後編
はい、みなさん、話の続きを始めます。
日ソ戦の開戦初期に、ドイツ海軍のUボートに「赤城」「加賀」を撃沈され、戦艦「ビスマルク」が日本近海で暴れ回ったことから、「ドイツは極東に大兵力を派遣した」という印象を持っている人は多いでしょう。
しかし、ドイツが極東に派遣したのは海軍だけで、満州に攻め込んだ地上兵力にドイツ陸軍は皆無でした。
それには理由があります。
ドイツの工業地帯での軍需生産のための労働者の確保のために、ヒトラーはドイツ陸軍への大規模な動員を行わなかったのです。
無政府状態を経てもドイツの工業力は健在で、スターリンは軍需生産で戦争にドイツが貢献することを認めました。
スターリンはドイツ陸軍も満州侵攻に参戦させると、戦後にドイツに利権を分けなければならないので、ドイツ陸軍の不参戦に賛成しました。
ドイツはソ連の加盟国の中で特別な地位にありました。
ソ連の他の加盟国はモスクワからの指令に一切反論せずに従うだけでしたが、ヒトラーはある程度反論し自分の意見を通すことができました。
ドイツ軍も完全にソ連軍の一部になったわけではなく、独自の指揮系統を持っており、ソ連軍の「要請」に従うかどうかを判断できました。
ソ連上層部でもこの状況に不満でドイツを「完全にソ連化」する意見がありましたが、スターリンはその意見を却下しました。
ドイツを完全にソ連化するには、ヒトラーを排除しなければなりませんが、そうするとドイツはまた無政府状態になってしまうかもしれないからです。
ドイツの工業力を利用するにはヒトラーが必要だとスターリンは考えていました。
ただし、スターリンは戦争がソ連の勝利で終わった後、ヒトラーを排除する方法も極秘裏に検討させていました。
さて、ヒトラーはドイツをソ連に加盟させ、国名を「ドイツ社会主義人民共和国」と変えましたが、ドイツを社会主義経済にはしませんでした。
ドイツでは市場経済は廃止されることはなく、大企業が国営化されることもなく、証券取引所が閉鎖されることもなく、資本主義経済が継続しました。
ドイツで生産された工業製品がソ連に輸出されるのは、無償援助ではなく純粋な商取引でした。
ソ連は外貨が不足していたので、物々交換であるバーター貿易でしたが、ソ連からの穀物・鉱物資源・石油はドイツ国内を潤しました。
ドイツでライセンス生産されたT34戦車はソ連製より工作精度は高く、前線のソ連軍戦車兵力たちはドイツ製T34の方を望みました。
ソ連国内の工場では軍需生産に集中しましたが、ドイツでは民需にも工業力をある程度向けたので、ドイツの化粧品や衣類などがソ連に輸出されました。
戦時中のソ連では女性がオシャレな服を着て化粧をして外を歩いていると、「資本主義的贅沢」だとして取り締まりの対象になったのですが、ドイツの化粧品や衣類は「ソ連とドイツの友好のため」として見逃されました。
ソ連の女性はドイツ製の化粧や衣類であることを証明するため、「ヒトラーバッジ」を身に着けていました。
ヒトラーバッジとは、ドイツ製品を買うとオマケについてくるヒトラーの似顔絵が描かれたバッジです。
ヒトラーの似顔絵は、今で言う「ご当地キャラ」のように親しみあるイラストでした。
さらに、ヒトラーはソ連のラジオに録音ですが出演し、ドイツ製品について宣伝しました。
ソ連の党幹部たちは「ヒトラーは政治家ではなくセールスマンだ」だとあざ笑いましたが、ソ連の民需がドイツ製品に独占されつつあるのに気づきませんでした。
さて、極東での戦いに話を戻します。
米英はソ連に宣戦布告し、極東に兵力を派遣しましたが、「当面は極東戦線に兵力を集中する」として欧州には兵力を派遣しませんでした。
独仏国境にはお互いに警戒のための兵力は増強されましたが、表面は平穏でした。
米英もソ連も欧州にまで戦線を拡大するつもりはなかったのです。
戦争は米英ソの「暗黙の了解」により「極東のみを戦場」にする戦争となったのでした。
これは第一次世界大戦が欧州に悲惨な戦場を生み出した記憶が、無意識に戦火の拡大を避けた結果だと思われます。
戦争は、戦艦「大和」による戦艦「ビスマルク」の撃沈、日米空母機動部隊によるウラジオストク空襲などで、極東における制海権は日米が優勢となっていきました。
しかし、地上戦ではソ連軍が優勢で膠着状態が続きました。
戦闘が続きながらも米英日ソでは外交交渉が続けられました。
その結果、次のような条件で講和することになりました。
「満州は『満州共和国』として武装中立国として独立国とする」
「米英日ソどこも満州国内に軍隊を駐留させない」
「満州共和国に対する経済援助に関しては米英日ソ自由とする」
満州は、米英を主軸とする連合国陣営とソ連を主軸とする共産主義陣営の「緩衝地帯」として中立国となりました。
こうして、第二次世界大戦は終わりました。
前半を「第二次欧州大戦」、後半を「極東大戦」と分類する歴史学者もいます。
さて、ソ連は第二次世界大戦の結果、一番勢力圏を拡大した国であったため、モスクワで盛大な戦勝式典を開催しました。
ヒトラーもソ連に招待され、クレムリンでの晩餐会だけでなく、スターリンの別荘での党幹部たちが集まる個人的な宴会にも招待されました。
スターリンは今で言うアルハラ上司でしたが、自身の部下にはともかく、禁酒主義者のヒトラーに飲酒を強要はしませんでした。
宴会は深夜までにおよんだので、ヒトラーはスターリンの別荘に泊まることになりました。
事件が起きたのは次の日のことでした。
スターリンは昼ごろになっても寝室から出て来なかったのでした。
もともとスターリンは夜型人間で、深夜まで宴会の時は昼ごろまで寝ていることが多かったので誰も不審には思いませんでした。
しかし、夕方近くになっても起きてこないので、恐る恐るノックをして声を掛けましたが返事はありませんでした。
非常用の外から開けられる鍵で寝室に入ると、スターリンが倒れていました。
脳卒中でした。
数日後、スターリンは死亡しました。
このスターリンの死亡について、ある噂が流れたことがあります。
「本当は、ヒトラーが脳卒中に見せかけて暗殺されるはずだったのに、間違いでスターリンが暗殺されてしまった」
ヒトラーは、この時、スターリンの複数ある寝室の一つで寝ていました。
スターリンは暗殺を恐れており、毎晩寝室を変えていました。
その夜、スターリンはヒトラーに自分が使わない寝室を提供したのでした。
ここで間違いが生じたという噂です。
暗殺者にはヒトラーの寝ている寝室を伝えたはずが、何かの間違いでスターリンの寝ている寝室が伝わってしまった。
そのため、暗殺者はスターリンを暗殺してしまったという噂です。
真偽は不明です。しかし、この事件が起きた別荘の警備の記録のこの日の分は「紛失」されています。
スターリンが急死したため、後継を巡ってソ連では権力闘争が激しくなりました。
ソ連はドイツの「ソ連化」を見送ることにしました。
スターリン急死による混乱でドイツに介入する余裕がなくなり、アメリカとの冷戦も激しくなったのでドイツの経済力を必要としたからでした。
ヒトラーは1959年に70歳で死去するまでドイツ総統の地位にありました。
ヒトラーの遺言書には次のように書かれていました。
「ヒトラーは自身が大統領と首相を兼任する『総統』でしたが、自身の死後は大統領と首相の兼任を禁止し、総統は廃止とする」
「ドイツは軽軍備経済重視を国家の方針とする」
ヒトラーの後継の政治家たちは、この遺言書を順守しました。
ドイツでは立候補できるのはナチス党員だけでしたが、選挙が復活しました。
大統領は国民の直接選挙で選ばれ、首相は国会議員から選ばれるようになりました。
経済分野ではドイツ製品のカラーテレビなどの民需がソ連国内を席巻しました。
軍需でもソ連の大陸間弾道ミサイルなどはドイツ製の精密機器が欠かせないようになっていました。
ドイツ製品無しではソ連は国が回らないようになっていたのでした。
1980年代には西側では「ソ連は経済的に崩壊する」と一部で予想されましたが、ドイツの協力によりソ連全土に市場経済を導入して乗り切りました。
「ソ連は政治的にはモスクワから指導されているが、経済的にはベルリンから指導されている」
と言われています。
ドイツは第二次世界大戦では確かに敗戦国でした。
しかし、現在の状況を見ると「真の戦勝国は、どこなのか?」と考えさせられます。
感想・いいね・評価をお待ちしております。