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05、チョッチョはフィオレッティと呼ばれたい

 肩で息をしているのは、オレンジ色に脱色した髪を結いあげ、楽譜をくわえた町娘――に見える男だった。町娘風の素朴な服は、彼が出演している喜歌劇(オペラブッファ)の衣装だったはず。


 早足で追いかけてきた侍女が苦言を呈した。


「フィオレッティ様、廊下を走ってはいけないっていつもお話ししているじゃありませんか」


 私は鍵盤から顔を上げ、楽譜でふくらんだ革製の紙入れを抱えた彼に一瞥をくれた。


「今日も遅かったですわね。ピエーロ・ディ・チョッチョ先生」


 彼は非常に残念ながら、現在私の音楽教師を務めている。


「ちょっとお嬢様!」


 チョッチョはぷくーっと頬をふくらませた。


「ボクのことはフィオレッティってステージネームで呼んで下さいよぉ」


 歌手も作曲家も、たいていはステージネームを持っている。客が付けることもあれば、本人が名乗る場合もあるようだ。由来は出身地やデビューした土地、初めて演じた大役、師匠やパトロンのファミリーネームなど様々だ。出版される台本には本名と共にステージネームも併記される。


 チョッチョは出身地「花の街」からフィオレッティと名乗っているらしい。


「舞台稽古が長引いちゃったんですよ。今日も舞台衣装のままですみません」


 チョッチョはぺろりと舌を出した。この男はいつも舞台衣装でやってくる。しかし男性の服装だったことは一度もない。声質が細く声量もないチョッチョには、男役が回ってこないのだ。


「お嬢様、今日は何を弾きます?」


 息を整えたチョッチョが、チェンバロの横に置いた椅子に腰を下ろした。


「前回の続きで二声のソナタにするわ」


 私はチェンバロの譜面台を立てて、楽譜を並べた。


「ああ、あの簡単な練習曲ですね」


 チョッチョは興味なさそうに紙入れの革紐を解いた。中には楽譜だけではなく、鏡や布袋まで入っている。


 私は楽譜に視線を戻すと、ひとつ息を吸ってからソナタの一楽章を弾き始めた。


 華やかなチェンバロの音色が舞い上がる。音楽室のあちらこちらに音の花弁が舞い散り、反響してゆく。次から次へと表情を変える和声が、色彩豊かな花園を作り出した。


 だけど冷えた指ではトリルがうまく決まらない。視線だけ動かしてチョッチョを見ると、彼は熱心に手鏡をのぞきこんで、つけぼくろの位置を確認していた。真面目にレッスンする気などないのだ。


 快活な一楽章が終わり、ゆったりとした二楽章に入ると、私は指だけ動かしながら思案に(ふけ)った。


 アルカンジェロ宛てに手紙を書いて、ミサの際に侍女から神父様に渡して、彼に届けてもらうことは可能だ。


 だが証拠が残る上、誰かに開封される危険もある手紙という手段で、アルカンジェロは真実を明かしてくれるだろうか?


 お父様だって職務上、家族に対しても話せないと、教えてくれない情報も多いのだ。


 十年前の毒殺事件についてはいくつも妙な点がある。


 まず避暑に訪れた離宮で兄弟が飲み物に毒を盛られたというけれど、当然、毒見役がいたはずだ。それなのに毒殺が成功するなんて、実行犯は使用人の誰かじゃないの?


 しかもお父様によれば、王子たち二人の周りにいた侍女や侍従、使用人への接触は陛下によって禁じられたそうだ。何か隠そうとしているのは陛下のほうなんじゃない?


 十年前、七歳だったとはいえ、私もあの夏のことは覚えている。お父様は騎士団長として王族に同行して離宮へ泊まり込んでいたのだが、帰邸予定の日になっても戻って来なかった。毒殺事件が起きて調べていたというなら分かるのだが、お父様に同行した侍従によると、何が起きたのか明かされないまま五日ほど帰城が伸びたそう。その間に何かが隠蔽されたのではないかと勘ぐってしまう。


「ねえ、リラお嬢様。今日はなんだか心ここにあらずじゃない?」


 チョッチョの鋭い指摘に、私の意識は引き戻された。


「お嬢様、一番カッコを三回繰り返してるの気付いてます? いつまで経っても二楽章が終わらない」


 考えごとに没頭しすぎたわ。


 私は表情を変えずに二番カッコに移った。だが続いたチョッチョの言葉に思わず手を止めてしまった。


「お嬢様ったら恋でもしているのかしら?」


 愕然として横を見ると、チョッチョが妙な(しな)を作って人差し指を口もとに添え、愛らしく首をかしげていた。この男、お化粧が濃すぎるとはいえ顔は綺麗なので、それなりに魅力的なのが憎たらしい。


 きょとんと上目遣いで見上げられ、私はうろたえた。


「なっ、あなたと一緒にしないでちょうだい!」


「どうして恋する心を否定するの?」


「恋なんかしていないからよ!」


「嘘おっしゃい」


 腹立たしいことに、チョッチョはまったく私の話を聞かない。


「マエストロ・チョッチョ、よろしくて?」


 私は少女の姿をした音楽教師に向き直った。


「花壇を飛び回る蝶々のように恋ばかりしているあなたと、私は違いますの」


 でも私、なんでこんなに苛立っているのかしら?


 自問するとすぐに答えが返ってきた。


 だって勝手に恋をしていると決めつけられたのだもの。怒って当然でしょう?


 もし恋をしたと言うのなら――十年前の事件解決にこだわる理由は、アルベルト殿下への淡い恋心かも知れない。でもそれは忠義にも似た想いで、隠す必要もなければ腹を立てる理由にもならない。どうして私は、こんな釈然としない気持ちを抱えているの?


 チョッチョはクスッと魅惑的な笑みを浮かべ、手鏡を椅子に置いて立ち上がった。


「そんなリラお嬢様にちょうどよいアリアを、フィオレッティがお教えしましょう」


 スカートが風を含んでふわりと広がる。 


 芝居がかった足取りでチェンバロの回りを一周してから、ひらりと手首を返し、私に立ち上がるよう促した。


 げんなりして場所をゆずると、彼は左手で通奏低音だけを弾きながら歌い始めた。


「私は心に決めた

 この胸を焦がす炎に従うって」


 小鳥のさえずりみたいに愛らしいけれど、響きの少ない彼の声はあまり広がらない。本格的な正歌劇(オペラセリア)では脇役しかできない所以(ゆえん)だ。


 チョッチョは右手のひらを胸に向けて、わざとらしい演技をつける。


「嘘をつくのはおしまいよ

 彼と生きてゆくの」


 部屋の天井を見上げる彼の目には、ボックス席から見下ろすお客さんでも映っているのかしら。


 チョッチョは、男性高音歌手があまり出演したがらない小劇場の喜歌劇(ブッファ)でヒロインを演じることが多い。


 神話や古代の英雄を扱う正歌劇(セリア)と違って、民衆に好まれる喜歌劇(ブッファ)では、召使い同士の色恋沙汰など身近な主題が扱われる。ゆえに男性ソプラノの非現実的な声は合わない。その辺の運河でゴンドラでも漕いでいそうなテノールの方がふさわしい。


 でもチョッチョには正歌劇(セリア)のアリアで求められる超絶技巧も声量もないから、脇役に甘んじるくらいなら喜歌劇(ブッファ)で主役級を歌った方が楽しいのだろう。


 A部分を歌い終わったチョッチョは下手くそな右手を添えて、間奏の弦楽パートを弾こうと四苦八苦していた。音楽院を卒業している以上、学生時代はチェンバロも必修科目として収めたはずだが、今では私に毛の生えた程度のテクニックしかない。


 たどたどしい間奏がようやく終わったと思ったら、B部分を歌い始めた。


「私は知った

 幸せは、この手でしかつかめないって」


 右手をぎゅっと握ってこぶしを作る。なんだか演技が嘘くさいのよね。


 響きが浅く、迫力のないソプラノを聴いていると、昨日の夜会で私の耳を癒したアルカンジェロの優しいアルトがなつかしくなる。歌声を思い出した途端、彼にもう一度会いたくて、私は居ても立っても居られなくなった。


 ああ、アルカンジェロが私の音楽の先生だったらよかったのに!


「なんて自由なのかしら

 風も空も太陽も私を応援しているわ」


 舞台の上さながらにチョッチョが両手を大きく広げたとき、廊下ではなく、次の()に続く扉がひらく音がした。顔を上げなくても、ぷんと香るムスクの匂いで誰が来たのか、私はすぐに分かった。

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