四十七日目
久しぶりに枕元の携帯が震え出した。今日から仕事が再開だからアラームをつけておいたのだ。ベットから体を起こして朝食を作りに行く。今朝は頭がスッキリしていて目覚めがいい。
野菜を炒める匂いが食欲を刺激する。途中でお腹が空いてはいけないから、少し多めに作っている。皿に盛り付けた頃、ちょうどご飯も炊けたようで、炊飯器から蒸気があがった。
食べるときもなるべく噛む回数を多くして、満腹中枢を働かせる。今日は相当なエネルギーを使いそうだからね。
洗いものを終え、軽く化粧をして久々にスーツに腕を通す。背筋が伸びるような感覚だ。支度を終えるとカバンを持って、ひんやりした革靴に足を入れる。外に出て鍵を閉めていたら、また西野さんに会った。ゴミを出しに行くところらしい。またお互いに会釈だけした。
道には元の通勤時よりは少ないが、同じように会社に行く人が歩いていた。
ホームに着き並んで電車を待っていると、床が点滅した。現れた電車の中には人がぎっしりと詰め込まれていた。本数が少ないからこの電車に乗りたいけれど、ここまでの満員電車になるとは思っていなかった。きっと既に乗っている人達もそう思っているんだろう。ドアが開いて数人が降り、私を含む降りた以上の人数が電車に詰め込まれる。静かに閉まりだしたドアに挟まれないようさらに密度が増す。
会社までは五駅だけれどもつかな?ひと駅またひと駅と着くたびに押し潰される。十五分ほどの筈なのに一時間はいるのではと思うほど長く感じる。
そろそろ降りなきゃと次の駅を確認しようとしたが、顔をあげられない。車内アナウンスが無いから必死で電光掲示板を覗くと、案の定降車駅だった。電車がホームに着くと、どっと人の波が電車から吐き出される。私もどうにか波に乗り、降りることができた。やっと体が自由になり、ほっとしながら時計を確認すると、最寄り駅を出てから三十分も経っていた。長く感じたのはあながち嘘でもなかったわけだ。余裕をもって家を出て良かったよ。
そのまま他の人と同じく、改札を出て会社に向かう。これだけ同じ方向に行く人がいると、安心して歩ける。
三十分歩くと、無事何事もなく会社の入っているビルの前まで着けた。階段を上り三階のオフィスに入る。既にふみちゃんなど十人が座っていた。おはようございますとでも言えば気付くのだろうけど、私を見た人はいなかった。どうしようか困ったけれど、取り合えずロッカーに荷物をしまって、家から持参してきたメモ帳を持って部長に挨拶しに行くことにした。
『羽崎部長おはようございます』
すると、部長は無言でホワイトボードの予定表を指差した。
羽崎 真千部長は、私がちょっと苦手としている、つり上がった目が特徴的な開発部部長だ。多分三十代。
ボードを見に行くと、部署毎に仕事内容が書いてあった。開発部は材料の確保となっている。但しボードの一番上に、『出社時間の九時に、社長から朝礼がわりの一斉メールが来るので、それまで待機』と書かれていた。つまり、あと四十分近く空き時間があるわけだ。私はゆっくりと自分のデスクに向かった。
机上には、あの日作っていたプレゼンの為の資料が置いたままになっていた。紙の角には
『5/21まで!』
とメモ書きが残っていたけれど、この資料が再び使われることは多分無いんだろうなと思いながら引き出しの奥にしまい込んだ。結構見易く出来てたのにな。
パソコンのスイッチを入れ、立ち上がるまでちょっと周りを見渡してみた。みなパソコンや携帯の画面を見ていた。隣のふみちゃんとは目があった。口パクで久しぶりと伝えあった。フロア内には、さっきまでいなかった人事の中園部長や数人がいつの間にか座っていた。これは確かに人が入ってきたことに気付かない訳だ。
時間までニュースを読んで過ごした。九時丁度にメールが送られた時には、出社出来ないと連絡があった二人となぎ以外は着席していた。届いたメールの内容は、大雑把に言うと
・本社の社員は全員安否が確認されたこと
・店舗は本店のみ営業再開させること
・再開の日時は未定だが、今月中を目標にしたいこと
の三つだった。読み終えた頃、今度は羽崎部長からメールが届いた。沢山の店名と電話番号とメールアドレスのリストが添付されている。メールの本文には『あなたの担当先です。連絡をとってください』とだけ記してある。つまりここに電話……でなくてFAXかメールで連絡すれば良いのか。連絡先は全て製麺所だ。簡単そうに思えたけれど、これが意外と大変だった。送ったは良いけれど、返事が返ってこないのだ。パソコンに張り付いているような余裕が無いのは分かっているけれど。そして、午後になってようやく返信が来たと思ったら、稼働させていないだとか材料が無いだとかで、なかなか見つけることができなかった。
四時頃にようやく見つけた会社も、金額が予算を越えていて、今の段階では保留としか決まらなかった。まだ返事が返って来ていない会社もあるので、明日も引き続き連絡することになりそうだ。他の人は三、四社は見つけていて部長に小言を言われ、大して働いてない筈だけれど疲労を感じた。
仕事も終わり、ちょうどふみちゃんも帰るところだったので、駅まで一緒に帰路につく。携帯を介して会話しながら。
『ふみちゃん元気だった?』
『うん。しのちゃんも?』
『このとおりだよ!良かった』
『何が良かったの?』
ふみちゃんは画面から顔を上げて、不思議そうに私を見てきた。私も驚いて一瞬ふみちゃんを見返してから打ち込む。
『ふみちゃんも元気で良かったってこと』
『あ、そっか。ありがと』
駅に近づくと帰宅ラッシュ真っ只中だったので人も多く話も途切れ、そのまま別れて電車を待つ。
ようやく来た電車は私より前に並んでいた人達で一杯になってしまったので、仕方無くもう二十分待つ。待ちながら、そういえばなぎ休みだったなと思い出してメールしてみた。
人に押されながら電車に揺れ、疲れも増したところで駅前のコンビニに寄ってしまい、チキンサラダを買って夕食にする。
帰宅して玄関に明かりを灯したら、すぐにシャワーだけ浴びて、買ってきたサラダを食べる。あまりにぼーっとし過ぎて、二口目まで蓋裏のドレッシングの存在を忘れていた。
就寝前になっても返信は来なかった。まあなぎからメールが来ないのはいつものことなんだけど。
休みに慣れてしまうのも良いことじゃないなと思いつつ、耳は勿論の事、目からの情報もシャットアウトした。