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一章

  登場人物紹介


シガース……妹と二人暮らしの男。

メリアンヌ……シガースの妹。

ユリード……風変わりな名の女。

エミリー……ユリードの同居人の女。

リリン……エミリーの母親。

ヤージ……ユリードの友人の男。

ゴザーラ……美しくなりたい女。

サンク……老いた女。ゴザーラに仕える召使い。

キギダン……六秒戦団の将軍。剣の達人。

ボードゲン……ウルース大地で最強の肉体を持つ男。

ジャゴー……ボードゲンの配下。特別な肉体を持つ。

ギンカン……ボードゲンの配下。特別な肉体を持つ。





   一章


「無駄ですよ」

 またしても、案内人はシガースにそう言った。

「なにが無駄だ?」

 むっとして言葉を返すと、案内人は肩をすくめた。

「そんなことは分かりきっているでしょう」

「肉体の泉は、ここから近いはずだ」

 なんと言っても、このウルース大地の中心にあるのだ。

 赤茶けた大地に、黒い葉をつけた木々。動物は全く見かけない。

 そんな風景の中を、自分と愚痴ばかりをこぼす案内人は徒歩で歩いてきた。

 もう少しで、肉体の泉にたどり着ける。

 あのねえ、と案内人は呆れた口調だ。

「距離の問題ではないんですよ。あの泉に触れるのを、聖魂(せいこん)はお許しにならないからです」 

「…………」

「どうやら、知らないようですね。肉体の泉の聖魂の定めし条件を」

「そんなことは、知っている。馬鹿にするな。子供でも知っていることなのだから。おれはもう十九才だぞ」

 ええ、と案内人は驚愕の声を張り上げた。

 はっきり言って、うるさい。

「知っていて⁉ じゃあ、このウルース大地で、一番強いと思っているんですか? シガースさんは自分のことを」

「そんな愚かなうぬぼれはしていない」

 すごく変な味のする果物を噛んだ時の顔。

 案内人が見せたのは、そんな表情だった。

「え? これは本当に理解不能だ。無駄だと分かっていながら。どうして?」

「お前のような失礼な男に話したくない」

 シガースの冷たい口調に、案内人は怒り出すかと思った。だが奇妙な目つきをしただけだった。変人だと思っているのだろう。

 メリアンヌ。あいつを絶対に助けてやる。それが、兄としての自分の務めだ。

 二人は無言で歩いた。気まずいとは思わない。こんな奴と、言葉を交わす必要などない。

 風は強くなっている。身体が冷えぬよう、マントを握り締めた。小さな黒い虫の死骸が、木の葉のように飛ばされて行く。

「あ、見えてきましたね」

 案内人は声を上げたのは、真昼を少し過ぎた頃だった。

「なにがだ?」

「だから、肉体の泉が」

「え?」

 茶色の草原と、小高い丘と、枯れ木があるだけだ。

「なにもないじゃないか」

「あの丘の上にあります」

 にわかには、信じられなかった。

 熱の泉は、豪華な建物の中にあった。

 正確には、泉の周りに豪華な建物を人間がつくった。

 なのに、なんの建物もない。

「いやに不用心だな。ボードゲンは」

「いや、違いますね。不用心なのではなく、用心する必要がないのです」

 皮肉な笑みを浮かべた案内人。

「どうせあれにふれられるのは、ボードゲン以外は三人だけ。放置しても、一向にかまわないのですよ。さて」

 案内人はシガースを見つめてきた。

「ここで、大人しく帰るのがお勧めです。どうせ、さわれないに決まっているんだから」

「いや、行く」

「え? じゃあ、あなたはボードゲンに認められたんですか? なるほど。まさかそんな方とは知りませんでした。……って、うわあ!」

 案内人が悲鳴を上げた。

「ボ、ボードゲン様の配下でいらっしゃるのですか? ま、まさか、そんな方とはつゆ知らず、無礼な態度をとってしまいました!」

 ちらりと見ると、両手を地につけてひれ伏している。

「さ、さっき、呼び捨てにしてしまいましたが、あれは不注意です。いつも誰かと話す時は、ボードゲン様とお呼びしているのです! いいえ! 独り言でも、様づけです!」

「嘘を言うな」

「本当です! 『今頃、ボードゲン様はお元気でいらっしゃるかなあ。あの方が病に倒れたりしたら、ウルース大地の平和が壊れてしまう。健康を神様にお祈りしよう』と、そんな独り言をつい昨日言いました! 神に誓って本当です!」

「黙れ、嘘つき」

「ひいいっ!」

 叫び声をあげる案内人を無視して泉に近づく。どちらかと言えば不快な臭いが、鼻を刺激する。これが、肉体の泉が放つ臭いか。

 シガースはなだらかな丘を登ろうとした。

 次の瞬間、吹っ飛ばされた。

 体が受けたとてつもない衝撃とすごい速さで過ぎていく風景。想像を超える速度で空中を飛んでいき、地に背中を強く打った。 

「え?」

 案内人が倒れたシガースを見て、固まった。

 理解できないのだろう。

「あの、ボードゲン様の配下の方。ご無事ですか?」

「大丈夫だ。傷を負ってはいない」

 地面に触れていない時間が、思ったよりもずっと長かった。体がかなり痛い。

「あ、そうですか。それはなによりです。でも……」

 恐る恐る声をかけてくる。

「なんで、吹っ飛ばされたんですかね。ボードゲン様にお許しをいただいたのに」

「おれは、あんな奴の配下ではない」

 起き上がって、背中についた土をはらう。

「え? あんな奴?」

「ボードゲンは嫌いだ」

「なんだよお!」

 案内人がわめきだした。

「配下じゃねえのかよ。なら最初に言ってくれよ! おれ、ボードゲンに殺されるかと思ったじゃねえかよ!」

「おれが配下に見えるのがおかしい」

「いや、おれもおかしいな、と思ったんだよ。ボードゲンの奴が、こんな弱そうな部下に力を授けるなんて。

 ああ、心配して損した。ボードゲンは残酷なので有名だから、何とかウルース大地から逃げようとか、いざとなったらボードゲンの奴隷になろうとか、色々考えたんだよ! けっ、馬鹿みたい! まさか、聖魂に普通の人が近づけば吹っ飛ばされることまで知らない間抜けとは思わなかったよ。うわあ、無知な人だなあ。こんな常識を知らない人が十九才? 恥ずかしいと思えよ」

「知ってるよ、それくらい。八才の時に、熱の泉に近づいたことがあったから」

「へ?」

「親に禁じられていたから、破りたくなった。吹っ飛ばされて、泣いたよ」

「じゃあ、なんのために? 吹っ飛ばされるのが好きな人なの?」

「そんな変人ではない。もう道は分かった。お前の案内はいらない」

 硬貨を五枚、投げつけた。

「それで充分だろう」

「え? いや、おれをだまして焦らせたのを考えると、九枚は欲しいな」

「お前が勝手に勘違いしただけだ。第一、五枚しか持ってきてない」

 案内人を見向きもせずに、シガースは帰りの道を歩き始める。

「ケチ! 馬鹿!」

 案内人が背中に悪態を投げかけ始めた。

「変態! お前なんか、神の罰が落ちてひどい目にあえ!」

 振り向かずに、シガースはつぶやいた。

「神に誓って本当です、と言いながら大噓をついた奴に言われたくないな」

 悪態は止まらない。どうやら、つぶやきは聞こえなかったようだ。

 それにしても。

 あれだけの威力か。

 八才の時とは比べ物にならない。

 自分がどれだけ最強から遠いのか。シガースが知りたかったのはそれだった。

 とてつもなく遠い。

 だが、絶望的に遠いわけではない。

 強くならなくてはいけない。

 なんとしても。

 妹のために。

 シガースは走り出した。黒い虫の死骸を蹴散らして。

 日はまだ高い。風が強くとも、走れば寒くはない。むしろ体は熱くなっていく。

 やがて地面が赤茶色から変化していった。緑の草が見え始めていく。小さな、薄紅色の花々に覆われた地面が姿を現す。

 妹の好きな花だ。この花で首飾りをつくって喜んでいたメリアンヌの笑顔を、はっきりと思い出す。

 胸が痛くなった。

 走り続ける。花の蜜を目当てに飛ぶ蝶が視界に入ってくる。

 そこにたどり着いたのは夕方になるころだった。

 足を止めて見上げたのは、赤を基調とした豪華な建物。周りの柵は多少さびていた。一か所だけ、柵が途切れている。

 途切れた所を通って進むと、熱の泉という文字が扉の上に書いてある。文字も扉も色は真紅だった。

 真紅の扉には鍵がかかっている。服の内側のポケットから、赤色の鍵を取り出して、差し込んだ。鈍い音を立てて、鍵が開く。赤い扉を引くと、奥には光が見える。光に照らされた水面も赤い。

 泉に近づいてみる。

 聖魂の意志を感じる。

 許されている。

 自分は、熱の泉に触れることを許されている。

 当たり前だった。あんなに辛い夜を過ごしたんだ。

 泉を覗き込む。水面に、自分の顔が映る。短い茶色の髪に、茶色の眼。

 妹とは似ていない。

 シガースの顔は父に似て、妹のメリアンヌは母に似ていた。

 気性は反対だ。

 心配性の父に似たメリアンヌ。

 困難に挑戦する母に似たシガース。

「絶対に助けてやる」

 シガースはつぶやいた。


 ■■■


 自宅の外壁は緑色だ。もっとも、はげかけていて、灰色の部分の方が今の壁には多い。直す気も金も、シガースにはなかった。

 大きな三匹の兎をかたどった木製の門の前に、知っている女性が見えた。

「あ、シガースさん」

 安心したような声をかけてくるリンダ。妹の友人だ。

 シガースは苛立ちを隠さなかった。

「リンダ、なんで妹の側にいないんだ? 付きっきりで見ていてくれ、とお願いしただろう」

「あ、ごめんなさい」

 リンダはうつむいた。

「メリアンヌちゃんに頼まれたんです。お兄ちゃんが遅すぎる。心配だ、って」

 またか、と思う。

 少し帰りが遅くなるだけで、最悪の事態を想像してしまう。それがメリアンヌの悪い癖だった。

 もっとも、愛おしい癖でもある。

「メリアンヌもしょうがないな。そういうことか」

「怒ってます?」

「怒っているが、伝えるな。妹を傷つけたくない。ほんの少しでも」

 リンダは笑う。

「相変わらず、妹思いですね」

「まあな。家に入っていいか?」

「だって、あなたの家ですよ」

 入っていいに決まってる。そう言いたいのだろう。

 シガースは無言で門を通って、玄関のドアを開けた。

「リンダ? お兄ちゃんはどこにいそう? いつごろ、帰ってくるのかな?」

「おれだ」

「………お兄ちゃん!」

 妹が喜んでいるのが分かる。

 不快な気分になった。

 ほんの二年前までは、妹は駆けつけてきたのだ。

 それがない。

 怒りを覚える。

 もちろん、妹に対する怒りではない。

 あえて言うなら、運命に対する怒りだった。

 考え事をしながら家の中を進む。メリアンヌが生まれた三日後から、住んでいる家だ。廊下を進むのに、注意する必要などない。

 メリアンヌの部屋の前に立つ。

 ここからは、注意が必要だ。

「入っていいか、メリアンヌ」

「いいよ」

 うれしそうな声。

 憂鬱な気分で、ドアを開ける。

 ピンク色の物であふれた部屋。部屋の壁は濃いピンクで、天井は薄いピンクだ。幼い頃のメリアンヌに、ピンクばかりで飽きないのか、と尋ねた。飽きるわけないじゃん、と元気な声が返ってきたのを思い出す。

 奥のベッドの上で、上半身を起こしたメリアンヌがいた。

 髪の色もピンク。

 微笑んでいる茶色の眼を見つめる。

 儚げな微笑みだった。

「無理をするな、メリアンヌ。寝ていろ」

「ううん。別に無理じゃないの。体調はいいの。それより」

 メリアンヌがこっちをじっと見てくる。

「無理しているのは、お兄ちゃんの方じゃない?」

 ごまかそうと思った。

 でも、妹を相手に、それができるのか。

「聖魂の宿る泉に、行ってきたでしょ」

「ああ、熱の泉に」

「違うよ!」

 メリアンヌが、突如怒り出した。

 胸が、締め付けられる。

「肉体の泉に行ってきたでしょ! 分かってるよ」

 どうして、こうも見抜いてしまうのか。

「勘がいいな」

「ここは、お母さん譲りなの」

 確かに、母も勘が良かった。

 自分は勘が鈍い。父と同じように。

 シガースはベッドのすぐ側の椅子に腰かけた。

「行ったら悪いのか? 肉体の泉に」

「ばっかみたい。悪いに決まってます!」

 すねたような顔のメリアンヌ。

「なんでだ? あそこの水を飲めば、お前の病は」

「無理だよ」

 メリアンヌはそっぽを向いた。

「飲めるわけがないじゃん」

「そんなことはない。おれが、ボードゲンを倒せば――」

「馬鹿!」

 メリアンヌはにらみつけてきた。

「できるわけないでしょ! あのボードゲンに勝てるなんて、そんなこと思わないで! 残酷な殺され方をするに決まっている。お兄ちゃんは、なんの力もないじゃん!」

「いや、おれは熱の泉に触れた。あそこの水を飲んだ。忘れたのか」

 メリアンヌは顔を真っ赤にした。

「わ、忘れるわけないじゃん。それを聞いた時、すごくうれしかったよ」

「おれが強くなれたのが?」

「……違うよ」

 ぽつりとつぶやく。

「そんなに私のことを思ってくれたんだって。それがうれしかったの」

 熱の泉に宿る聖魂。

 触れる条件は、涙を長い間流し続けるほど、叶えたい望みがあること。

 妹がギャンラスの病にかかったと知ったその日に、満たされた条件だった。

「うれしかったよ。今でも。でも、うれしいけど嫌なの。熱の泉に触れたことが」

「どうして?」

「そんなの、お兄ちゃんに死んでほしくないからに決まってるじゃん!」

 メリアンヌが、自分の両手を強くつかんできた。小さく、暖かい妹の両手。愛おしい。失いたくない。

「私は、あと何年かで死ぬ。それが運命なんだよ」

「その運命を、変えてみせる」

「嫌だよ」

 メリアンヌの瞳から、涙があふれた。

「お兄ちゃんが、私のお兄ちゃんが、悲惨な死に方をするなんて、耐えられない!」

「おれも耐えられないんだ。お前がおれより早く死んでしまうなんて。だから、ボードゲンを!」

「無理!」

 涙にぬれたメリアンヌの眼が、にらみつけてきた。

「そんな不可能には挑戦しないで! せめて、せめて死ぬまで側にいて。お兄ちゃんがしてくれることは、それだけで充分だよ」

 妹の言葉に込められた熱意。

「お願い! 私の気持ちを尊重して!」

 こみあげてきた感情は、怒りなのか愛なのか。シガースには分からない。

「じゃあ、おれの気持ちはどうなるんだ?」

「お兄ちゃんの、気持ち?」

「父も母も死んでしまい、お前に先立たれるおれの気持ちは? 考えたことあるのか?」

「だって、だって」

「お前が死ぬくらいなら、自分が死んだ方がましだ」

「私は、お兄ちゃんに生きて欲しいの!」

 妹の必死さが伝わってくる。

「そりゃ、少しでも可能性があれば、応援するよ。でも、ボードゲンに勝つなんて、できるわけがない……」

「ウルース大地で聖魂の宿る泉はいくつかある」

「あるよ。確かに、五つはあるけど。お兄ちゃんが触れられるのは熱の泉だけじゃん」

 五つのうち二つは、生まれついてのある条件を満たさねば飲めない。自分には不可能だ。

「鉄の泉。それを得る」

 メリアンヌはため息をついた。

「無理だよ……」

「いや、あの難題は突破してみせる。なんとか、鉄も操れるようになる」

「あんなの、できるわけがない。いいえ! 例えできても、最強に勝てるわけないよ」

「なんで諦めるんだ? メリアンヌ、おれは!」

 ドアがノックされた。

「あの、話があるんだけど」

 ドアの向こうから、声がする。

「リンダ? 何?」

「人が訪ねてきたの。この家に。メリアンヌちゃんじゃなくて、シガースさんに用があるんだって」

「誰だ?」

「知らない人」

 シガースはため息をついた。

「分かった」

 仕方なく、玄関に向かった。

 扉を開けると、門の外に人物が立っている。

「えっと」

 どちらだ?

 男なのか、それとも女なのか。

「あなたがシガースか」

 声が高い。

 かと言って、子供には見えない。

「ああ、おれがシガースだ。お嬢さん」

 相手は不快そうな顔をした。

 失礼な奴だ、そう思っているのが分かる。

 何故だ?

 非礼な態度などとっていない。

「私はユリードという」

「へえ」

 変な名前だ。

 娘にユリードなどとつけるのは、まともな親とは思えない。

「何だ? 変な顔をして」

「……いや、別に」

「私の髪型のことかな?」

「違う」

 ああ、自覚はあるのか。

 この女は、髪の毛が異様に短い。坊主頭の女。眼と同じ黒の髪の毛だが、かなり珍しい髪型だ。

 女なら男と違って、祭司になっても髪を剃ることは要求されないはず。

 女が大切にする髪を、こうも短く切る。

 奇妙だ。

「髪型でないなら、何を気にした?」

「大したことじゃない」

「大したことでないなら、言えるだろう。ここで口にしろ」

 初対面の人に対して、やけに高圧的な女だ。

「いや、風変わりな名前を親につけられたんだな、と思って」

「違うぞ」

「あ、あんたは気に入っている名前なんだな。すまない」

「そうではない。親につけられたのは、アマンダという名だった」

「え?」

 普通の名だ。

「ユリードというのは、自分で決めた名なのだ」

「……どうして、名を変えた?」

 女は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「そんなの、いい名が欲しかったからに決まっているではないか」

 どういうセンスをしているのだ?

「そんなことより、用件がある」

「どんな用かな?」

「鍵が欲しい」

 ユリードが口にした言葉は、意外なものではなかった。

「ああ、やはりか」

 シガースも熱の泉の鍵をもらうために知らない家を訪問した。望みをうちあけると、同情されたのを覚えている。

「あなたが、あの泉に触れた一番最近の人だと聞いた。間違いないか?」

「ああ、持っているよ。ユリードさんに、渡してもいい。ただし、言ってもらわなければならない」

「理由か?」

「そうだ。おれが、そんな望みのために泣いたのでは渡せない、と判断するかもしれない」

「目的は、肉体の泉の水を飲むことだ」

 さらりと告げられた内容に、シガースは眼を見開いた。

「肉体の泉、だと?」

「ああ」

「じゃあ、あんたは女なのに最強を目指しているのか。このウルース大地で」

「もちろん」

 じっとにらみつける。

 髪の短い女に、怯む様子は見えない。

「鍵は、渡せないな」

「なんだと?」

 ユリードの目つきが鋭くなった。

 子供なら、視線だけで泣かせることができるだろう。

「お前はなんでそんなことを言うのだ? シガース」

 呼び方が、あなたからお前になった。

「そりゃ、駄目だとおれが判断したからだ」

「理不尽だ」

「そんなことはないよ、ユリード。あんたに鍵を渡すかどうかは、おれが決められる。それがウルース大地の掟じゃないか」

「お前が決めたことに腹を立てているのではない」

 ユリードの声が低くなった。

「理由も聞いていないではないか。何故、肉体の泉の水を飲みたいかも聞かずに、拒絶する。これが理不尽でないなら、理不尽な行為など世界のどこにもないだろう」

 辛辣な口調だが、反論はできなかった。

 確かにその通りだ。

「一理あるな。分かった。理由を聞かせてくれ」

「話したくない」

「何だと? なら、鍵は渡せないな」

「お前、ふざけた男だな」

「何故そんなことを言う? 理由を言えと言っているのに。理由次第では、渡す」

 ユリードは、苛立ちを隠さなかった。

「私は、話す気だった。だが、さっきのことで気を変えた。シガース」

 声に怒気がこもっている。

「私の求めるものが何であれ、拒絶するつもりだろう」

「いや、そんなことは……」

「正直に言え!」

 ユリードの迫力に、圧倒された気になる。

 無理だ。

 ごまかせない。

「女の勘は鋭いからな。言うよ。その通りだ」

「何故だ?」

「おれも、最強を目指しているからだ」

 とっさに、道を歩いている人を見る。

 人通りはまばらだった。

 こんなこと、他人に聞かれたら笑われる。

 聞かれたくない。

「ふうん」

 ユリードの声が、余裕のあるものに変わっていた。

「お前もボードゲンに挑むつもりなのか?」

「ああ」

「やめておけ。死ぬだけだ」

 いきなり不快な気になる。

「あんたこそ、女で最強を目指しているじゃないか。死ぬだけだぞ」

「ほう」

「おれの方が、勝つ可能性は高い」

 ユリードは笑った。

 見ていて気分のいい笑顔でない。

 見下している笑みだ。

「なら、話は簡単だ。私とお前とで、決闘をすればいい。お前が勝てば、鍵を渡さなくていい」

「そうか。受けて立つ」

 ユリードは空を見上げた。

「もう、夕方か。明日の昼、北の森での決闘はどうだ? シガース」

「嫌だ」

「ん? なにが不満なのだ?」

「あんたが、罠をしかけるかもしれない」

「ふうん。意外と知恵はあるのだな。的外れだが」

 失礼な女だ。

「なら、お前が決めろ。どこにするか」

「おれは」

「明日の昼、ここを訪ねる。そうしたら、お前が私を決闘の場所まで連れて行け」

「あんたはいいのか? 罠のことが不安ではないのか?」

「信じている」

 ユリードはそう告げた。

「あ、会って間もないおれのことを信じているのか」

 罠などかけないと確信しているのか。

「違うぞ、シガース」

 ユリードの眼にあるのは、余裕。

 そして優越感だ。

「お前がどんな罠をしかけてきても、私が勝つ。私は、自分の力を信じている」

 一瞬、声を出せなかった。

「お前ごときに負けるものか」

 なに、と言いかけた時にはユリードは背を向けていた。

 立ち去っていくユリード。はっとして、声をかけた。

「おい」

「なんだ、シガース」

「おれが最強を目指していることを、言いふらさないでくれ」

「何故だ?」

「笑われたくないからだ」

「見下げ果てた男だな、シガース」

「……なんだと?」

「器が小さい。更に弱気で、愚かだ」

「待てよ、なんでそんな――」

「私は、自分が肉体の泉の水を飲みたいことを、公言している」

「そんなことを言えば、笑われるだけだろう」

「どうでもいい。他人が嘲笑しようが、私には関係ない。警戒されたから勝てない、ということはある。だが、笑われたから勝てない、なんてことはない」

 ユリードの視線に軽蔑の思いが込められているのが、はっきりと分かる。

「お前はすでに負けているぞ、シガース。軽く倒してやる」

「てめえ!」

 叫んだが、ユリードは見下した顔のまま言い捨てた。

「せいぜい、わめいていろ」

 早足で去っていく。

 遠ざかる背中を見るのを止めた。不快なだけだ。

「なんて、なんて嫌な奴なんだ」

 思わずそう吐き捨てた。

 振り向くと、リンダが玄関の前に立っていた。

「なんだ、聞いていたのか?」

「あ、ごめんなさい。気になっちゃって」

 別に、と言いながら自宅の扉に向かう。

「聞かれてもかまわない。妹の友達だからな」

「そっか。でも、まさかユリードさんとは思わなかったな」

「知っているのか?」

「名前はね」

 リンダは一歩、シガースに近づいた。

「最強を目指している、と言っている女性がいるということは、女子の間では有名なの」

「それで、笑いものになっているだろう」

 リンダはうなずく。

「散々、馬鹿にされている。でも」

「でも?」

「気にしていないみたい。笑われても、眉一つ動かさないんだって。怒らない人だと思った。いや、思っていた」

 過去形で言った。

「どう見ても、怒らない人ではないな。変な女だ。どいてくれ、リンダ」

 自分の家に入った。

 メリアンヌの部屋に戻る。

「お兄ちゃん、どんな人だった?」

「変な女だった。鍵を要求してきた」

「名は?」

「ユリードという奇妙な名だ」

「ええ!」

 メリアンヌが体を揺らせた。ベッドがきしむ音がする。

「あのユリードさんなの?」

「知っているのか?」

「うん。気さくで優しくていい人だよ。いつも笑顔で」

「なに?」

 同じ人物とは思えない。

「ただ単に、同じ名の別の人じゃないか?」

「そうかも。その人、二十五歳ですごく髪が短いわけではないよね」

「え?」

「あと、アマンダという名前だったわけでも、ないよね」

「いや、間違いなく同じ人だ」

 あの目つきの悪い女が。

 不快な顔を見せる横柄な女が。

「気さくで優しくていい人?」

「うん」

「いつも笑顔?」

「そうだよ」

 妹はうれしそうだった。

「ユリードさんなら、おしゃべりしたかったな。でも、意外。ユリードさんにも、泣くほど叶えたい夢があるんだ」

 確かに、そういうことになる。

「いつも笑顔で、美しい人で、悩みなどないと思っていた」

「美しい、か」

 顔立ちは整っているが、美人とは思えない。

 思えないのは、無表情か不快そうな顔しか見てないからだ。

「もちろん、鍵を渡してあげたよね」

「いや、拒絶した」

 メリアンヌは息を飲んだ。よほど驚いたと見える。

「どうして、そんな意地悪をするの? それとも、抱いてはならない望みだったの?」

「おれと同じだ。肉体の泉の水を飲みたい」

「あ……」

「女のくせに」

「そうか。そんな望みなんだ。でも、ユリードさんらしいな。いつも、体を鍛えているから」

「む、そうなのか?」

「格闘家の男が、三人がかりでも倒せなかったとか、聞いてるよ」

「本当か? 噂に尾ひれがついただけではないのか?」

「違うよ。本人が口にしたの。ユリードさんが嘘をつくとは思えないな」

 手強いのか。

「それで、ユリードさんはどうしたの? 諦めて、帰ったの?」

「いや、決闘を申し込んできた」

 一瞬、メリアンヌは黙った。

「おれが負ければ、鍵を渡す。と言ったが、安心してくれ」

「安心って、何を?」

「おれは勝つ。そして、お前を救う!」

「ううん、お願いだから負けて」

 即座に返ってきた言葉。

「負けて。そしてボードゲンに挑むのをやめて」

「いや、おれは勝ちたい。お前を救いたい!」

 メリアンヌはため息をついた。

「分かった、全力を出して努力して」

「ああ、おれを応援してくれるんだな」

 違うよ、ぼそっとメリアンヌは言った。

「全力を出しても負ければ、さすがにお兄ちゃんも諦めるでしょ」

「……なんでだよ」

 吐き出した言葉に込められた苛立ち。

「なんで、おれの敗北を望むんだ? おれはお前のために!」

「違うよ。ごまかさないで。お兄ちゃんは、お兄ちゃんのために最強を目指している」

 メリアンヌの静かな声。

「人はね、常に自分の望むことをするんだよ。『あの人のためなら死んでもいい』と思う人は、自分のその人への思いを大事にしているだけ。人は誰でも、自分の望みを優先する」

 声を返せない。

「聖女が世界を幸せにするために、貧しい人々に献身的に接するのは、その人々に愛されたいから。名声が欲しいから。天国に行きたいから。人はどうしても、自分の望みから、欲望から離れて行動することはできない」

「おれが、欲にまみれた汚れた奴と言いたいのか?」

 妹が、腕を伸ばしてきた。

 か細い腕がシガースの服を引っ張る。妹の意志に、体を任せた。妹の手が背中にまわる。

 抱きしめられていた。メリアンヌの温もりを感じる。

「ううん。お兄ちゃんが、私を救おうという欲望を抱いてくれたことは、本当にうれしい。世界一のお兄ちゃんだと、そう思う」

 何も言えない。

「そんな、世界一のお兄ちゃんを、失いたくない。それが私の欲望だよ。だから、私の願いはお兄ちゃんがユリードさんに負けること。お兄ちゃんの望みは、ユリードさんに勝つこと」

 抱きしめたまま、メリアンヌは言った。

「お兄ちゃんが戦いに勝てば、神様は私を見放した。逆にお兄ちゃんがユリードさんに負ければ、神様は私を助けてくれた」

 妹は自分の顔を見つめてきた。

「全力で戦って。私は自分のために、お兄ちゃんが負けるのを神様に祈るから。負けてくれたら、たぶん泣いて喜ぶと思うな、私は」

 胸にしみる言葉で。

何も言い返せなかった。


 ■■■


 昼になって玄関のドアを開けると、ユリードは門の前に立っていた。

「もう来ていたのか。早いな」

「お前が遅いだけだ」

 相変わらず失礼な対応だ。

「それで、どこへ行くんだ? シガース」

「西の草原」

 ユリードは眉一つ動かさなかった。

「分かった」

 随分前に舗装された道は、雑草で歩きにくくなっている。敷き詰められた石が、傾いているのだ。これなら、舗装しなかった方がましなのではないかと、常に思う。

 無表情のまま歩いていくユリードを、じっと見ながら進む。

 確かに、身のこなしに隙はない。

 だが、女だ。

 熱の泉以外の泉に、触れているとは思えない。

 自分は、熱の力を操れる。

 こいつはまだ熱は操れない。

 メリアンヌの言葉を思い出す。

 その通りだ。

 おれは、自分のために妹を救おうとしている。

 あいつこそ、世界一の妹だ。

 もしここで負ければ、自分より強い奴が熱の能力も手に入れることになる。

「そんなわけにはいかない」

 絶対に、こんな奴には負けない。

 負けるものか。

 家屋はだんだんとまばらになり、家の見た目が派手になっていく。赤や黒や金色の外壁が多い。この辺りに住む人々は、相変わらず趣味が悪い。

 人々が通り過ぎていく。舗装されてない所を通る人も多かった。気持ちは、分からないでもない。

 少しずつ、黄色い花が地面に増えていく。

 花を踏むのは好きではない。よけて足を動かす。

 ユリードは、そんな繊細な精神などないようだ。平気で花を踏みつけていく。

 ますます不愉快な奴だ。

「あ、ユリードさん。こんにちは」

 腹の突き出た中年の女性が声をかけてきた。

「こんにちは」

 ユリードは笑みを見せる。

 親し気な笑みだ。

 自分に対する笑みとは違う。

 いや、それは当然だ。

 倒すべき敵と、同じ表情を向けることの方が不自然だ。

 ユリードは、他の人とは挨拶をするが、シガースには話しかけない。ユリードの親しい知り合いは、大抵が女性だということが分かった。

 ようやくこちらに向き直ったのは、西の草原についてからだ。水色の草が風になびいて揺れている。

「ではシガース、勝利条件はどうする?」

「命をかけた、真剣勝負にしよう」

「断る」

 シガースは顔をしかめた。

「何故だ? 死ぬのが怖いのか?」

 まさか、と呆れたような顔をする。

「お前などに、負けるはずがない」

「じゃあ、何故?」

「お前を殺すと、メリアンヌさんが悲しむからだ。そんなことも分からんのか」

 侮蔑的な口調だが、嫌な気分にはならなかった。

 むしろ反対だ。

「メリアンヌさんのことだ。お前が負けるのを望んでいるだろう。だが、死ぬことを望んでいるはずがない。もっと妹を思いやったらどうだ? シガース」

 冷たい口調の中に、優しさがこもっている。

 こいつ、いい奴かもしれない。

「勝利条件は、私が決めていいか?」

「いいよ、ユリード。あんたが決めろ」

「勝利条件というより、敗北条件になるな。どちらかが、自分は勝てないと諦めたら、負けとする」

「まあ、いいだろう」

「なら、戦いの始まりだ」

 一瞬で、距離を詰めてきた。

 驚き。

 それが対応を遅らせる。

 腹を殴られた。

「ぐはあっ!」

 肉体の泉に近づいて、弾き飛ばされた時のように。

 吹っ飛ばされていく。

 すごい速さで飛んでいく自分の肉体。

 背中が堅いものに叩きつけられて、ようやく止まった。

「うう」

 痛みにうめいた。

 当たったのは、大木のようだ。

 かまえようとして、ユリードの顔を見る。

 シガースの腹を更に殴ってくる。

「ぐっ!」

「敗北を認めるか、シガース」

 冷たい声。

 その声の中に、熱い戦意がこもっている。

「誰が認めるか!」

 熱の力を、解き放った。

 自分の体が熱に包まれる。

 何故か、汗は流れてこない。

 熱いと感じるのは事実だ。

 だが、不快ではない。

 熱を感じるが、それで苦しいとか辛いということはない。

 わいてくるのはむしろ、闘志。

 ユリードは退いて、距離を取っている。

「おれを、甘く見たな」

 腹が痛い。

 殴られたところが、悲鳴を上げている。

 その悲鳴が口からもれるのを、必死にこらえる。

 右手で握りしめる。

「おれの一撃を食らえ、ユリード!」

 女とは言え、容赦はしない。

 シガースの右手が熱くなり赤い闘気をまとうのを、ユリードは見なかった。

 いきなり、背を向けて逃げ出した。

「待て!」

 水色の草が次々に踏みつけられていく。必死に追いかけた。すぐに追いつくと思ったが、なかなか距離は縮まらない。

「臆病者! 逃げるな」

 白い木肌の樹木が並ぶ森の手前で、ユリードが足を止めた。

 こちらにきつい視線を送ってくる。

 かまえもしない。

「おれは勝つ!」

 叫んで、殴ろうとした。

 その時だった。

 いきなり、雨が降り出した。

 自分の右手が冷えていく。

「勝つのは私の方だ、シガース」

 ユリードは落ち着き払っている。

「ちっ! 運のいい奴だ」

「それは違うぞ」

 天を仰ぐユリードは、隙だらけに見えた。

 なんとか、右手を熱くする。

 雨水がかかっても、蒸発するくらいに熱くすれば、自分は勝てる。

「無駄な努力だな、シガース」

「無駄ではない。雨程度で、おれが止まると思っているのか! 愚か者はあんたのほうだ!」

 ユリードは鼻で笑った。

「もうすぐ、雨ではなくなる。空を見てみろ」

 見上げたシガースは、はっと息を飲んだ。

「これは」

 みぞれだった。温度が急激に低くなっていることに、初めて気づいた。

 なんで、この季節に?

「どうせお前の家から離れた場所でないと思っていた。だから、みぞれを降らせる雲を用意することができた」

 ユリードの言葉は、衝撃的だった。

「ま、まさか、あんたは」

「そうだ」

 ユリードの顔に化粧がないことに、改めて気づく。

「お前の思っている通りだ」

「あんたは、天候の泉の水を飲んだのか?」

「ああ」

 ようやく、分かった。

 何故、名を変えたのか。

 何故、そんな髪型なのか。

「そ、そんな。あの泉に触れることができる人は、ごくまれにしか生まれない。じゃあ、あんたが肉体の泉を望むのも!」

「ああ、言うまでもないだろう?」

 ユリードは近づいてきて、シガースの肩を軽く叩く。

「お前の負けだ、メリアンヌさんの兄」


 ■■■


 ユリードと共に、メリアンヌの部屋に入った。

「お兄ちゃん、ユリードさん!」

 妹の声を耳にするのが、ひどく痛いように思えた。

「ど、どうだったの? どっちが勝ったの?」

「メリアンヌ、ごめん……」

 シガースはうつむいた。

「ま、まさか」

「おれが負けた」

「え?」

 恐る恐る尋ねてくる。

「お兄ちゃんが、負けたの?」

「ああ、お前を救えなかった」

「なあんだ、紛らわしい。謝るから、てっきり勝ってしまったのかと思ったよ。良かった」

 メリアンヌは笑顔のまま、眼に涙を浮かべている。

「神様に、感謝しているのか?」

「神様より、ユリードさんに感謝するよ。ありがとうね、お兄ちゃんを倒してくれて」

 ユリードは微笑む。

「いい子だな、メリアンヌさんは」

 ベッドに近づき、そっと手を妹の頭に乗せた。

「更にうれしいお知らせだ」

「なに? ユリードさん」

「私が最強になれたら、メリアンヌさんの病をなくす。健康になってもらう」

「ええ!」

 兄と妹が、同時に叫んだ。

 メリアンヌは固まっている。

 シガースが問いかける声は、震えていた。

「ほ、本気か? ユリード」

 こちらを見る視線は、相変わらず冷たい。

 だが、視線の冷たさなど気にならない。

「本当に、救ってくれるのか? おれの妹を」

「もちろんだ」

「な、何故?」

「そんなこと、説明するまでもない。分かるだろう、いくらお前でも」

 シガースが黙ると、メリアンヌは声を上げた。

「いいえ、私にも分からない。どうして?」

「そうか、メリアンヌさん」

 妹に向ける視線は、優しげだ。

「あなたがいい人だからだよ。兄の敗北を祈り、私の勝利を喜んでくれた」

 顔を、メリアンヌに近づける。

「そんなあなたへのプレゼントだ。受け取ってくれ」

 シガースの眼から、涙があふれてきた。

「あ、ありがとう。ユリード。いや、ユリードさん。まさか、おれたち兄妹を、そこまで思いやってくれていたなんて」

 ユリードは不機嫌そうな顔を向ける。

「お前のことは思いやっていない」

「そうだな。それは分かる」

 シガースはひざまずいて、両手を床に押し当てた。

「おれの妹を思いやってくれて、ありがとうございます」

「お、おい」

 ユリードの慌てた声。

「そこまですることはない。顔を上げてくれ」

 涙にぬれた眼で、ユリードを見上げる。

「やっぱり、あんたはいい人だ」

 照れたのか、ユリードは横を向いた。

「それにしても、どうやってお兄ちゃんに勝てたの? 熱の力を持っているのに」

「私が、天候の泉の水を飲んだからだ」

「ええっ!」

 メリアンヌは大声を上げた。

「じゃあ、じゃあ、最強を目指すのは、肉体の泉を求めるのは」

 ユリードを見つめるメリアンヌ。

「男になるためなの?」

 ユリードは微笑んだ。

「もちろん。男になって、大好きな恋人に私の子を産ませる。それが幼いころからの夢だった」

 覚悟のこもった声。

「絶対に叶えてみせる」

 そうか、とメリアンヌは言った。

「辛い思いをしてきたんだね、ユリードさん」

「別に。大して辛くない。むしろ幸運な生まれだ。この大地に生まれて良かった」

「…………」

「希望はある。天候の泉と、肉体の泉がウルース大地にはあるのだから」

 では、とユリードは熱の泉の鍵をポケットに入れた。

「私の勝利を祈っていてくれ」

 去っていったユリード。

 兄妹二人きりになった。

「考えてみれば、分かるな。ユリードは、男の名としてはおかしくないもんね」

「ああ、そうだ。全部が、納得できた」

 天候の泉。

 そこに宿る聖魂の定めた条件は、体と心の性別が異なること。

「勝てるといいね、ボードゲンに」

「ああ、お前の病のために」 

 メリアンヌはうなずいた。

「それから、ユリードさんの夢のために」

 窓から、日差しが射しこんでいた。

 この日差しをつくったのも、ユリードかもしれない。

 窓に触れると、陽光の暖かさを感じた。

 勝ってくれ、ユリード。

 そう願った。





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