エピローグ:二組の結婚式はリラの花咲く庭で
宮殿の中庭には、陽射しが燦々と降り注いでいた。
白大理石の彫像が等間隔に配置され、その下にはリラの花の鉢植えが並んでいる。甘やかな香りで満たされたこの庭こそ、十年前、私とアルベルト殿下が出会った場所だ。
中庭の中央に据えられた祭壇には純白のリネンがかけられ、金糸の刺繍が力強い陽射しを受けて輝いている。
私とアルベルト殿下、クリス兄様とエルヴィーラ嬢が並び立つ前で、司祭様が荘厳な声で誓いの言葉を述べた。
「汝ら、今日この日に、愛と誠実の誓いを捧げるか?」
司祭様の静かな問いに、私たち四人の「はい」という自信に満ちた声が唱和した。
祭壇を囲む椅子には、豪華な絹やサテンの衣服に身を包んだ貴族たちが座っている。貴婦人たちは絹の手袋をはめた手で小さな日傘をかざし、降りそそぐ陽光から白肌を守っていた。人々の頭上をカモメが悠々と舞い、海の方へと飛んで行く。
厳粛な雰囲気の中、婚姻の儀が終わると、庭の一角に用意されたテーブルに色とりどりの料理が並んだ。
アルと並んで座った私のもとへ、次々と貴族令嬢たちがやってきて、ドレスやアクセサリーを褒めちぎる。婚約破棄された夜会では嘲笑を浮かべていた彼女たちの、変わり身の早さに言葉も出ない。
居心地の悪い思いをしている私に気付いて、アルがすぐに口をはさんだ。
「お嬢さん方、宮廷楽団が奏でる優雅なアルマンドに耳を傾けようではありませんか」
王太子アルベルトに美麗な微笑を向けられて、女性たちは魔法にかけられたかのように静かになった。
アルマンドが終わりに差し掛かったのを見計らって、今日のために外国から呼び寄せられた女性歌手が立ち上がる。彼女はかつてロムルツィア王国の劇場で歌っていたが、今は出世して、大陸の北に広がるサッソニア公国の中心地ドレスデーネの宮廷歌手として安定した生活を享受しているという。
お母様とは今もまだ手紙のやり取りが続いているそうだ。今回もお母様がサッソニア選帝侯に、ぜひ彼女を貸してほしいとお願いしたのだ。
宮廷楽団がゆったりとした三拍子の前奏を奏で始めて、私は息を呑んだ。
この曲、『初恋はリラの花のように』だわ!
チェンバロ演奏でしか聴いたことのなかった前奏が、弦楽合奏で浮かび上がる。聴きなれた伸びやかなメロディが、どこか哀愁漂う弦の響きで再現されて、私は思わず隣に座るアルベルト殿下と見つめ合った。
彼の形の良い唇が、私の耳に近づく。
「俺たちが出会った日の、思い出のアリアだ」
優しく私を見つめるチョコレートブラウンの瞳は、陽射しを受けてキャラメル色に輝いていた。
私はふと喜びのため息をついた。
「まさか十年前のアリアを聴けるなんて。きっとお母様がリクエストしてくれたんだわ」
母の粋な計らいが嬉しい。
深紅のドレスに身を包んだ艶やかな黒髪の女性歌手が、張りのある美声で歌い出した。
「初恋はリラの花のように
僕の胸に今も香る」
海の方からサアッと風が吹いてきた。彼女の歌声と共に、リラの花の薄紫や純白の花弁が、初夏の訪れに歓喜するように舞い踊る。
「リラの花が咲くたび思い出す
きらめく春の陽射しを浴びて
君を追いかけた少年の日」
アルの腕がそっと伸びてきて、膝の上に置いていた私の手を長い指で包み込んだ。
「彼女、このアリアを創唱した歌手だよね」
「そうなの!?」
私はささやき声のまま興奮した。オペラアリアはそれぞれの歌手の声に合わせて作曲される。彼女の声がなければ、この美しいアリアは生まれなかったのだ。
アルは歌手を見つめたままうなずいて、なつかしそうに語った。
「俺がロイヤルボックスで観た最初で最後のオペラだ。彼女が男装して主役を歌っていたんだよ」
ロイヤルボックス席とは舞台正面に位置する広々とした部屋。当時十歳だったアルベルト殿下はオペラの配役についてよく覚えているようだ。私はまだ七歳で、夜遅くまで公演の続く劇場には連れて行ってもらえなかった。
どこか寂しそうな彼に、私はおどけた口調で耳打ちした。
「これからはいくらでもロイヤルボックスで観られますわよ」
「君と一緒にね」
アルがいたずらっぽくウインクしたとき、間奏が終わってアリアは短調のB部分に差し掛かった。
「めぐる季節は容赦なく
二人の道を引き裂いた」
胸に迫る旋律に乗せて悔恨を歌う。歌手は悩ましげに瞼を伏せた。
「降りやまぬ雪に閉ざされて
僕は悔やんで自問する
なぜ君を追わなかったのか」
ふと視線を戻した歌手と、お母様の視線が交わる。絡み合うふたりの妖艶なまなざしに、私はハッとした。
彼女、お母様の昔の愛人だわ!
十年近い月日が流れてずいぶん貫禄のある体型になった女性歌手は、在りし日の中性的なおもかげを失っていて、すぐには気付かなかった。
お母様はたびたび彼女に、男装して『初恋はリラの花のように』を歌ってくれるようせがんだ。そのせいで七歳の私はアリアをすっかり暗記していたのだ。
お母様は男に女装を求め、女性を男装させたがる不思議な人だ。妙なる歌声を鳴らす楽器を愛する母は、歌手の性別そのものにこだわりはなく、敢えて曖昧さを楽しんでいるのかも知れない。
お兄様がいなくなって意気消沈した母を見れば、彼女が愛にあふれた人であることは明らかだ。でも人に対して、恋という感情を抱くことはないのだろう。
私はいつか王妃になって、母のような人が愛のない結婚をしなくてすむように、この国を少しずつ未来へと導いて行こう。
歌手は繰り返しのA部分に華麗な装飾を加えて歌っていた。
「初恋はリラの花のように
僕の胸に今も香る」
この曲は私とアルの思い出のメロディというだけでなく、お母様にとっても、ひとつの愛を象徴するアリアだった。
かすかに潮の匂いを含んだ風が吹いてきて、客の誰かが交わす噂話を運んできた。
「大聖堂のソリストだったアルカンジェロ・ディベッラは、ブリタンニア王国へ旅立ってしまったそうよ」
「あら残念だわ。いい声だったのに」
「でもご存知? 今シーズンから舞台に立っているあの歌手、なんて言ったかしら――」
劇場では毎年のように新しいスターが生まれる。教会歌手アルカンジェロ・ディベッラは遠くない将来、人々の記憶から消えて行くのだろう。
「リラの花が咲くたび思い出す
きらめく春の陽射しを浴びて
君を追いかけた少年の日」
輝かしい歌声は金色の陽射しに透けて、カモメの後を追うように真っ青な空へと羽ばたいて行った。
Fine.
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