うわさの聖女ちゃん⑧
フランシスカが一月前のやり取りを思い返していると、会場で突然わっと歓声が上がった。
歓声の起こった辺りを見ると、少々もっさりした印象の青年がキュッと右手中指でメガネの鼻当ての位置を直しているところであった。
青年は、パサついた暗めのブロンドを簾のようにその眼鏡に覆い被せており、あれは払わないと視界に難があるのでは無いか? と心配に感じてしまうほどだ。そして天頂に近い部分が、不自然に一部クリッと跳ね上がっている。どうやら寝癖のようだ……。
(彼は全国大会一般部門でいつも優勝する、有名な……名前なんだったかしら)
つい先ほどまで対戦相手としてアスカが座していた相手方の位置には、今は別の対局相手が座しており、丁度勝敗が決した様子であった。
圧倒的な強さだったのであろう、対局相手の男性は「完敗だ」とでも言いたげに肩をすくめている。
二人が握手をすると、その対局を注目していたであろう人々は惜しみなく拍手を贈った。
件の青年は立ち上がると、再び眼鏡を押し上げた。
本人はそのつもりがないのかもしれないが、まるで容姿を隠すように前髪を垂らし、更に銀縁の眼鏡が地味で冴えない印象を増すアイテムとなっている。街ですれ違っても気にも留めないタイプであろう。
しかしながら、彼は大会では非常に目立つ存在である。
それは、この場では誰もが彼を憧れの存在として認識しているからである。チェスにおいて負け知らずの人物として。
彼がいつからチェスの大会にで始めたのかは、存在が地味であるが故にあまり認識されていないのだが、気づけば全国大会の若年男子部門のトップに何年も名前を連ねていた。
そして今現在は、年齢によりエントリーが一般部門となり、当然のように全国大会の一般部門の優勝者として名前を連ねているのである。
「ディオン様、流石ですわね」
隣でカタリナが感嘆の溜息を漏らす。
ああ、そうだわ、ディオン様、とフランシスカは頭の中で反芻する。
「お名前を失念していたことは内緒にしておきますわ」
「あ、また言葉に出してた?」
「ええ」
ディオンは次の対局まで時間があるらしく、会場の別な対局の方に移動し、その対局を眺めている。
「眼鏡外したら素敵なのにねー」
「フランシスカったら、失礼ですわよ」
カタリナは口元に人差し指を立ててフランシスカを咎めた。
そう、実はディオンはよくある設定だが眼鏡を外すとかなりの美青年である。何故それを二人が認識しているのかというと、ディオンはよく躓いて転び眼鏡を飛ばすのだ。このことはチェスの大会に参加する者は皆知っている。
眼鏡を外すと大層な美丈夫であることは周知の事実なのだが、普段が野暮ったく、いつもどこかに寝癖が付いていて、よく転び、しかもその際に眼鏡を飛ばして結構危ないので女性たちは基本的に遠巻きにしている。転倒に巻き込まれたくないためである。
先日の全国大会でも表彰式で盛大にすっ転び、若干の残念表彰式となった筈だ。
(彼、グランプリだったのに)とフランシスカはその時のことを思い出し、ついニヤリとしてしまうのを扇で隠した。
「そう言えば、アスカはどこに行ったのかしら」
「あちらですわ」
カタリナが指し示す方に視線を向けると、柱の影からちらり、ちらりとスカーフが見え隠れしている。様子を観察すると、ディオンをじっと見つめては隠れ、見つめては隠れと繰り返しているようだ。
スカーフも相まって、完全に不審者である。
次回、章の最終話です。




