ライ麦畑にとらわれて
本作は2015年11月22日に刊行した同人誌『ライ麦畑にとらわれて』に収録された短編小説です。
もし君が僕の話を聞きたいなら、まずは黙って少し待って欲しいんだ。落ち着いて、少しばかりぼーっとして欲しいんだ。大した話じゃないからさ、リラックスして、何かするついでにでも聞いて欲しいんだよ。
もしどうしても落ち着かないっていうんなら、酒でも飲みながら聞いてくれるといい。そうだね、まずは一パイントのギネスだ。通な連中に言わせれば、ギネスは注いでから一分ぐらい待つといいらしい。それぐらいがちょうどいいね。一分ぐらい落ち着いて、何も考えないでさ。それから一杯やって、気持ちいい具合に酔いが回ってくれたりなんかすると。
さて、ここまで説明したんだ。落ち着いてから聞いてくれるだろうね。まあ、正直なところこれは照れ隠しみたいなものだから、やってくれても、やらんでもいいんだけどさ。
この話は、つまるところ日記みたいなものなんだ。僕の旅行記さ。
ウェストミットランズ……まあ、バーミンガムなんて言えばいいかな。そこからロンドンまでの旅行記だ。ていっても、ロンドンまでは特急で行っちまったんだけどさ。
僕は家出をしたんだよ。なんかもうムシャクシャして、家を出たくなったんだ。前々から出たい出たいとは思ってたけど、これが初めてだった。知り合いはみんな十五の頃には家出を済ませてるらしいんだけど、その点僕は優秀だったというか、遅咲きだったというか。僕の家出ヴァージンは十七の時だった。
学校から帰る途中、僕は電車通学なんだけど、ふとした瞬間行きたくなったんだな。行かなくちゃならないように思えた、と言ってもいい。僕は弾丸列車にとび乗って、昼過ぎロンドンへ向かったんだ。小遣いはあったから、電車賃なんて大したもんじゃ無かったさ。
列車は快適だったよ。バーミンガムを出たら、ロンドンまでぜんぜん止まらないんだ。まあ、たまには止まったりするけどさ。でも鉄道なんて気楽な商売だよ。二十分遅れたら怒られるけど、十分なら遅れても平然としてるんだから。僕なんか、十分遅刻しただけで先生に怒られるってのに。
それでも鉄道は、バスなんかよりはマシだ。バスはいつも十五分は遅れるんだから。列車はそれよりは正確だよ。まあ、それで僕は昼過ぎの特急に乗って、ふらっとロンドンに行くことにしたんだ。特に理由は無かった。ただ、僕のことをだれも知らない場所に行きたかったんだな。で、煌びやかな街だとなおさら良かった。リヴァプールなんかに行くのも良かったけどさ、僕はビートルズがそこまで好きじゃなかったし。偉大なのは認めるけどさ。なんか、こう胸に来るものがあんまり無いんだな。
で、僕は弾丸列車に乗って、気づけば三時過ぎにはロンドンだったんだよ。二時間あれば着くからね。それで、僕は地下鉄に乗ってぶらぶらすることにしたんだ。特に目的はない。ただどこかに行きたかったんだよ。
僕の旅のお供は、カセットプレイヤーだった。叔父さんからの貰い物でさ、その叔父さんがとんでもなく意地汚い奴だったんだ。彼は医大の出身なんかで金はあったから、僕や弟を金で釣ろうとするんだ。親父と叔父は仲が悪くて、しょっちゅう叔父は嫌がらせをするんだけども、子供だけは味方につけたいらしくてさ。そういうわけで、彼は金で僕らを釣るのさ。
僕はそういうインチキ野郎が嫌いだった。だから「金はいらない」って言ったんだ。そしたら、これをくれたんだよ。あの意地汚い叔父にしては、なかなか粋なプレゼントだったよ。彼としちゃいらなくなったゴミを処分した程度にしか思ってないんだろうけどさ。
で、僕はそれで親父のカセットコレクションを聴くことにしてるんだ。僕は親父が嫌いだけど、音楽の趣味だけは似通ってるんだ。むしろ、僕が親父の世代の音楽が好きなんだな。
古くさいヘッドフォンなんかつけて、上着のポケットに手を突っ込んだ。僕はブレザーを着てたんだが、右手側のポケットにはカセットプレイヤーを。左手側には他のカセットを入れてた。それで曲を聴きながら、ロンドンを歩き回ったんだ。
平日なのに観光客だらけだった。特にアジア人なんかが騒がしい。中国人が一番うるさいな。次点で韓国人。日本人はおとなしいけど、逆に何を考えてるんだかさっぱり分からない。
ふつうこちら側――つまり英国の人間からしてみれば、アジア人の区別なんかつきやしない。逆にアジア人が英国人とフランス野郎の区別がつかないみたいに。でも僕は、これでもアジアの血が混じってるんだ。ばあちゃんが日本人だった。僕はクォーターってことだな。
僕はおばあちゃん子で、しょっちゅうばあちゃんばあちゃんって何か言ってた。するとばあちゃんが僕にいろいろ話してくれたんだ。アジア人の見分け方なんかもそうだった気がする。まあ、時折僕も間違えるんだけどさ。
それで僕が真っ先にどこへきたかと言えば、ハイドパークだった。あのバカみたいに広い公園さ。
なんでハイドパークに行きたかったのか。そういわれたら、僕はなんて答えるべきか困っちまうね。理由なんて無かったんだよ、マジな話。さっきも言ったけど、あてもなくブラブラしたいだけだったんだよ。だから、こんなバカみたいに広い公園は最適だったってわけ。
僕はクイーンのカセットテープを聴きながら歩いてた。ラジオから録音したから、音質はよろしくない。でも、むしろそれがいいんだな。ハイドパークといや、彼らは七六年にここでライブした当時、日本語の曲なんかを書いてたらしい。握手だか手を繋ごうだか、そんなタイトルだったよ。問題のそのライブは、映像があまり残ってないみたいなんだけど。
ともかく僕は、ハイドパークコーナーの駅を出ると、ケンジントンの方へ向かって公園を歩いていったんだ。でかい門が駅のすぐ近くにおっ立っててさ、実はそれは違う公園の入り口なんだけど。僕はそれで一度迷っちまったんだよ。すぐに引き返してハイドパークに入ってったけどさ。
公園の中じゃ、こんな平日だってのにあくせく走ってる爺さん婆さんがたくさんいた。僕はそれを見て、なんだか苦虫をつぶした気分になった。僕は大人が嫌いだけど、同様に子供と老人も嫌いなんだ。特に空元気で気丈に振る舞ってる老人とか。髪の白い骨みたいなじいさんがぜえぜえ言いながら走ってるのなんて、見ただけで吐き気がしちまう。僕はもう気が滅入って、極力彼らとは顔を合わせないようにしたよ。
しばらくすると、鳥の鳴き声が聞こえてきた。こいつらが本当にうるさいんだな。カモだか白鳥だか知らないけど。ともかく水辺だろうが陸地だろうが大群でやってくるんだよ。
僕はいい加減足が疲れたから座れるところを探したんだが、そこらへんにあるベンチの大半は、その鳥どもに占拠されてるんだ。比較的鳥のいない場所なんかは、すでに老人どもが占拠しているし。連中、マラソンで疲れたままそこに座り込んで、お茶なんか始めるんだよ。結構なことだね。
僕は仕方なく、鳥をかき分けてイスに座った。そして僕は、カセットをザ・フーのキッズ・アー・オーライトに換えたんだ。なんでって、彼らがここでその曲のビデオを撮ったからさ。僕はその風景を幻視しながら、ぼんやりと湖を見てた。でも、彼らの曲よりも鳥どもの鳴き声のほうがうるさくてたまらなかったよ。しかも連中の獣臭いこと。そこらじゅうに緑色のふやけたガムみたいのが落ちてるんだよ。はじめはゴミかなんだかと思ったんだが、よく見たら鳥どものフンなんだな。それに気づいたとたん、ただでさえ滅入ってた気がさらに滅入っちまった。だから僕はそそくさ立ち上がって、老人たちを後目に公園を駆け抜けたんだ。
駆け抜けた、と言ってもハイドパークは広い。しばらくして橋が見えてきた。その向こうも公園なんだけど、僕はもうあの鳥にはウンザリして、緑の中になんか入りたくなくなったんだ。
だから橋を渡って、街の方に行くことにしたんだ。曲がった先を十分ぐらい歩けばインペリアル・カレッジや、ヴィクトリア&アルバート美術館なんかがある。科学博物館なんてのもあったっけな。そこに入るつもりは無かったんだけど、公園は勘弁だっったから、そっちに向かったんだ。
公園はきれいだったよ。だから戻りたいとは思ったけど、ほんと老人と獣どもはダメだね。もし連中がいなければ、僕はハイドパークをもっと楽しめたと思う。
冬に行けば、もしかしたらよかったかもしれない。ほら、老人どもは外に出たがらないし、池には薄氷が張るはずだからさ。鳥も老人もいないんじゃないかな。
橋を渡りきってもまだ公園だった。さらに曲がればダイアナ妃がどうとかいう噴水があるんだが、あまり興味はそそられなかったな。水はきれいなんだけどな、あそこ。
それより僕は、その横でちちくりあってるカップルに目がいったんだ。池沿いの噴水際のベンチに座っていた。別に僕はレディ・ゴダイヴァの全裸をのぞき見るような、そんな変態ってわけじゃない。ただ、女がそこそこの美人だったから純粋に目がいったんだな。たぶん染めてるんだろうけどブロンドで、それを後ろで一つにしばってた。うなじが綺麗で、いかにも今ランニングを終えてきたって感じのスウェット姿なんだよ。下が灰のスウェットで、上は黒のタンクトップだった。顔は中の上ぐらいだったかな。でも、僕の好みだった。
でも問題は相手の男で、ひとたび地下鉄の中に飛び込んだら見失っちまうぐらい無個性なんだよ。正直顔も覚えてない。個性がないってことしか覚えてないよ。
で、そこまでは良かったよ。二人でベンチに座ってるだけだったんだから。でも途端に彼女が立ち上がって、おもむろに男に覆い被さったんだな。で、男もまんざらでも無い様子で抱き返して、そのまま往来で熱いキスなんかを始めたんだよ。軽いキスならいいけど、結構深かったね、あれ。
僕はそういうのが嫌いなもんで、すぐに目を覆ったんだ。ほんと、すぐに。両手で顔を覆い隠して、目を塞いだんだ。
往来でそんなことするのって、僕に言わせればバスの中でポルノ雑誌読んだり、家族の前でポルノチャンネル――エックスなんたらとか、そういうのだよ――を平然と見るオッサンと同じなんだ。だから急に吐き気みたいのがして、やっぱりハイドパークにはいられなくなったんだ。
ハイドパークを出てから僕は、ヴィクトリア&アルバート美術館を横目に駅へ向かった。それでまたチューブに乗ったんだ。そうしてピカデリー・サーカスで降りた。この駅はいつも混んでる。どれくらい混んでるかって、ロンドン人じゃない僕でも分かるぐらいさ。金持ちやらケチくさいビジネスマンがごった返してて、浮浪者のオヤジなんざ座る場所も無いんだ。小汚いオヤジが地べたに座って「チッププリーズ」なんて、あの悲しげな声が聞こえないだけマシかもしれないけど。
騒がしい駅を脱出するにはだいぶ時間がかかった。どの出口に出るかで迷ったんだよ。まあ、別にどの出口でも良かったんだけどさ。
ピカデリー・サーカスってのは騒がしいところなんだ。駅もそうだけど、駅を出てからもずっとそうなんだな。円形に古めかしい建物が並んでるんだけど、そいつは全部ハリボテで、でかいテレビなんかがかけてあるんだ。テレビには化粧品かなんかの広告が流れてた。それもまたブロンド髪の美人だったけど、どうせこれも染めてるんだ。丸くて青い瞳は魅力的だったけど、いまいち僕の琴線には触れなかったな。
それから僕がどうしたかと言えば、ある通りに行ったんだ。ピカデリーサーカスの円から離れた、少しばかり細い通りだ。実を言うと、ここだけは行ってみたいなと思ってたんだ。ヘドンストリートって言うんだが、ここは昔、とあるロックスターが落ちてきた場所なんだ。道を曲がってヘドンストリートに入るとき、僕はカセットプレイヤーに彼のカセットを入れた。ジギー・スターダスト。そういう名前のロックスターが殺される曲だ。
僕はヘッドフォンで彼の歌声を聴きながら、静かに歌詞を口ずさんでいた。通りにはレストランがあって、駅ほどではないけど騒がしい。
僕は曲を口ずさみながら、ある場所で足を止めた。彼が落ちてきた場所だ。ジギー・スターダスト、と通りの壁に書かれてるんだ。火星から来たジギーってロックスターは、ここに落ちてきたんだな。
僕はとても嬉しくはあったけど、同時にゲンナリしちまった。っていうのも、ジギー・スターダストって看板の下に聞いたこともない会社のオフィスの表札があったんだ。しかも、その真下でオヤジが壁に背をもたれてタバコなんて吸ってるんだ。
僕は大声で「チェッ」って言ってやった。本当だよ。
するとやっこさん、しかめ面をして喫煙所の方にはけてった。彼には悪いことをしたと思うけど、でも悪気は無かったんだよ。まあ、それでも僕の気の滅入りようは変わらなかったんだけど。
彼の落ちてきた場所はすっかり様変わりしてたんだ。彼が立ってた場所はベジタリアンレストランなんかに変わっちまってるしさ。ベジタリアン? 冗談じゃない。
僕は少しばかりその様子を目に焼き付けると、今度は電話ボックスを探した。あの赤い電話ボックスだよ。でもなかなか見あたらなくてさ、結局ピカデリー・サーカスから出たんだよね。
もう夕方だったけど、日はまだ昇ってた。じゅうぶん暗かったけどね。
観光地に行けばあるだろうと踏んだ僕は、バッキンガムへ戻った。つまるところハイドパークの近くだな。なんだかんだで戻って来たんだよ。
すると案の定、あの赤い電話があったんだ。僕はその中に入ると、深く息を吐いた。でも吸うのだけはゆっくりやったな。電話ボックスの中ときたら、やたら汚かったんだ。ガムやらチリ紙やらが散乱して、足の踏み場も無いんだよ。だから僕は我慢して、つま先立ちみたいにそこに立った。
受話器も一応あったよ。フェイクだったけど。外面だけの電話なんだよ。本当に誰かにかかるわけじゃないんだ。要は子供だましのおもちゃなんだな。
僕はそれでまた気が滅入っちまったんだが、ふとあることを思い出したんだ。昔、ばあちゃんが言ってたんだ。日本のあるところには、天国と繋がる電話があるとかなんとか。それはもちろん電話線に繋がってわけじゃないんだけど、毎日こぞって観光客が電話にしに来るらしい。
それで僕は思ったんだよ。
たとえば小説を読んだり映画を見たり、あるいは音楽を聴いてるとき、それを作った誰かに電話をしたくなるときがあるだろう? 君はどうだか知らないけど、僕はあるんだ。特に音楽を聴いているときなんかは多いね。少しばかし聞いてみたいことが出来るんだよ。曲調もそうだし、歌詞もそう。歌詞についての方が多いかな。
たとえば僕は、フレディ・マーキュリーなんかに電話をしたいな。彼は僕が生まれた頃には死んでたんだけどさ。それでも彼に電話したいね。で、ひととおり彼とデオデオリロリロ言い合うんだ。言い合ったら、それで通話はおしまい。それ以上やったら、きっと彼は僕にFワードを飛ばしてくるだろうし。
他にもジギー・スターダストには電話したいね。ちょうどさっき、彼が落ちてきた場所には行ったけども。「ボウイはまだ生きてるじゃないか」って君は言うかもしれないけど、僕の中じゃジギー・スターダストは死んでるんだな。七三年のハマースミスでだって死んでるし、『ジギー・スターダスト』の中でもファンのガキに殺されてるはずなんだ。だからもし天国に繋がるのなら、ジギーに聞きたいね。というよりも、彼に救われたいのかもしれない。僕は、五年しか残されていない気がするんだよ。
で、僕は何か聞こえるかと思って受話器を上げたんだ。天国のロックスターにかかるかな、ってさ。でもまあ、案の定何も聞こえなかったんだ。どうやらこの電話ボックスまでも天国の階段をのぼってたみたいなんだよ。僕だけが取り残されてる。みんなもうとっくに階段を上がってて、僕だけはまだ入り口に立たされてるんだ。金で買おうにも買えそうにない階段さ。
だから電話ボックスを出る前に、僕は大きく舌打ちしてやった。したら順番待ちしてた中国人のやつ、あからさまにイヤな顔をしてた。けど、僕は気にしなかったな。それよりどこか遠くに行きたかった。もう空は暗くなり始めてたんだ。
空が暗いとこっちの気まで沈んでくる。霧の都まで来て何言ってるんだって言うかもしれないけどさ。霧雨がポツポツと降り始めて、日が暮れてるんだか雲隠れしてるんだか分からないけど、薄暗くなってきたんだな。
通行人たちときたら、雨なんて気にしないんだ。折りたたみ傘一つ出しやしない。みんな濡れたまま、パブなんかに行くんだ。身なりより酒のが重要みたいでさ。暗くなるのを合図にして酒にたかり始めるんだよ。
僕はそいつらと一緒にいるのは気にくわなかったけど、喉が渇いたし、腹もぺこぺこだったんだ。なにせ昼から何一つ腹に入れてないからね。だから僕もその波に乗ってパブに入ろうとしたんだ。
自分がどこにいるかはよくわからなかった。たぶんハイドパークを抜けて、さらにメイフェアを過ぎたあたりにいることは分かったけど。実際僕は異邦人なんだな、この街では。だからとりあえず、次見かけた店に入ろうって決めて、僕は街をぶらつくことにしたんだ。
ブレザーに手を突っ込んで、空を見上げる。正直僕はまだ十七だから酒は買えないんだけど、みんなより背が高いから老けて見えるんだよ。ブレザーも学生服じゃなくて、どちらかというとジジ臭いやつなんだ。海軍のお偉いさんなんかが鼻高々に勲章なんかを付けてそうなやつ。だから僕は、十八以上だって思われる自信があったんだ。
しばらく歩いてると、顔の赤いビジネスマンの一団が見えたんだ。プラスチックのグラスにハーフパイントのエールが注がれてて、彼らそれを片手に外で騒いでるんだ。どうにもすぐ近くにパブがあるらしい。
店はすぐ近くにあった。階段を下がって地下に店があるみたいなんだ。雰囲気のある店なんだよ。
僕は騒がしいのが苦手だから、店内に入ることにした。階段を下がって、店の中で飲むことにしたんだ。
階段はコンクリで出来たシンプルなやつだった。しかも狭いんだよ。人二人通れるかどうかぐらいなもんで、実際二人は通れなかった。ちょうど僕が降りてくとき、一人陽気な老紳士がやってきたんだよ。
彼はビートルズの『ラヴ・ミー・ドゥ』を口ずさんでた。それがまた良かったんだな。決して歌がうまいわけじゃないんだけど、すごく自然な感じだったんだよ。まあ、酔っぱらってるだけかもしれないんだけどさ。まるで、彼の心が歌いたがってるから、口が「どうぞ、歌ってくれ」なんて譲歩してるみたいな。
彼の容姿は、贔屓目に言ってもあんまりいいもんじゃなかった。ごくふつうのオッサンなんだよ。でも、ハイドパークで見たあの男よりはよっっぽどイケてると思ったね、僕は。いい女ってのは、すべからく見る目がないんだよ。こういう男が一番クールだって知らないんだよね。
前にも言ったんだけど、僕はビートルズはそこまで好きじゃない。嫌いなわけじゃないんだけどさ。でも、このときは気分が良かったね。だから僕は彼に道をゆずってやって、それからラヴ・ミー・ドゥを口ずさみながら、店に入ったんだ。
店はなかなか良かったよ。カウンターは雰囲気があって、ボックス席は埋まってたけど、そこまで騒がしくは無かった。
僕はカウンターの端に陣取ると、机をトントンと叩いてバーテンを呼んだ。なかなかこないもんだから、何度も叩いたよ。三十回くらい叩いたところで、ようやっと来た。女性だったよ。若い黒髪の女性だった。
「何をお飲みに?」と彼女。
「そうだね、ギネスを貰えるかな」
そういうと、彼女は少し僕をにらみつけたんだ。
まさかとは思ったけど、彼女は僕に惚れたのか、と一瞬思った。違ったみたいだけど。
「失礼ですが、身分証明書をお持ちでしょうか?」
「身分証明書だって? 君ってば、僕が十五のガキにでも見えるって言うのかい?」
「いえ、ですから……身分証明書をお持ちですか?」
彼女、聞くにしてはずいぶん弱腰なんだよ。僕の方が不安になるぐらいにね。
本当はギネスを飲みたかったけど、僕はなんだか彼女をいじめてるみたいでイヤな気分になった。だから、仕方なく答えたんだよ。
「わかったよ。ソーダはあるかい」
「かしこまりました」
すると彼女はほっと安心したようにグラスを取りに行ったんだ。
ソーダなんて、周りで飲んでるやつは誰もいやしなかったよ。
まあ、それはふつうのソーダだったよ。僕は一口で半分ぐらいまで飲んだんだから、大したソーダだ。僕は炭酸なんかを一気に飲むのは嫌いなんだな。シャンペンなんかもそうだ。ビールもね。ゆっくりじっくりやっていくのがいいんだ。だけどこのときは緊張してたんだろうね。いつもより多めに口に含んじまったんだ。
カウンターからあたりを見回してみると、なかなかおもしろいものが見えた。誕生日なのかなんだか知らんけど、ウェイターが急に歌い出したんだな。するとやっぱりそれはハッピーバースデーだったもんで、周りの酔っぱらいどもは大興奮で歌い出した。彼ら、騒げればきっかけはなんだっていいんだよ。
僕も手拍子ぐらいはしてやったけど、歌は口ずさむ程度だった。こういう雰囲気はそんなに好きじゃないんだよ。それに、バーテンの子がかわいそうだったしね。
喉が潤ったから、今度はどこへ行こうかと考えあぐねてた。あの店でチップスを頼んでも良かったんだけど、彼女がかわいそうだったからさ。けっきょくソーダを飲み終えたら、余計にチップを払って帰ることにしたんだ。
たぶんそのころには、自分でもどこにいるのか分からなかったと思う。あたりはすっかり暗くなって、ときおり暗闇をサイレンとパトランプがかき分けてた。だけどドライバーってのはなかなか緊急車両に道を譲らないもんなんだな。
僕はすっかり腹が減ってた。だから、ホットドッグスタンドなんかに目が行くんだよ。もう九時過ぎなんだけど、スウェット姿の男が「ホットドッグ、ホットドッグ」ってやる気のない声を上げてるんだな。続けざまに売り文句だかなんかも言ってるんだが、それがほんとに根性の無い声でさ。何言ってるか分からないんだよ。僕にしたらそれがかわいそうに思えて、でも買う気も起きなくて、通り過ぎることにした。
けれど通り過ぎた次の瞬間、若い男連中が歌いながらやってきて、僕は思わず飛び上がっちまったんだよ。気のないふりをしてたのにさ、急に観光客みたいな素振りをしちまったんだ。顔を上げて、まわりをキョロキョロとね。
彼らは酔っぱらって、なんだかよくわからない歌を歌ってた。ろれつも回らないのかヘタクソなんだよ。さっきのパブで会った彼を見せてやりたいね。お前たちがいかにヘタクソなのかって教えるためにさ。
彼らの横を通り過ぎていったら、駅が見えてきた。比較的でかい駅だったよ。ユーストン駅だったかな。
そしたら、突然誰かに肩を叩かれたんだ。僕はヘッドフォンをしてたからよくわからなかったんだけど、「おい、きみ!」なんて大声で言われたから、また飛び上がって、振り返ったんだ。
そこには、恰幅の良い黒人がいた。紺色のスーツで決めた男だ。僕よりはるかに体格がよくて、威圧的だった。僕は黙ってそいつの話を聞いてやっても良かったんだけど、なんだか急に震えてきて、チビリそうになったんだ。怖くてたまらなかったんだよ、正直な話。
だから僕はたまらなくなって、そこから逃げ出したんだな。
やっこさん、「おい、待つんだ君!」って僕に叫んだけど、それどころじゃ無かったね。
そうだ、僕は急にホームシックになったんだ。怖くなって、誰かに助けてもらいたくなったんだ。それこそ、誰かにキャッチャーミットかなんかで優しく受け止めてもらいたい。つまるところ家に帰りたくなったんだよ。
あのスーツの黒人が何を言いたかったのか、それは僕には分からない。そのときにはもう、僕は駅へ向かって、何もかもかなぐり捨てる気持ちで走っていったんだから。
僕が駅に着いた頃には、もう十時近くになってた。
駅はひどく込み合ってた。でも、十時を少しすぎると、急に静かになったんだよね。みんな、待ってた列車が行っちまったみたいなんだ。しかもどうにもその列車が、僕の家に帰る列車だったんだよ。
バーミンガムに行く列車は、もう終電の二十三時十分発のものしかなかった。一時間後の列車だよ。
駅は随分と広かったね。バーガースタンドやサンドイッチの店なんかがいくつもあったんだけど、さすがにこの時間だとどこも開いてなかった。
こんな時間になると活気なんてどこにもなかった。列車を待つ静けさしかないんだ。みんな疲れ果てたみたいで、ベンチに座り込んでる。おかげで僕が座れる場所はなかった。
仕方なく僕は、近くの壁に背をもたれるだけして足を休めた。さすがに歩きすぎたのか、もう脚が棒みたいになってたんだ。
そこで僕が何をしたかと言えば、チケット売場を睨みつけて、小一時間どうするか考えたんだな。列車の切符を買うべきか否かって。家に帰るべきかどうかって。
家出をした理由なんて些細なものだったんだ。ただ日常に辟易として、どこかに行きたくなった。それだけなんだよ。でも、それでいざ飛び出したらこの有様だ。腹は減ったし、脚は痛いし。誰かが僕を助けてくれるようなことはなくて、僕はただぼーっとしているだけ。切符を買う金はあったけど、それを買ったら自分で負けを認めたみたいで、なんだかイヤだった。
するとそんなとき、カセットが止まったんだな。僕は気を紛らわすために、裏面にしてセットし直した。それにはボウイの曲が入ってたはずなんだけど、なぜかザ・フーが流れ始めた。たぶん間違えて録音したんだろう。
彼らの曲はもちろん好きだ。でも、そのときは聴きたい気分じゃなかった。ロジャーの声が僕に語りかけるんだよ。「自分が孤独だって今更気づいたのか?」ってさ。そうだよ、僕はいまさら自分が孤独なことに気づいたんだ。そして、それだけじゃ僕はやってけないんだって。僕は墜落の中にあるんだって。
急に悲しくなったんだ。このまま死んでしまってもいいような気さえしたんだ。切符を買ってホームに入ったら、線路の中に飛び込んでしまえって思ったんだ。それで列車にひき殺されて死んでしまいたいって。
でも、いざ切符売り場に並んでみようとすると、急に手が震えだしたんだ。これから死のうとか考えると、怖くなったんだ。あの黒人に肩を叩かれたあのとき以上に。とてつもない恐怖に襲われたんだ。
曲が変わった。内側、外側、もうほっといてくれ。
どっちが本当の君なんだい?
そう、僕の中の誰かが問いかけた。
どっちも本当だ、と僕は答えてやった。生きるのももう疲れたし、死ぬのももう勘弁なんだ。子供には戻りたくないし、老いぼれたくもない。
やがて切符売り場に僕の番がやってきた。タッチパネル式の自動販売機の前に僕は立った。バーミンガムまでの高速列車。それに乗れたとしても、家に着くのは深夜の一時過ぎに違いない。きっと母さんも父さんも僕を叱るだろう。でも、叱ってくれるだけマシなんだ。
後ろにいた四十代ぐらいの男が貧乏ゆすりをしていた。僕を待ってるんだ。さっさとしろよって。あとがつかえてるんだって。
僕は指をバーミンガムの文字に押し当てる寸前だった。後ろからは「早く押せ」って声が聞こえたような気がした。やっこさん、いらいらが溜まってるのか、雰囲気だけでそれがわかるんだ。
僕は押すべきかどうか悩んだ。ついには隣の券売機が空いて、彼はそっちへ逃げてった。だから僕は比較的ゆっくりと考えることが出来た。
そして僕は、死ぬにしろ生きるにしろ、そして帰るにしろ帰らないにしろ、切符を買うことにしたんだ。
悩んでるだけで一時間も経ってたんだな。僕がホームに入ったころには、もうとっくに列車は来てたんだよ。駅員は眠そうにしているし、これで飛び込んだら彼らがかわいそうだなって僕は思った。
それで、僕は列車に乗ったんだ。もう人もぜんぜんいなかったよ。誰もいない列車に一人、静かに乗った。それで、僕はバーミンガムまで戻ったんだ。車窓からは、ロンドンの灯が見えた。それは花火みたいに残光を描いて、僕の視界から消えていった。でも、その光は二度と戻らないと思う。
僕の話はこれで終わりだ。そのあとどうしたといったら、歩いて自宅まで帰ったよ。父さんも母さんも僕を待っていて、父さんなんか僕をひっぱたいたね。案の定だけど、僕は少し嬉しかったよ。
それでも、僕は帰れたわけじゃないと思うんだ。いろんな意味でさ。僕には帰れる場所があったけど、本当の意味じゃもうあの場所には帰れないんだ。
ロンドンは良いとこだったよ。もう一回行っても良い。だけど、僕のいきたかった場所は、きっともう二度とやってこないと思うな。