part.8 【終】
8.
『8,15,18,9,13,9,26,21,13,9,11,15.
9’13,3,18,1,26,25,1,2,15,21,20,8,5,18.』
一見不規則な数字の並びを見ても、妻は動じず、悠然と口の端を持ち上げた。
「こっちの『暗号』は簡単そうね。単純な換字式暗号よ。おそらくアルファベットになるんじゃないかしら」
妻は僕に可笑しそうな視線を投げかけた。手紙の最初に書いた、気障ったらしい一文が脳裏に甦る。くう、恥ずかしい。
そう。妻の推理は当たっている。
「数字は『1』~『26』までしかない。それぞれ、アルファベットと対応しているのね――『1』は『a』、『2』は『b』というように。『z』を表す『26』まで」
ああ、おしまいだ。全くその通りだったからだ。こんな簡単な暗号では、すぐに気付かれてしまうのも仕方ないことだった。消しゴムの方はなかなか良かったと思うんだけどな……。
せめて小6の僕がもう少し頑張ってくれていたら、と詮ないことを考えてみるが、もう遅い。今、紙を凝視する妻の頭の中では、凄まじいスピードで数字が変換されていっているに違いない。
と、これまで余裕の表情を崩さなかった妻の形の良い眉が、ぴくりと動いた。唇から、囁くような音が漏れる。
「私の、名前……?」
1列目の数字――それは、ある人物の名前を示していた。
妻の旧名だ。
僕と妻が仕事で出会ったのは偶然。嘘ではない。それまで妻のことを、小学校時代の彼女のことを忘れていた。これも嘘ではない。
しかし当時の僕にとっては、彼女はただのクラスメートではなかったのだ。
彼女は突然、いなくなってしまった。だが、卒業まで彼女が学校に残っていても、僕は思いを打ち明けることはできなかったに違いない。
だから、僕はその気持ちを閉じ込めた。
当時の流行歌に包んで――。
木箱で封じて――。
僕は忘れたかったのだろう。混乱もしていたはずだ。自分が初めて抱く感情に。
だから、もっと大人になるまで、それを呑み込めるようになるまで、隠すことにした。大事に取っておいて、託すことにした。未来の自分に。
僕は彼女のことが好きだった。
そうした自分の意図を、さっき箱を開けて、メロディを聞いた時に全て思い出した。この年まで忘れていたから、そこまで傷は深くなかったんだろう。僕は楽観的な人間だし。
だから慌てた――だって、あられもないメッセージを込めていたから。
2行目を変換すると、こうなる。
『I’m crazy about her.』
(彼女にくびったけ)
ここでいう「her」とは、当然1行目に書いた妻のことを指している。
……。
馬鹿じゃないか!?
よくもこんな恥ずかしいことを書けたよなあ!? 「crazy」だとか、よく言うよ! まだ小学生らしく「I like ~」とかなら可愛げもあっただろうけど、なんだよ「crazy」って! ああー、恥ずかしい! 穴があったら入りてえ!
若さって、怖い。
こうなったら潔く、笑われよう。どんなからかいにも耐えよう。ていうか、そういう恥も何も捨てて互いを認め合えるのが夫婦というものじゃないか。うん、そうだ。
僕はまだかなり動揺しつつも、腹をくくった。意を決して顔を上げ、妻の横顔を伺う。
その時――僕は予想だにしなかった光景を目の当たりにした。
彼女の頬が、みるみる赤みを増していったのだ。唇は中途半端に開き、目は驚いたように見開かれ、黒目がじゃっかん揺れている。
僕は唖然とした。あの、いつでも冷静で、どんな謎も解いてしまう名探偵が――。
妻は僕の視線に気が付くと、取り繕うように姿勢を正したが、その唇の片側はだらしなく緩んでいた。
「ず、ずるいわ。こんなの」
『――偶然の、まるで思考外の出来事によって、サトリは撃退される』
僕はうわついた心地のまま、しおりの座席表を眺めた。今なら分かる。どうして僕が卒業アルバムなどではなく、校外学習のしおりに、この紙を挟んだか。僕の過去にもちゃんと妻は居て、僕にはそれが、少し誇らしいことのように思えた。
色褪せた座席表の片隅では、妻の昔と今の苗字が、仲良く並んでいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
半分くらい実話です。