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面白い文章が見つからない

 今までにネット上で色々な記事、ブログ、エッセイなどを見てきたが、面白い、良い文章を書く人というのは極めて少ない。これまで見てきた中で、いいなと思う人はせいぜい十人前後だ。


 どうしてこんなに面白くないのだろうか、と考えると、一つには、自分の頭で考えていない事が原因として考えられる。小心な権威主義者はこれに該当する。彼らは世間が正しいだろうと言うであろう事を先取りして、自分の「考え」にしてしまっているので、平板で退屈な正論しか言えない。


 もう一つ、面白くない理由は、自分の考えを言おうとしているのだが、それが全く薄っぺらい意見でしかないので、個人の欲望とか感情のレベルで留まっているという事だ。


 例えば「私はカレーが嫌いだ!」という意見があるとして、それはその人の本音、その人の考えなのだろうが、そんな意見は単なる個人の嗜好であり、わざわざ詳しく読もうとも思わない。


 面白くない文章が氾濫する理由をもう一つ考えると、読者のレベルが低いという事が考えられる。読者のレベルが低い為に、その低いレベルに合わせた(私からしたらつまらない)文章が氾濫する。


 よく見かける文章は、読者の共感を誘うようなものだ。「あるあるネタ」はそのわかりやすい例だろう。こういうものは、読者は何も考えずに「そうだよねー」という事で、読者の共感を呼ぶ。その為にポイントがついたりアクセス数が伸びたりしやすい。


 一方で読者に頭を使わせるような文章は人気がない。…というより、そもそも活字を読むという習慣そのものが人気がない。私は自分のまわりを見て「本を読む」というのがこんなにハードルが高い事とは思わなかった。本を読まない人からすると、自己啓発本もパスカルの「パンセ」も同じようなものに見えるらしい。


 面白くない文章というのは、文章が平板で、意味が通りやすい。ベストセラー本を見ると、文体が一直線というか、一本の線が流れているようにわかりやすいものが多い。こうしたものはわかりやすいが、意味内容としては平板だ。


 私は、小林秀雄の文章などは途中までは全然その良さがわからなかったが、継続的に読んでいたらある時、一気に面白くなった。小林秀雄の文章は、それを味わうまでにそれなりの修練がいるものだろう。


 もちろん、こんな風に書いた所で、人が次のように言うのは目に見えている。「君の言う面白さとはあくまでも君固有のものにすぎない。それよりも多くの人が称賛しているものの方が客観性がある。君は自分の面白さを特別視しているだけだ」と。


 まあこんな意見ばかり聞かされてきたので、言い返す気もあまりしない。ただ、そういう意見の通りに、現代は大衆学芸会が世界を制したわけだ。低いものが高くなったわけだ。なぜなら、低いものは万人にとって「易しい」から。


 ちなみに言えば、最初にあげた、私がいいと思う書き手の多くはもうネットへの投稿をやめてしまっている。これは私には残念な事だったが、ネットの世界を見ればもっともな話でもある。数や量だけが絶対視されている世界で、質を目指すのは虚しさしか込み上げてこない事業だ。まともな人間がこんな世界から足を洗うのは当然だと言わざるを得ない。


 そんなこんなで、私が「面白い」と思う人は無事に淘汰され、私が「面白くない」と思う、「面白がらせ 」の人達だけがネットに残るという風になってきている。本来的には質を目指す為の少数のコミュニティが、社会の中で形作られなければならないだろうが、そういうものは全て個の集合としての全体に分解されしまう。大学組織なども、今はかなり崩壊しているだろう。


 残るのはビジネスマン、ユーチューバー、といった面々だろうか。先日、テレビを見ていたら脳科学者が出ていて「人に好かれる脳科学」なんて事をやっていた。科学というのは、それ自体中性的で価値観を持たないので、平気で世の中の通俗的価値観の道具になる。


 脳科学者は「人に好かれるとは果たしてどういう事か」とは考えてみず、「どうやったら脳科学的に人に好かれるのか」と考える。考える事を放棄してしまえば、後はテクニカルな処理が残るだけだ。科学は、思考を失った人々の、残存としての技術的処理に使われるのかもしれない。


 あるいは、AIというものが、人間の頭脳の代わりを果たしてくれるだろうと期待するのも、人間が考える事をやめたがっているからだろう。つまらない文章が溢れている事と、AIへの期待が高まるのは、軌を一にしているとも言える。


 頭が切りはずされた人間の、頭脳部分に機械を置く。そうするともう考えなくていい。


 いや、間違っているのは、現代のそうした劣化した知性ではなく、そもそも近代において理性を至上にした事ではなかったか。理性を至上にした近代は、現代に至って、その理性を自分達の外部のものに置こうとしている。


 神を殺し、奪回した権利を、今度は理性という王に与えた。するとこの王は人間の手を離れて、人間を使役するようになった。合理的という言葉がやたら重要視されるのはその為だ。


 そう考えると、現代社会は、一周回って中世と似ているかもしれない。神を信じる代わりに、機械の脳を信じるのである。


 こうした社会においては再び、考える事は無効になる。デカルトの「我思う故に我あり」は、彼自身の持っていた信仰とは無関係に、無神論的イデオロギーを含んでいた。しかし、現代においてはデカルトのように全てを疑って考える事も難しいだろう。さっさと思考を放棄して、信仰に帰依した方が楽だろう。


 このような世界において、「面白い文章」がほとんど見られないのも至極当然と言わざるを得ない。


 だから、我々のように「面白い文章」を探す人間は砂漠上でオアシスを探すような状態に至ってしまう。そういう世界で、人々が「これがいいですよ」「これが素晴らしいですよ」と、色々なものを差し出してきても、私はそんなものは拒否する。そんなものを食べて、自分の舌をごまかすのであれば、干からびて死んでしまった方がまだマシだから。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても面白いお話でした! でも、書くのに勇気のいる内容ですね。
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