二日目
普段より強い太陽の光を受け目が覚める。いつもなら電車の音が真っ先に聞こえてくるのだが、雲一つ無い今日の晴天のように清々しいほど静かだ。起きたらまた日常がもどっているのではと期待したのだけれど、どうやら叶わなかったようだ。
線路を見てみると電車は走っていないようだった。車道もがら空きだ。それらは賢明な判断だと私は思った。私も冷蔵庫の中身が残り少なかったりするけれど、今日は部屋から出る気は無い。食欲がわかないので数日は持つだろうというのもあるが、なにより怖くて外になんか出られない。
新しい情報を得るためにネットを見てみる。けれども、真新しい情報は無さそうだった。世界中で都市機能が止まっていることは分かった。某国では早くも二件もの強盗被害があったそうだ。さらに、交通機関は再開のめどはたっていないそうだ。
検索をするときに、ひとつ気になったことがあった。音声検索は出来るのかな?こんなときまでどうでもいい事が気になってしまうのはきっと学生時代のせいだろうな。疑問がわいたら取りあえずやってみる、私は物理が好きだった。機械なら音を拾えるのではと予想をしてからアイコンを押す。
「聞こえない」
喉が振動していたので多分声は出ているのだろう。画面を見てみると、検索バーにはしっかりと『聞こえない』と入力されていた。どうやら同じ疑問を抱いた人は他にもいるようで、調べて見ると似たような事を書いている記事がいくつか見受けられた。
そして、メールが何件もたまっていた。まず会社からは、当分の間は営業停止するので自宅待機という旨の内容。飲食チェーン店なんて平常通りになるのは後の方でいいんだろうな。お母さんからの返信も届いていた。昨日は曖昧にしてしまったので、早めに結論を出さなければ。友人からもメールが来ていた。みんな不安なんだろう、長文の安否確認のようなメールだ。文字でしか意志疎通が出来ないことは、如何に歯痒いか痛感する。感情の伝わりにくい文字の羅列は、いくら絵文字で飾っても会話のそれには届きもしない。
実際に会ったところで、この想いを"話して"伝えることは出来ないなんてもどかしくて堪らない。
こんなどうでもいいことでも考えていないと、孤独の波に飲まれてしまいそうね。一人で居ると暗くなっちゃう。
やっぱり家族と過ごしていたい。明日にでも帰ろうかな。うん、帰ろう。
明日家に帰りたい事をお母さんにメールすると、いつもより送信に時間がかかった。送られるとすぐに「待っています。気を付けてください」と返信がきた。帰るといっても同じ都内だから車で1時間程で行ける距離だ。レンタカーを借りて行こう。最近は電気自動車が当たり前になっていて、昔と違って走行の音は静かだから違和感は感じないだろう。最も私は数回しか電気自動車を運転したことが無いのだけれどね。
そうと決めたら準備をしなきゃ。大きめのバックに三、四日分の着替えや化粧品などを入れる。
そういえば前に帰ったのはいつだっけ。それより今何時だろう? 時計を見ると14時を過ぎていた。私以外にこの部屋の中で目で見て動いていると分かるものは、時計の針しか無く、時間の感覚が無くなっていた。
今までは平気だったのに、時間を確認したからか空腹が気になったので、遅めのお昼を食べることにした。行く前に冷蔵庫の中身を無すために残りを確認すると、レタスとキュウリが少しとニンジン半分、トマト二個、鶏肉、冷凍の焼売とチャーハンが入っていたので、サラダを作る。キュウリを切ると包丁はサッと刺さり、まな板に当たるトンッという感覚が手に残る。いつもよりいくらか不気味に思えた。こんなに考えて"切る"という行為をしたのは、初めて包丁を握った小学二年の頃以来だろうか。聴覚が無い分他の感覚が鋭くなっているんだろうな。
食べている間も、レタスがシャキシャキいわないのは変な感じだった。けれど自分の咀嚼音は聞こえる。カチカチと歯が合わさる音、そればかりが聞こえる。
食後に食器を洗うときも流れる水の音が聞こえないので、手は冷たいが洗っている感じがしない。今まで幾度となく繰り返してきた動作なのに、まるで初めてやるかのように思える。ここまで嬉しくない新鮮さは経験したことが無かった。
部屋を片付け、掃除機をかける。パイプがごみを吸い取る度に手の中で振動する。掃除機は相変わらず騒がしい。
何かしていないと落ち着かなかったので、一段落したところで読みかけの本を開いた。邪魔する騒音が無いことも手伝って、私の意識はすぐに本の世界に溶け込んでいった。文章から伝わる情景や表情。面白いほど自分の中に入り込んでいく。しかし、主人公が友人と会話をしている場面で、一瞬手が止まってしまった。そのまま最後まで読んだけれど、結局本の世界には戻れずに、モヤモヤが残ってしまった。
依然スッキリしないまま鶏肉のトマト煮を作り、食べ、お風呂に入り、風呂釜を洗い、髪を乾かして、横になった。ただ淡々とそれらをこなしていった。暗くした部屋は、全てを吸収するような隅々まで塗りつぶされた黒で染まっていった。私の心は灰色のままだけれど。