。気にいらない体だが、男になるまでは大切にしなければならない。
「お休みなさい、リリンさん。エミリー、お休み」
客室を暗くする。
こんなに小さなベッドに一人で寝るのは、久しぶりだ。寝心地のいい寝具に包まれて、安らかな眠りについた。
目を覚ますと、とうに明るくなっている。
夢にカエルが出なかったことには、本当に安心した。
「おはよう。リリンさん」
「ユリードさん。おはよう」
リリンは微笑む。
「まだ、エミリーは寝ているのかな」
「ええ。起こさないであげて」
台所に向かったリリンは、ふと振り向いた。
「そうだ。お客があったのよ」
「リリンさんに?」
「いいえ、ユリードさんに」
手紙を差し出す。
「読んでくださいと言ってきた」
この期間だから、もちろん男ではない。
「どんな女性が?」
「軍人だと思う。軍服を着ていたから」
そうか。
ならば、読まなくても分かる。
ウルース大地に軍人は多いが、女の軍人は六秒戦団にしかいない。
「キギダンか」
「そうでしょうね」
剣の達人として有名な、あの男からの果たし状か。
自分はすでに、天候の泉と熱の泉に触れた。
鉄の泉の水を飲んだキギダンから挑まれるのは、当然だった。
「強敵だな」
ぼそっとつぶやいた。
■■■
キギダンは物思いにふけっていた。
意外と軍人は、眼を通さねばならない文書が多い。今も机の上に、読まねばならない紙が積み上げられている。いや、床にも多数落ちている。
しかし、そういう紙を拾い上げる気はなかった。兵糧の調達のような重要な文書ではない。後回しにしてもいいだろう、と勝手に考えている。
何より今の自分は、二年前に見たビリンのことを思い出していた。
自分はいずれ、ビリンと出会う。
キギダンの望みはただ一つ。
最強の剣士と名高いビリンと戦い、六秒後に死ぬことだ。
その夢を語ると誰もが呆れる。
「なんだ、その変な夢は。頭おかしいのか?」
半数は、そう言う。
「そんなの、無理に決まっているだろう。頭おかしいのか?」
残りの半数は、そう言う。
だが、どんなに馬鹿にされてもキギダンの夢は変わらない。
今から二年前の晩春に、ビリンはウルース大地を訪れた。
真っ先に、ボードゲンの元へ向かった。
城の前の広場でビリンがボードゲンと言葉を交わすのを、キギダンは見ていた。
「どうだ? ビリン。お前が驚くほど、おれは強いだろう」
「確かに、相当強いな。それは確かだ」
ボードゲンは得意げに言った。
「そうか。あのビリンも恐れるほどおれは――」
「お前と向き合えば、殺すのに三秒はかかる。普通の兵なら一秒の一割以下。強敵でも二秒以下だから、お前は相当強い」
見ていてびっくりした。
いくら何でも、そこまで挑発することはない。
ビリンは命知らずだ。
誰もがそう思った。
もちろん、ボードゲンは怒り狂った。
「おれと戦え! おれより強いと言い張るなら、逃げずに戦ってみろ!」
そう言われると、ビリンは顔色一つ変えずに言い放った。
「いいだろう。ただし、条件がある」
「ああ? どんな条件だ!」
「お前の城にいる、全ての人間が同時に私へ戦いを挑むこと。老婆だろうが赤子だろうが、皆をこの広場に集めろ。そして、全員でかかってこい」
見物していた全ての人々が呆れた。
こんなにも愚かなのか、ビリンは。
キギダンもそう思った。
ボードゲンは、なめやがって、とつぶやいた。
「その根拠もない自信を、後悔させてやる!」
「ふうん」
ビリンはつまらなそうな顔をしていた。
広場には、二千を越える人々が集まった。
ボードゲンは怒鳴った。
「皆の者、この無礼者を殺せ!」
次の瞬間、ビリンは消えた。
大剣が物を砕く音で、城に向かったと気づいた。
そしてボードゲンの「皆の者、この無礼者を殺せ」というセリフの五秒後には、巨大な城はがれきの山となっていた。
キギダンは、自分が夢を見ているのではないか、と何度も疑った。
しかし、それは現実だった。
ビリンが巨大な剣を片手で持って近寄ると、ジャゴーやギンカンさえ悲鳴を上げた。
ボードゲンは硬直したまま、何も言えなかった。
「分かったか。お前は相当強い。ただそれだけの人間だ」
「お、お、おれを殺して、肉体の泉を手に入れるのか?」
ビリンの見下した顔。
「愚かだな。その泉に宿る聖魂の条件は、ウルース大地で最強であること。そんな泉の水を飲んだら、この大地から出られなくなってしまう。
地上最強の剣士である私が、何故こんな雑魚しかいない地に縛られなくてはならないのだ。見くびるな、ボ……」
ビリンは視線をそらした。
「なんという名だったかな、お前は」
「お、おれは――」
「どうでもいい。悪くない大地だったな。雑魚しかいないから、休息になった」
そしてビリンは、姿を消した。
ボードゲンはその後、何日も悪夢にうなされ続けた。
キギダンは一睡もできずに何日も、ビリンのことを調べ続けた。
ビリンの称号を知った時、キギダンは震えた。
地上最強の剣士・光速のビリン。
会いたい!
そして戦って、六秒かけて殺されたい!
あの世で自慢になる。
「おれはなんと、あのビリンが殺すのに六秒もかかったんだ!」
死後の世界にいるほぼすべての戦士から、尊敬されることだろう。
諦めない。
絶対にいつか、叶えてみせる。
ドアがノックされる音がした。
「入れ」
キギダンが言うと、女が入ってきた。軍服を着ている女が。
「どうだった?」
「ご報告いたします。ユリードは、戦いを受けるとのことです」
無表情な女だ。
これはキギダンの好みだった。
男も女も、部下は無表情な方がいい。
部下に、無表情になれと何度も言っている。
「そうか。ご苦労だった」
「失礼します」
女が出ていく。
「ユリードは、軽く倒せるな。今のおれの力量なら」
キギダンはかすかに笑った。




