前編
ドイツが西方電撃戦に失敗した世界を描く架空戦記です。
第二次世界大戦が何故あのような結果に終わったのか?
それについて今回は話したいと思います。
1939年9月、ヒトラー総統率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦は始まりました。
ポーランドに侵攻したドイツにただちにイギリス・フランスは宣戦布告し、フランスとドイツは国境を挟んで部隊を展開しましたが、戦闘は起きませんでした。
ドイツ陸軍と空軍は主力をポーランドに展開しており、フランス軍は準備不足でした。
ドイツとフランスは戦争状態になっていながら本格的な戦闘が発生しない「奇妙な戦争」となっていました。
しかし、1940年5月、ドイツ軍が中立国であるオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻、さらにアルデンヌの森を突破しフランスにも侵攻しました。
ドイツは「電撃戦」により、フランスを初めとした西方諸国を制圧しようとしました。
しかし、結論から言うとドイツ軍はそれに失敗しました。
フランス軍はポーランドを約一ヶ月で制圧したドイツ軍について情報収集・分析をしており、機械化部隊を中心とした「電撃戦」には大量の燃料を消費することが分かっていました。
それに対してドイツ陸軍の補給部隊は貧弱だと分析していました。
ドイツ軍がフランス領内に侵入すると、フランス空軍にはドイツ装甲部隊よりも補給部隊を優先して攻撃するように指示しました。
さらに、フランス国内の民間のガソリンスタンドにあるすべての燃料を焼却処分するように指示しました。
燃料不足に陥ったドイツ装甲部隊がガソリンスタンドから燃料を調達すると予想したからです。
この作戦は成功し、ドイツ装甲部隊は燃料切れでフランス国内で立ち往生し、ドイツ軍の兵士たちはほとんど戦わずに捕虜となりました。
フランスでのドイツ軍の敗北が明らかになるとドイツ国内は騒然としました。
もともと、ヒトラーはラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア併合、ポーランド侵攻と危ない橋を何度も渡りました。
それを成功させたからこそ「強いドイツ」を復活させたヒトラーをドイツ国民は支持したのでした。
しかし、「敗北したヒトラー」などドイツ国民は必要としていません。
ドイツでのヒトラーへの支持は急落しました。
ドイツ陸軍がヒトラーとナチス党を排除するためのクーデターを画策しているとの噂が流れる中、ヒトラーはドイツ国内から姿を消しました。
ドイツは混乱し、「ヒトラーは自殺した」「ヒトラーは暗殺された」「ヒトラーは幽閉されている」など様々な噂が流れました。
約二週間後、ヒトラーの行方が判明しました。
ソ連の新聞・ラジオが「ヒトラーがソ連を表敬訪問している」と報道し、ヒトラーとスターリンが握手をしている写真が新聞に載りました。
ヒトラーはソ連に「亡命」していたのでした。
ヒトラーが亡命先に選べる国は不可侵条約を結んでいたソ連ぐらいしかなかったのです。
反共を唱えてドイツ国内の共産主義者を弾圧したヒトラーがソ連に亡命したのは皮肉でした。
スターリンがどのような意図でヒトラーの亡命を受け入れたのかは現在でも不明ですが、「何かの手駒に使えるかもしれない」ぐらいの考えだったようです。
ヒトラーは身一つで亡命したのではありませんでした。
ドイツからソ連に向かう鉄道の列車に貴金属や技術情報の書類を一般の貨物に偽装して運びました。
ヒトラーと同行したナチス党の幹部はゲッベルスとヒムラーでした。
ヒトラーはソ連のラジオ放送に出演し、「英仏は資本主義に毒されており、社会主義の総本山であるソ連にこそ未来がある」という演説を繰り返しました。
ヒトラーはロシア語を学びドイツ訛が強いですが、ソ連の一般人にも通じるロシア語を話せるようになっていました。
むしろ、ドイツ訛のロシア語がソ連の聴取者には受けました。
現代の日本で例えれば、カタコトの日本語を話す外国人タレントが受けるようなものです。
スターリンはヒトラーに一応監視は付けていましたが、ラジオ放送による演説は好きにやらせていました。
亡命して根無し草になったヒトラーを軽視していたのでした。
しかし、ドイツ国民をラジオ演説で魅了したヒトラーが、ソ連人民もラジオ演説で魅了しつつあることにスターリンは気づきませんでした。
さて、その頃のドイツ国内について話します。
ヒトラーが去った後のドイツ国内は混乱を通り越して混沌状態にありました。
ナチス党は政権を失いましたが、その政権を誰も受け継げなかったのです。
ドイツ陸軍が首都ベルリンを制圧して中央官庁を押さえ、臨時政府を樹立しましたが、統治能力は皆無でした。
ドイツに残ったゲーリングは法的にヒトラーの後継者は自分だと主張し、配下のドイツ空軍を臨時政府の指揮下に入れようとはしませんでした。
武装親衛隊もゲーリングに同調しました。
最初は「同じドイツ人」という理由で臨時政府は、ゲーリングや武装親衛隊を説得しようとしましたが、交渉は決裂し、臨時政府は武力行使を決断しました。
ドイツ各地でドイツ陸軍と空軍、武装親衛隊の戦闘が発生し、最後にはベルリンでの市街戦になりました。
最終的にはドイツ陸軍が勝利したものの、ベルリンでの市街戦で中央官庁が壊滅し、ドイツは無政府状態となりました。
それを見たスターリンは決断しました。
ポーランドの独ソ分割線をソ連軍に越えさせて、ポーランド全土を占領したのでした。
名目は「ドイツの無政府状態がポーランドに波及するのを防ぐ」ためでした。
ヒトラーはポーランド西半分のドイツ占領軍に無抵抗でいるようにラジオで呼び掛け、一時的にソ連軍の捕虜になった後は、ドイツに帰国するかヒトラー配下に新たに建軍された「正統ドイツ軍」に参加するかを個々の判断に委ねました。
ソ連軍は捕虜にしたドイツ兵士たちに紳士的に対応し、ドイツへの帰国を選んだドイツ兵にも親しい友人と別れるように対応したのでした。
これはスターリンの指示でした。
スターリンは「親ソ的なドイツ人を増やすことは将来の布石になる」と考えていました。
さて、困り果てていたのが戦争に勝ったはずの英仏でした。
戦争を終結させるための講和交渉をドイツとしなければならないのですが、ドイツ臨時政府は機能不全で交渉する相手がいないのです。
さらに、ポーランド全土を占領したソ連に英仏は抗議し、ソ連軍の撤退、イギリスに亡命しているポーランド自由政府に全土の返還を求めましたが、スターリンは「ドイツの混乱が回復するまでポーランドはソ連が一時的に預かる」と主張して聞く耳を持ちませんでした。
その状況が半年続き、無政府状態になっていたドイツにヒトラーが正統ドイツ軍を率いて帰還しました。
帰還したヒトラーは、国名を「ドイツ社会主義人民共和国」と変更し、ソ連への加盟を宣言しました。
ナチス党の政党名も「国家社会主義ドイツ労働者党」から「社会主義ドイツ労働者党」に変更しました。
略称はナチス党ではなくなったのですが、今でも慣例的にナチス党と呼ばれています。
ドイツ国民はいったんは国を捨てたヒトラーに批判はありましたが、「無政府状態が続くよりはマシだ」とヒトラーの帰還を受け入れました。
ヒトラーは英仏との講和交渉については「ドイツはソ連に加盟したのでスターリンと交渉してくれ」と言いました。
スターリンは「ソ連は英仏とは戦争状態にはなかったのだから賠償金や領土の割譲などはありえない」と主張しました。
英仏はソ連との戦争をする準備はできていなかったので、泣く泣くスターリンの主張を受け入れ、戦争の終結を宣言しました。
結局、第二次世界大戦で一番得をしたのは、ポーランド・ドイツを新たな勢力圏としたソ連でした。
欧州における変化による影響を一番受けたのは、遠く極東にある日本帝国でした。
もともと、日本陸軍はソ連を第一の仮想敵国としていました。
ソ連と対抗するためにドイツとの軍事同盟を唱える親独派は、日本陸軍内部では多数派だったのですが、ドイツのソ連加盟により親独派は壊滅しました。
代わりに日本で勢力を増したのが、日本海軍の英米協調派でした。
ソ連は次は極東における勢力圏の拡大を狙っていると推定されたので、それに対抗するために英米と協調しなければならないと考えたのです。
ドイツは無政府状態でも比較的無傷だったドイツ海軍の艦艇、戦艦「ビスマルク」やUボートをウラジオストクに回航しました。
中国との戦争が泥沼におちいっていた日本は、大陸の利権の一部をアメリカに渡すことで、中国と講和しました。
日本とソ連の戦争は、Uボートの雷撃により日本海軍の空母「赤城」「加賀」が撃沈されたことにより始まりました。
第二次世界大戦はいったんは終結したのですが、日ソ戦も第二次世界大戦に含めて呼ばれるのが一般的です。
対潜能力が貧弱だった日本海軍は、開戦初期は多数の軍艦・商船をUボートに撃沈されました。
正規空母二隻を失った空母機動部隊は、戦艦「ビスマルク」の洋上での捕捉に失敗、「ビスマルク」に多数の商船を撃沈された後、ウラジオストクに逃げ込まれてしまいました。
そして、大陸では英米との共同管理地域とした満州特別区をソ連陸軍の大軍が侵攻して来ました。
日本陸軍は、アメリカから輸入したM4シャーマン戦車により、ソ連軍の侵攻を満州特別区で何とか食い止めていました。
さて、ここで話はいったん休憩にします。
続きはお昼ごろに話します。
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