アイリスは目を閉じて
アイリスの花の咲くその庭に静かに立つ彼は薄い笑みをその顔に滲ませ私を見て言ったのだ。
「貴女の言葉に、視線に、動作に、私は心の何処かを揺さぶられるのです」
それは何処までも続く永遠で
それは何処までも終わりのない1週間で
それは続くはずだった日々の終わりまでのカウントダウン
帰り道、くだらない学生達の声をイヤホンで塞ぎリズミカルな音楽へと変える。少しづつ空気は冷え夕日が沈んでいくのを見てふと、思った。
今日は違う道を歩こう、と。
それはいつもの私の気まぐれ。周りと合わせて生きる事を得意とする私の、私だけが知ってる本当の私の心。
足の動くまま心が興味を示すまま右に曲がっては緩やかな坂を上ったり、階段を降りてまた右に。そんなことを繰り返すうちにあんなにたくさんいた学生達は消えていた。イヤホンを外してバックに適当に入れて周りの音を聞く。
静かだった、時折離れた何処かから子供の声や車の音が小さく聴こえてくるけれどそれはなぜか心地よくて再びさっきより数段ゆっくりとした歩きで前へと進む。
風が吹いて私の長い髪が後ろへとなびき、制服のスカートがふわりふわりと揺れる。目を閉じて風に吹かれながら歩く、危ない事だって思いながらもそれが気持ちよく感じた。
「そんな事をして歩くと転んでしまいますよ」
それは少し前から聞こえた。目を開けると少し先に彼は立っていた、まるで子供を心配するような優しい目でこちらを見つめている。
「転ぶと痛いでしょう?それに女性が1人で目を閉じて歩くなんて、変な輩に絡まれてしまっては大変ですからね」
「...既に変な人に絡まれてると思うんですよね私」
一定の距離を保ったまま、彼の言葉を聞いていた。不思議な雰囲気のある話し方をする彼は私に近づくことも離れることもなく言葉を言い終え、まるで私の返事を待つようにしていた。少し考え、言葉を選びそして口に出す。
私の返事に彼は小さく笑い確かにそうだね、と頷いた。
その後彼は「気を付けておかえり。もう目を閉じて歩かないように」そう言って少し先にあった家に入っていった。
一人になったその場所で少し考え彼の入っていった家の前まで歩くとそこは少し大きな家だった。
外観しかわからないけれど、そこは大きな庭がある様子で私は少しだけ心引かれたけれど、特にどうこうすることなく次はどうしようかと息を吐いた。
そして空が完全に暗く星が出ていることに気が付いた。私は来た道を振り返り、次にとても寒いということに気が付いた。寒いのは嫌いだ、早足で来た道を歩きながらさっきの不思議な彼を思い出した。
カーテンの隙間からの眩しい光、目覚ましのゆっくりとした音楽、鳥の声、車の音、電車の音。あぁ、もう全部消えてしまえ。あ、でも布団は消えちゃやだなぁ...なんて事を微睡みの中で考える。
憂鬱な朝は大体毎日こんな感じで目をさます。ベッドから重い体を起こそうとして途中でベッドに倒れこむ、そして枕に顔を埋め少し悩んで短く宣言をするとしよう。
「よし、休も」
その宣言の後の記憶はどこにもないまま、柔らかく意識を戻したその時には既に昼過ぎだった。
外の音は朝よりもうるさく忙しなくなっていてつい溜息がこぼれてしまう。起き上がると頭がズキズキと痛む、きっと眠りすぎたせいねと1人納得しつつスマホをつけると5件のラインの通知が来ていた。
どーしたん?風邪?、大丈夫ー?、似たり寄ったりなクラスメイトからのふわりと軽い言葉達に適当な言葉を返しベッドの上にスマホを投げる。暇な短い1日の始まり、何をする気でもなくリビングへ行くとそこには母が居た。少し驚いた顔で、でもそれはすぐに困った顔へと変わる。「なんでいるの?学校は?」キッチンへ向かう私の背にかかる声はとても嫌い。言葉の雰囲気があからさまに迷惑だと伝えてくるから。「休んだ......あと15分もしたらでかけてくる」そのあからさまに応えるように表情揺らすことなく小さな声で私は返事をし冷えたお茶を飲んだ。「ズル休みね...何がそんなに嫌なのかわからないんだけど」溜息交じり独り言のように言う母を無視し部屋へと戻る「貴女にはわからないよ」聞こえるはずのない返事をして。
スマホとイヤホン、財布を手に持って外に出た。
人の声、車の音、電車の音、どこからか流れる音楽、足音、音音音音音音音音音音音音音音音音。あぁもううるさいよ!心の中で叫びイヤホンをスマホに刺して音楽に溺れると、行くあても無いからとふらりふらりと歩く。そして思い出す。不思議な彼を。昨日といい今といいよく思い出すと言うことは印象に残っているのだろうか、その理由は?自問した所でわかるわけもないのだが。行ってみよう彼と出会った所に、自然と心はそう思い足はそちらへと向かい歩き出す。かろうじて覚えている道を進み、昨日と違うたくさんのことを体感する。周りの明るさ、昨日とは違う気温、服装が違うからの違い。色んな違うも今はどこか楽しい。そして、その場所は昨日とは違う顔で昨日と変わることなく存在していた。ただ、そこの彼は居なくてそんな運命あるわけないか、と笑えてきて小さく声を漏らす。ならば目を閉じてみてはどうだろう、また会えるだろうか。目を閉じる。風が昨日と変わらず下ろしている髪を後ろへとなびかせる感覚、風が頬を撫でるような感覚、そして人の温かな指が頬に触れる感覚。私は驚き咄嗟にその暖かさを与えたそれを手で払い目を開いた。彼がいた、そして私はもう一つのことに気づく。イヤホンをつけたまま、私の耳を占拠しているのは音楽であったことを。イヤホンを外し彼を見ると「流石に今のは私だけが悪い、と言うわけでは無いと思うんですよね」困ったように笑いながら叩かれた手を反対の手で摩っていた。「......イヤホンをつけたままだった私が悪いです。すいません。でも、別にほっぺたじゃなくても肩とかでもいいと思うんです」小さく頭を下げて素直に謝る。今の場合どう考えも私が悪いのだから。「それは...そうですね、貴女の肌が綺麗だったので触ってみたかった。なんてどうでしょうか?」まるでとってつけたような言い訳に私は少し固まった後に笑った。くだらないことだ、と思いながらもそんなことが面白くて。「ところで、貴女はなぜここに?それに昨日の晩会った時は制服に見えたのですが」じっと私を見つめる彼の目は疑問を抱えていてその疑問を私は静かに受け取り返す。「ズル休み、ってやつです。ちなみに今私がここに居るのはただの散歩です」納得したように彼は笑い「では、どうでしょう。偶然会ったのも何かの縁、少しお話でもしませんか?」自然な動作で家の方を向くその姿を目で追いながら「...じゃあ、少しお邪魔します」そう答えた。彼と彼の家に興味をそそられた私にとって今の誘いは最高に甘いものだった。