その1
「こんにちはー阿比留さん。上がりますよー」
ぶしつけに40歳くらいの男性がボロアパートの一室に上がり込む。
「おう、上がれ。誰だか知らんが金目のもんなんざないぞ。」
年齢を感じるしゃがれた、しかしそれでいてしっかりとした声で阿比留氏はぶしつけな来客に応じた。
阿比留氏は明後日で115歳になる老人である。
高度に発達した医療技術と福祉制度のおかげでなんとかかんとかそこそこ健康に生きてはいるが身寄りのない、実に現代的な老人である。
親族、友人知人は軒並み死んでいる。
唯一親しかった親族である甥が6年前に死んで、阿比留氏は天涯孤独となっていた。(もっともその甥は死ぬ10年前に治療不可能な痴呆となり、施設で孤独に死んだのであるが。)
知り合いといえば毎日飯だのなんだのの面倒を見に来てくれる福祉局の役人以外はいない。
さて、そんな俺にいったい誰が用事だろうか。
経済的な面は全て市役所の福祉職員が運用していて、このアパートには何もない。被後見人申請をしているため、契約も福祉局がウンと言わないと効力はない。
めんどくさそうに振り向いた玄関先には、どこかで見たことのある男が立っていた。
「お久しぶりです阿比留さん。」
確かに見覚えがある。誰だったか。しかしこんな40歳くらいの若い男に知り合いがいただろうか。
「もう60年くらい経ちましたかねえ、阿比留さん。滝原ですよ滝原。」
「滝原・・・?」
「阿比留さんが最初に定年した会社覚えていますか。そこでお世話になった滝原ですよ。滝原浩二です。」
阿比留氏はしばらく考え込んでだんだん思い出してきた。
阿比留氏はいままで5,6箇所の会社などに勤務して3回定年したのだが、最初の最初に定年した会社、つまり高校を出て就職した会社、そこでこの滝原という男と一緒に仕事をしたことがある。
しかし今目の前にいる滝原の風貌は40歳くらいである。詳細には覚えていないが滝原は確か自分よりも20歳ほど年下であったから、現在90歳くらいになっていなければおかしい。
「阿比留さん、話すと長くなるんで割愛しますが、実は私、不老不死の身体と莫大な富を得ましてね、それで福祉に目覚めて日本中を行脚しているんですよ。」
「不老不死だぁ・・・?」
「ま、到底信じられませんよね。」
「いんや、だんだん思い出してきた。現におめぇがその姿でぴんぴんしてんだから信じるよりほかねえな。」
「そうですか。」
「なんかのペテンだったとしてもだ、老い先短い俺の日常に降って湧いたエンターテイメントと思えばむしろ楽しいってわけだ。どう転んだってお得な話だろ。」
「そう言っていただけるとやりやすくていいですね。ありがたい。」
「んで、タキ・・・タキって呼んでたよな、確か。」
「はい、ビルさん。」
「ビルさんたぁ懐かしいなあ。で、タキ、おめえとどのつまり何しにここにきたんだ、いったい。」
「単刀直入に申し上げまして、この安アパートを出ていただいてですね、富士見町の老人施設に移ってもらおうかな、と。」
「富士見町のってえとあのバカ高い超高級施設じゃねえか。」
「もちろん、ビルさんがこのアパート住まいに愛着があって離れたくないというのであれば、その他の生活のお手伝いをさせていただきたいと思います。」
「30年住んでるから愛着がないといやあウソになるが、富士見に行けるってんならそんな愛着ぁ屁でもねえな。」
「ご決意いただければ今日の夜からでも。」
「随分手際が良いな、タキ。お代はお前持ちなのか。」
「はい。全額私が持ちます。ビルさんが、その、縁起でもない話ですが、死亡するまで全て。いや、死亡してからの葬儀の手配も現代日本で望める最高のものをですね、手配させていただきたいと思っています。」
「・・・何の得があるんだ?そんなことして。逆さにしたって俺からは何もとれやしねえぞ。」
「自己満足ですね。」
「そうか。」
「そうです。」
ここで滝原は阿比留氏にたばこを勧めた。
「へぇ・・・!今や企業の部長だっておいそれ吸えないタバコか。」
「確かビルさんの好きな銘柄だったと思います。」
滝原がさっと阿比留氏にライターを差し出す。
紫煙をくゆらせる阿比留氏
最後に吸ったのは何十年前だろうか。
ゴホッゴホッ!
むせかえる。
110を越える身体にたばこの煙は少々きつすぎたようだ。
むせながらもよみがえる大昔の記憶
わずか数秒であったが、その間に阿比留氏の脳裏にタバコにまつわる記憶が走馬燈のように巡った。
不良仲間とタバコを吸い始めた高校時代
残業続きの会社の事務所で同僚とタバコを何十本も吸いながら仕事をした初夏の深夜
タバコの値段が上がってそろそろ控えなきゃなあ、と思いつつも吸い続けた銘柄
いよいよタバコをやめなければならないと医者に言われ、段階的にタバコを減らしていき、数ヶ月後、最後に吸ったタバコの味
最後のタバコは確か最寄り駅の喫煙室で吸おうとしたのだが、嫌煙活動家達が喫煙反対のプラカードを掲げてこれ見よがしに喫煙室の前に陣取ってたため、アパートまで我慢してテレビでプロ野球を見ながら吸った。
枝豆をビールを流し込み、ひいきの球団の試合を見ながらの喫煙、最後の一本、我ながら駅なんかで最後の一本を吸わなくて良かった、逆にあの嫌煙活動家達に感謝だな、と苦笑いしたものだ。




