うまく行かない『人生』の過ごし方
――人生とは うまく行かないから 人生だ。
――子供のころから 野球選手になるのが夢だった。
――だが 夢は叶わない。
――結局は ごくごくごく普通のサラリーマンになって。
――毎日 狂ったように働いて。
――毎日 狂ったような上司に 狂ったような剣幕で怒られて。
――毎日 へとへとになりながら 家路に着く。
――その繰り返しだ。
目の前に、ボールが転がってくる。
「すいませーん、ボール取ってください」
高校生くらいの男の子が言うので、俺はボールを拾い、投げ返した。
「ありがとうございます!」
男の子が、笑顔で手を振り、選手の輪の中に戻っていく。
その様子を見ながら、俺は再び家路を行く。
茜空を背景に、トボトボと歩いていく。
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「おっし、次はノック、行くぞー!」
野球部の監督の声がグラウンドにこだまする。……地方大会まで、あと3週間。その指導に、熱が入っている。カンと言う小気味よい音と共に、俺の元にボールが飛んでくる。
それをうまくグラブに納めて、1塁方向へ投げる。
グラウンドの砂の香りが、汗と混じりあって独特のにおいとなって、上空に立ち昇る。
「おし、休憩!」
監督の声に、安堵の声が思わず漏れる。まだ6月だが、暑いものは暑い。
「お疲れ、和真」
幼馴染の姫野 茜が、俺の元に駆け寄って、タオルを手渡す。髪を後ろでまとめている。幼馴染と言うのもあるかも知れないが、本当にかわいいと思う。
「ありがとな、茜。でもお前あんま無理すんなよ」
「わかってるわかってる。でも和真だって無茶してるでしょ?汗だくだよ?」
いたずらっぽく笑顔を向ける茜。その笑顔が爛々としていて、まぶしくて、かわいかった。
……ここだけの話だが、俺は……
茜が好きだ。
見た目も、声もそうだし、しっかりしているし、何より、この笑顔が好きだ。
この笑顔に、何回だって救われた。監督のしごきにくじけそうになった時も、自分の失投でサヨナラ負けして、立ち直れないほどの悔しさが襲い来た時も。
俺にとって茜は、精神的に必要不可欠な存在。
……でも。
「うっ……」
左胸を押さえる茜。呼吸が徐々に、苦しそうなものに変化していく。
「茜っ」
急いで俺は、茜を抱き寄せて声をかける。……いつもの症状だった。
昔から、茜はずっと体が弱かった。何の病気かは茜は教えてくれないのだが、心臓を押さえているという事は心臓に疾患があるんだろう。
「もう……大げさだよ。いつものじゃない」
「いつものでも、心配なのは心配なんだよ」
……しばらく経ち、ようやく茜の呼吸が落ち着いてきた。
だが、最近この『いつもの』が多い気がする。
『野球部のマネージャーはお茶の用意や道具の後片付けとかいろいろとやることがあるし、体力が必要だからお前には難しい』と、何度も何度も説得したが、とうとう茜は聞いてくれなかった。
でも、マネージャーとして働く茜は、活き活きとしていた。
この症状が出なければ、どこにでもいる普通のかわいい女の子。
そう、この症状さえ、出なければ。
その日の部活が終わり、茜は道具を片付けていた。
……俺以外は茜の持病の事を知らない。いや、茜が伝えていない。
茜はあくまで、自分の事は気にしてほしくなかったのだろう。
「よいしょ……あと、一式……」
「持ってきたぞ」
俺が後ろから、バット、グラブ、ヘルメットの入った箱を持ってくる。
「ありがと。でも珍しいね、和真が手伝ってくれるって」
「今日あんなこと起こってたんだ。ちょっとくらい手伝わせろ」
すでにグラウンドにはほとんど誰も残っておらず、陽も落ち始めて空は紫がかっている。
「……ごめんね。和真」
不意の言葉に、俺は面食らった。
「最近、怖くなってきちゃうんだ。もうすぐ、最後の大会……始まっちゃうでしょ?」
「あぁ、そうだな」
「……それが終わったら、みんなと……お別れなのかなって」
高校野球は、地方大会を勝ち上がり、そして初めて甲子園に出られる。全国で3000以上の高校がある中から、その歓喜を得られるのは、北海道、そしてこの東京を除くとわずか1校。
しかも俺たちの高校は、初戦で全国制覇の経験もある強豪校と激突する。
……正直、俺の力量で抑えられると思っていない。
「幼いころ、約束してくれたの覚えてる?和真」
「……あぁ、もちろんだ」
「「お前を甲子園まで、俺が連れていってやる」」
「……覚えていてくれてるんだね」
「当たり前だ」
と言っても、子供のころにした約束なので今思い出せば死ぬほど恥ずかしい。
でも、この『約束』そして茜の笑顔は、俺に前を向かせるのに十分だ。
ただ俺は、プロ注目の右腕だの左腕だの言われているわけではないし、そもそも高校自体がほぼ無名。茜を甲子園に連れていく。……それは、これが最後のチャンスだ。
「でも、怖いってどういうことだよ」
その言葉に、茜はこちらを向かずに話し始めた。
「もし、この大会が終わったら、みんな離れ離れ……私と和真も、お別れになっちゃいそうな気がして……」
「……」
「最近、あまり眠れないの。……そんなことを考えてると……バカみたいだよね。私は和真たちと違って、戦うわけじゃないのに。こんなことで悩んじゃうなんてさ」
茜の方をじっと見る。茜は落ち込んでいるようで、悲しくなっているようで、ぶるぶると肩を震わせていた。
「ふふ、ごめんね。和真に、こんな事話しても無駄なのにさ」
「無駄なんかじゃない」
「え?」
……………………
そうは言ったものの、茜にかける声が見つけられなかった。
もう一度言うが、勝てる……わけがない相手との戦いだ。例えるなら、最新鋭の戦車に、生身で、しかもナイフで挑もうとしているようなものだ。
俺を信じろ。なんて言えるはずがないし、俺に任せろ。とも言えるはずがない。
「……ごめん、茜。忘れてくれ」
「も~、何それ。本当、和真ってバカなんだから」
頬を膨らませる茜。
「お前、バカはないだろう!?」
「バカじゃん。バ和真」
「ぐぐぐ……」
だが、今の期待の持たせ方は自分でもひどかった。そうも思った。
「……本当に思ってることは、全然言ってくれないのに」
「……え?」
「何でもない」
茜の背中が言っていたことが、理解できなかった。
その後監督に呼び出され、俺は職員室に寄ってから帰ることになった。
「やっべ、遅くなっちまった。母さんも父さんも怒ってるかな……」
大急ぎで帰ろうとする俺の耳に……
「!?」
遠くからのサイレン。俺は妙に胸騒ぎがして、その音を追跡する。その果てにあったのは……
「茜!」
ストレッチャーに乗せられ、運ばれる茜だった。
集中治療室に連れてこられる茜。ドクターや看護師が、ドタバタと入れ替わり立ち替わり動いている。
心配そうに茜を見つめる茜の両親。俺はその背中を見つめることしかできなかった。
結局、その日俺は、何もできるわけではなく、家に帰るしかできなかった。
――本当に思ってることは 全然言ってくれないのに
その言葉の意味を、まるで理解できないまま。
翌日……俺は茜の見舞いに行くことにした。
病院に到着すると、遠くから動きやすそうな服装をした女の人が、こちらをしきりに気にしていて、
「……斎川 和真君だよね」
と、話しかけてくる。……茜の母親だ。
「……茜のお母さんですよね。……茜は……」
「……」
黙って首を横に二回振る。それだけで、俺はすべてを察した。
「一命はとりとめたけど……覚悟はした方がいいって」
そしてその言葉は、俺の心臓を凍らせるのに十分だった。
「ここのところ、本当に過労が酷かったみたいで、心臓への負担は想像以上に大きかったみたい……面会ならできるけど、ずっと寝たままだから何も話してくれないよ」
「……」
過労が酷かった。
……なんでそんな簡単なことに気付けなかったんだ。
昨日の話だってそうじゃないか。最近眠れないって。
そんな状況でこんなマネージャーの仕事をしてたら、そりゃ……そうなる。
俺は深く後悔した。そんなことも気付けないなんて、何が幼馴染だ。
「……でもね」
「え?」
「あたしは、茜が活き活きしながらする部活の話を聞くのが、本当に好きだったの」
笑顔のまま話を続ける。
「帰ってくるなりまず部活が。ご飯の時もまず部活が。2人で後片付けしてる時もまず部活が。あそこまで笑顔で話されて……あたしは嬉しかったな。子供のころから、あんまり笑顔を見せてくれなかったから。それにね、和真君。キミの事も話してたんだよ」
「俺の……こと?」
こくりとうなずく。
「和真君が本当に最近、たくましくなったって。和真君が、もしかしたら本当に私を甲子園まで連れて行ってくれるかもって。それで……」
「和真君が、好きだって」
「和真君の目が……本当にやさしくて好きだって」
茜の病室に入ると、心電図の音しか聞こえなかった。酸素マスクを付けられ、死んだように眠っている茜。
「……よう、茜」
その声にも、当然動かない。
「聞いたぜ、お前のお母さんから。お前……相当無理してたんだってな。そんな体で無茶しやがって。ちょっとは人の事も考えてくれよ。お前が思ってる以上に、俺はお前の事心配なんだぜ?」
凪のような時間。そして、世界にこの二人しかいないような、密閉状態。
「……なぁ、茜。お前が……俺の事、どう思ってるのか、この際どうでもいい。けど、これだけは言わせてくれ」
俺は握りこぶしを作った。茜に対する決意ではなく、自分に対する鼓舞の意味でも。
「あの時の約束、絶対果たしてやっから、信じて待っててくれ。俺を……信じて待っててくれ!」
最後の大会が始まった。
(……待ってろ。茜)
俺は自分に言い聞かすように、左胸に手を添えて、マウンドに上がった。
そして、快音が、響く。
快音が、轟く。
快音が……襲い掛かる。
快音が……波となる。
快音が……嵐となって、俺たちのチームを飲み込んでいく。
……結果的に、『最後のチャンス』は、あっけなく終わった。
26対0と言う、地方大会でもそんなにないような、大差で。
完膚なきまでに。
ものの見事に。
何もかも押しつぶすように。
強豪校の前では、無名の俺たちは路傍の石、道端の雑草、ほぼそれだけの価値だった。
……涙すら出なかった。
悔し涙すら出なかったし、打たれたことに対する謝意の涙も出なかった。
あるのはただただ、これで終わってしまったという虚無。
結局約束は果たせなかったという現実。
鉛のようなその足で、俺はユニホームだけ着替えて茜の病室に向かった。
「……よう、茜」
椅子に座る。茜は酸素マスクこそ取れているが、未だに眠ったままだ。腕を外に出し、そこに点滴が落ちている。
「……ごめんな。茜。負けちまった」
うつむきながら話す。
「お前は必死に戦ってるのに……俺、あっさり負けちまった……」
押し殺していた感情が、そこであふれてくる。
「……バカみたいだよな。あんだけお前がぶっ倒れた原因作っといて、あんだけお前の前で大見得切っといて……結果ボコボコにやられて……約束も……守れなくて……」
地面に綺羅星のように、涙が落ち始める。
「バカみたいだよな、俺……何がお前の幼馴染だよ。約束も何も果たせなくて、信じて待っていてくれって言っておきながら、何にもやってなれなくて!お前が……お前が……!」
空虚感と茜に対する申し訳なさが、俺の体を押さえつけようとする。だが……俺は、これだけは言いたかった。
「お前がこんな俺の事を、好きになってくれてるなんて、思いもしなかった!思いもしなかったし……思ってても絶対にないって思ってた!だからお前はあの時言ってたんだろ!?本当に思ってる事は言ってくれないって!」
ぽたぽたと涙があふれ出し、顔がくしゃくしゃになる。
「だから……ここで言うよ……多分、聞こえてないけど……!」
俺は自分の心臓を落ちつけてから、淡々と話し出した。
「……お前が……好きだ。茜」
目を閉じて、天を仰ぎながら言う。
……こんなこと、今も戦ってる茜に言うなんて、本来は間違ってる。だけど……
……もう、茜に『伝えないまま終わる』方が嫌だ。
「お前が好きなんだ!茜!……世界中の誰よりも、お前が好きなんだ!笑顔も、体が弱いところも、ちょっと怒りっぽいところも、全部ひっくるめて好きなんだ!」
ありったけの思いを込める。どうせ……聞こえていない?そんなことはどうでもいい。
だが……何も声が返ってこないことで、ふと我に返った。
「……今更言っても、遅いよな」
眠ったままの、茜に背を向ける。
「じゃあな、茜。……もう、会わないから」
――この大会が終わったら みんな離れ離れ
――私と和真も お別れになっちゃいそうな気がして
その言葉を思い出して、また涙があふれた。
……瞬間だった。
「……バカ」
「!?」
……茜の、声。
「病院だよ……?もっと静かにしてよ……ふふ……バ和真」
その声を最後に、茜の声は再び聞こえなくなって……
・
・
・
――人生とは うまく行かないから 人生だ。
――子供のころから 野球選手になるのが夢だった。
――だが 夢は叶わない。
――結局は ごくごくごく普通のサラリーマンになって。
――毎日 狂ったように働いて。
――毎日 狂ったような上司に 狂ったような剣幕で怒られて。
――毎日 へとへとになりながら 家路に着く。
――その繰り返しだ。
――でも……
「……今日は、カレーか」
疲れ切った体で家の前に来ると、カレーのにおいが鼻腔をくすぐった。
このにおいだけで、今日の疲れが吹っ飛ぶくらいだった。
「ただいま~」
と、言いながら、玄関のドアを開ける。
「パパ、おかえり~!」
息子が、俺を出迎える。
「ただいま、和樹、今日もママのお手伝いやったか?」
「うん!あのね、カレーを混ぜたんだよ!一生懸命混ぜたから、パパも食べよう!」
「あぁ、もちろんだ!」
こうして過ごしていると、いつも目の前にやってくる。
「あなた、おかえりなさい」
あの時と同じような、俺を癒してくれるような笑顔で。
「ただいま、茜」
――でも、
うまく行かないことが そのまま不正解とは限らない。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
初めての短編ですが、いかがだったでしょうか……?