四十四日目
窓からの日の光が顔に当たって目が覚めた。昨日までは二段ベットで寝ていたから、余計に眩しく感じる。
閉まっておいたタオルを取り出して顔を洗う。ふと鏡を見ると、記憶にあった自分の顔より細い顔が浮かんでいる。身体は一日二食の生活にだんだんと慣れてきたけど、やっぱり落とせるところは落として維持させてるんだな。と改めて人体の仕組みに感心してみる。
昨日の帰り道に買い物をするのを忘れていたので、夕飯同様に実家から貰ってきた物で作る。こっちは何が買えるのか考えてみながら朝食を済ます。
片付けが終わると、新聞を手にしてソファーに座った。一面の見出しは「自殺者五千人以上か」と暗鬱な話題。一ヶ月以上経ってやっと、警察は調査を始められる体制が整ったようだ。最近は連日この手の話題しかない。特に音に関わる仕事等をしている人の自殺が多いと書いてあるが、自分の最も大切にしていた物が意味を為さなくなったなら生きている意味がない、そんな所だろうか。
一体私だったら何がそれに当たるのだろう?……無いかもしれない。考えてみたことも無かったけれど、何かに真剣に打ち込んだのは学生の頃が最後だったかもしれないな。趣味と言っても読書くらいしか無い。だって休日は疲れてるし寝たいんだもん。
そもそも何からこうなったんだっけ?
再び手元の新聞に目を落とすと「自殺」の文字が。あぁ、そうだ。私がもっと神経質な性格だったらこの数字の中に入っていたのかもしれない。そういえばいつかの新聞だったかネットに不眠症の患者が増えて医者が足りないと書いてあった気がする。幸い睡眠には不自由していなかったからこそ、今こうして壮健でいられるのかな。
そうだ、会社のみんなは無事なのかな?ふみちゃんなどとは何通かメールしていたから分かるけど、それ以外の人とは全く連絡とってないしな。まあ明々後日には顔を見れるんだろうけどね。
そういえば、なぎとは連絡とってないや。でもメールとかあまり好きじゃないって言ってたから大丈夫なのかな。
明々後日か、待ち遠しいようなそうでもないような。あ、カレンダーよく見るともう今日から七月なのね。壁に掛かったカレンダーを捲りながら先月を思い返してみる。けれど、咄嗟に思い出すような印象の強い出来事は無かった。何処かに行こうと言う気も起きないので、ずっと家にいたからだ。引きこもりってこんな感じなのかな。だとしたら私は働く方を選びたいや。
そうこうしている内に開店時間を過ぎていたので、手早く洗濯機をセットして、バックを持って買い物に行く。いつもよく会う二つ隣の西野さんも丁度出掛けるようで、一ヶ月はいなかったからか目を見開いて私を見てきた。けれど、メモ帳等は持っていないし何を使って会話するのが適当なのか見当がつかなかったので、会釈だけしてアパートを後にした。
外を歩いていても、相変わらず人に会うことは多くない。自転車とすれ違う時のヒヤッとする感覚はあまり良いものじゃないね。昨日の帰り道と違ったのは、途中で猫を見かけたこと位だろう。向こうも背後の私に驚いたようで、振り返って私を睨み付け「ニャー」と言うように口を動かして、そして何処かへ去っていった。果たして鳴き声をあげていたかどうかは分からない。もしかすると猫もまた聞こえないのかも知れない。けれど、動物についての情報は全くと言って良いほど見ないんだよね。
駅前の商店街に着くと、三分の一程の店舗は営業していた。お目当てのスーパーも、ネットで確認した通り営業中だ。店内には、想像以上に人がいた。直前に行った店が田舎だったからかもしれないけれど、ちょっと驚いた。そして、交通が元々良いからか野菜だけではなく少しの加工食品も売られていた。しかし種類はあるけれど、数制限があり、人参なども一人二本までとなっている。そして値段はそれなりに高い。二ヶ月前よりも20%は値上げしている。聴こえなくなった直後の私も、まさか聴覚がこんなところにまで影響するとは思ってもみなかっただろう。
身振りを交えて会計を終え、洗剤を買いにもう一軒寄って帰宅。買ってきた物を冷蔵庫にしまったら、シワが付かない内に洗濯物を干す。今日着ている服とは違う洗剤の、甘い香りが鼻腔を刺激する。ベランダに干すと、乾く頃にはこの香りも大分薄まっているんだよね。
空を見上げると太陽が頂点に近づいていて、少し前なら身体が栄養を欲し出すような時間になっていた。
今まではテレビをつければ自然と情報が流れてきていたけれど、まだ放送は再開されていないので、携帯を片手にニュースを読む。今月中に放送し出すのではとネット上で噂が飛び交っていたけれど、無くなって初めて実感するもので、私はこのまま放送されなくても大した影響では無いと思うようになっていた。娯楽なら、テレビなんていう魔法の箱が無い時代でもいくらでもあった。今では携帯ひとつで本も漫画も読めるのだから有り難い。
一時間ほど調べてみたけれど、特に事態は好転も暗転もしていないようだ。ただ、警察等が上手く機能できていないからなのか、便乗犯のせいなのか、事件が増えている所をみると、到底安心は出来ない。
しかし、安心は出来ないけれど眠気が襲ってきたのは食事制限によるエネルギー不足なのか、一人きりで更に外出までしてしまったから、聴覚から得られない情報を補おうとし過ぎた体の疲労なのか。
こんなに体力が無くて会社に行けるのかい?と自分を疑いつつ、今日もまた睡魔に身を任せてしまった。