25、劇場に咲き誇る歌劇の徒花
チョッチョの仮装みたいに派手な衣装を着た男性ソプラノ歌手が、片手を掲げて堂々と歌い出した。
「トランペットよ、響き渡れ
勝利の喜びよ、闇夜を切り裂け」
物語は初代国王がロムルス神の加護を受け、蛮族を退けた後から始まる。舞台の幕が上がる前に戦は終結しているのに、これから何時間も何を見せられるのかと言うと、色恋沙汰の悲喜こもごもである。
英雄は、蛮族の王の娘と禁断の恋に落ちる。蛮族の娘は、父を倒した男を憎みながらも惹かれてゆく。一方で心優しい英雄は、配下の将軍から蛮族の王を処刑するよう進言されながら、愛する女性の父を害することに苦悩するのだ。
古代の英雄も、今日の台本作家の手にかかれば恋する男に早変わり。ソプラノの美声で愛を歌いあげる。
「恵みの海に豊かな国を築かんと
我は暁に誓う」
男性ソプラノの力強い高音が、トランペットの輝かしい音色と競うかのように響き渡る。だが演奏困難なナチュラルトランペットと比べて、歌手の歌声は自由自在。アルトのような中性的な音域から、女性歌手をもしのぐ最高音まで光の階段を駆け上がる。完全無欠な音の粒が連射され、観客から感嘆のため息が漏れた。お母様などボックス席の手すりから身を乗り出している。
躍動感にあふれ、活力がみなぎるA部分が終わると、歌手は静かにB部分を歌い出した。
「だが勝利の美酒に酔うことはない
わが胸を貫く、美しき貴女の双眸よ」
曲は速度を落とし、流麗な旋律がしっとりと満ちてゆく。男性ソプラノ特有の鋭い高音は鳴りを潜め、フレーズひとつひとつを大切に紡ぐ内省的な歌い方が心地よい。オーボエが時折添えるオブリガートも涙を誘う。
静かな曲調のほうが、この歌手の美声が際立つのではないか? でも観客の受けが良いのは、アクロバティックな歌唱法なのだろう。
「この心が求めるのは戦の勝鬨ではなく
甘く優しい愛の勝利なのだから」
哀愁をたたえた旋律線がくっきりと浮かび上がり、たっぷりと情感の詰まった歌声が胸を打つ。
B部分の終わりに仰々しい変奏を加える歌手も多いが、彼はアリアの書法に沿った落ち着きのある装飾にとどめ、B部分を締めくくった。
私の隣でアルカンジェロが満足そうにうなずいた。彼の趣味にも合っていたらしい。
再びトランペットが加わり、華やかな器楽部分が戻って来たのを聴きながら、私はふとアルはオペラの舞台に立ちたいのではないかと考えていた。彼の正体を知った今なら、不特定多数の目に触れる劇場を避けるために、舞台に立たなかったのだと分かる。
教会の聖歌隊席は普通、信徒の目線より高い場所にあり、聖歌隊員ひとりひとりの顔は見えにくい。暗殺者の魔の手をのがれるために、聖歌隊の仕事や、貴族のサロンといった私的な空間で歌って来たのだろう。
ブリタンニア王国へ渡れば、彼の才能は自由に羽ばたけるのかも知れない。彼は王族である前に、前途有望な一人の若者なのだから。
「トランペットよ、響き渡れ
勝利の喜びよ、闇夜を切り裂け」
繰り返しのA部分が再び始まり、歌手が同じ歌詞を繰り返す。だが作曲家の書いた旋律を巧みに変奏し、思う存分己の技術を見せつける。オリジナルの旋律の三度上から始まったと思ったら、四分音符を十六分音符に分割して、火花を散らすみたいに細かい音符を歌い上げた。
超絶技巧が大好物の観客から歓喜のどよめきが巻き起こる。
トランペット奏者も名演奏家なのだろう、負けじと装飾を加えるが、水のようになめらかな歌手の声にはかなわない。技巧を知り尽くした達人たちの競演に客席が沸き立つ。
「恵みの海に豊かな国を築かんと
我は暁に誓う」
ピンと張った絹糸のように緊張感を保った歌声が、劇場の隅々まで響き渡る。カストラートの歌声は女性歌手のやわらかい音色とは異なる硬質なものだ。ボーイソプラノの透明感を保ってはいるが、遥かに力強く、声量も豊か。裏声を使う古臭い男性歌手の厳かな音色とも異なり、生き生きとした情感に満ちている。
そこまで考えて私はハッとした。アルカンジェロがアルベルト殿下なら、彼は技術を磨いたファルセッティストだったということ!?
やっぱり彼の真実について、どうしても訊かずにはいられないわ!
私は横目で隣に座った彼の、ベルトの下あたりを盗み見た。
アリアが終わると劇場は拍手と歓声に包まれ、退場する歌手に向かってアンコールをせがんだ。観客の求めに応じてチェンバロの前に座ったマエストロがオーケストラに合図をすると、同じアリアの前奏が再び始まった。
この調子だからオペラは一向に終わらないのだ。再び男性ソプラノが舞台へ出てきて、同じアリアを繰り返す。
だが彼はダ・カーポで、先ほどにも増して輝かしく難易度の高い変奏を披露した。観客は大喜び。平土間席のゴンドリエーレたちは口笛を鳴らし、お母様はボックス席から落ちそうなほど身を乗り出して、拍手を送っている。
今度こそ本当に主演男性歌手が舞台袖に引っ込むと、お母様はチョッチョが膝に乗せていた台本に目を落とした。
「あら嫌だわ。次、バスのアリアじゃない」
「ロザリンダ様、低い声お嫌いですもんね」
チョッチョがあらかじめ購入した台本のページをめくりながら、クスリと笑う。
「バスって野蛮な感じがするんですもの。テノールはパッとしないだけですけれど」
勝手な感想を述べてからエルヴィーラ嬢とアルカンジェロを振り返り、
「カーテン、閉めてもよろしくて?」
一応、許可を取ってから、ボックス席の端に束ねてあった緋色のカーテンを引っ張った。
一幕が終わるころになると、ロウソクをたくさん焚いた劇場の空気が薄いせいか、私は頭が重くなってきた。狭いボックス席で仮装した六人が座っているのも原因だろう。
絹の手袋をはめた手で額を冷やしていたら、アルカンジェロがすぐに声をかけてくれた。
「リラ、出ようか?」
私たちはボックス席を抜け出し、劇場内のカフェに避難した。
ほかの客を避けてテラス席の一番端に座ると、冷たい夜風が額を撫でて、ほてった頬を冷ましてくれる。
ウェイターがよく冷えた発泡白葡萄酒と、小さな皿に盛られたナッツを運んできた。
「ロムルツィア王国よ、永遠なれ」
「ロムルス神をたたえて」
大建国祭お決まりのセリフで乾杯し、グラスを傾ける。
冷たいプロセッコが喉を流れてゆく。爽やかな酸味と心地よい刺激で、ぼんやりとしていた意識が覚醒した。
目の周りを覆う仮面を上げ、植物の絡んだ大理石の欄干から運河を見下ろす。向かいの建物の明かりが水面の上で踊り、揺れる光を割ってゴンドラがすべってゆく。帽子を軽く傾けたゴンドリエーレの口ずさむ舟歌を聴きながら、私はようやく疑問を口にした。
「こんな質問、とっても失礼なんだけど――」
向かいに座ったアルが少年のように首をかしげた気配がする。私は恥ずかしくて彼の顔を見られない。うつむいたまま、思い切って尋ねた。
「その、アルベルト様のお体は……」
ようやく訊いた! 次回、ついているのかいないのか、明らかになります! そのほかにもアルの子供時代の秘密など、謎が解ける回です。




