二百三十五日目
今年の仕事もやっと昨日で一段落、今日から一週間は年末年始につき会社は休みだ。この時期は毎年実家に帰って家族と過ごしていて、今年も今日から帰省するつもりだ。
去年や一昨年はこの数日でしか家族に会うことは無かった。けれど、今年は五月に一ヶ月近く帰っていたし、私がアパートに戻ってからも頻繁にメールでやりとりしていたからか、久しぶりという感覚は無いな。なにより雪がちらつく日もあるような寒い中一人年を越すよりも、家族のいる暖かい家で過ごす方が寂しさを感じないしね。
それにしても、今年は雪積もってなくて良かったとほっとする。去年は数センチしか積もって無かったけれど、スリップが怖くて時間が長くかかっちゃったから。
袋から最後の食パンを取り出してトーストするとさっとほおばる。その後二、三日分の着替えやタオルなどの荷造りを終えたら、家中の戸締まりを確認する。家の中を行き来している内に、そういえば大掃除出来てないなと思い出したけれど仕方無い。年明けの土日にでもやろうか。
玄関の鍵もしっかり施錠したところで、荷物を持ち直す。ちょうどその時、二つ隣の西野さんが前を通って挨拶をしてきた。
「あら茅枦さんおはようございます。今年も帰省ですか?」
「おはようございます。年末ですし実家に帰ろうと思って」
「偉いねぇ。私なんてもう何年も帰ってないわ」
「そうなんですか」
「ま、そんなことより気を付けていってらっしゃいね」
「ありがとうございます。では、よいお年を」
「よいお年を」
一駅分電車に乗り、アパートを出てから約十五分でレンタカー屋に到着した。向こうが覚えているとは思わないけれど、カウンターにいる店員は五月に借りた時と同じ人だ。
「いらっしゃいませ」
「ネットで予約した茅枦です」
「予約の方ですね。少々お待ちください」
店員はパソコンを操作している。意外と声高めな人だったんだな。
「予約番号~番の茅枦様ですね」
「はい」
「変更がございませんようでしたら、お支払は~円です」
財布からお金を取り出す。ちょうどぴったり払えた。硬貨も減ったしちょっと嬉しい。
「では、こちらが車のキーです。五番の車ですね。返却時には充電なさらなくても結構です」
キーを持って店舗を出る。トランクに荷物を乗せたら私も車に乗ってエンジンをかける。モーターが静かに周りだして、アクセルを踏むとタイヤが地面と擦れる音がして前に進んだ。
年末だからか道はそれほど混んでいなかった。けれど勿論聞こえなかった時よりも多くの車が走っているわけで、対向車線をサッと過ぎていく車の音が自然と耳に入ってきて、安心して運転できる。
数ヵ月振りに運転の感触を思い出してきたところで、ラジオを付ける。ラジオDJが冗談を言って笑っていた。釣られて私も可笑しくなってくる。
声が変わって次の番組が始まって数分すると、ちょうど実家近くのレンタカー屋に到着した。忘れずにトランクから荷物を取り出して車を返すと再び徒歩で家へ向かう。
周囲の山々の景色が幾分か淋しく感じるのは落葉しているからか。冷たい追い風に背中を押され、自然とはや歩きになる。タートルネックなので首元は平気だけれど、手袋もしてくれば良かったなと思うほど寒い。アパートの方とそんなに気温の差は無いと思うんだけどな。
茅枦家のチャイムを押すと、玄関からお母さんが顔を覗かせた。
「寒かったでしょ。おかえりなさい、篠樺」
「ただいま、お母さん」
「お、篠樺帰ってきたか」
奥から低くて優しいお父さんの声がした。
「姉ちゃんか、お帰り」
しゅんの声も聞こえる。部屋に荷物を置きに行くのは後回しにして、二人がいるであろう居間へ直行する。二人ともイスに座ってお茶を飲んでいた。空のお皿とフォークが置かれているから、きっとおやつを食べていたんだろう。
「お父さん、しゅん、ただいま」
半年振りだと案の定目立った変化は無い。強いて言えば、しゅんの茶髪の髪型がロング気味になったことくらいかな。
「お父さんが会社でもらってきたらしいんだけど、篠樺もパウンドケーキ食べる?」
お母さんが私にお茶を持ってきながら尋ねた。
「食べる!」
すぐにお母さんは冷蔵庫からお皿を取り出して持ってきてくれた。ふっくらしたシンプルなブラウンのケーキだ。温かいお茶を一口飲んでから食べてみる。しっとりしていて、甘過ぎない味だ。
「篠樺、仕事はどうだ?」
「同時振動無感期の間中はあまり無かったけれど、最近は酷く忙しかった」
"同時振動無感期"とは五月十九日から九月十八日までの聞こえなかった期間の正式名称のことだ。確か九月二十日辺りで政府から発表されたような気がする。アメリカが発表した
"simultaneous vibration insensitive term"
を訳しただけだけど。
「昨日まで仕事だったのか?」
「八時まで会社にいたよ」
「そりゃあ大変だったな」
「俺は二十七日で仕事終わりだったのに」
お茶を注いできたしゅんも会話に混ざる。三日前から休みなのは羨ましいな。
「早いのね。しゅんの会社は順調なの?」
「俺の会社も、あのときは仕事全然無かったさ。俺は変わらず雑用やってたけど」
「そっか、散々な社会人一年目だったね」
「そうでもねえよ」
「なら良かった」
「二人とも真面目に社会人やってるんだな。父さんは安心したよ」
一段落したところで、食べかけのケーキにまた手をつける。お母さんもイスに座ってお茶を飲んでいた。台所からは香ばしい匂いが漂ってくる。そうか、お節料理を作っているんだ。今どき珍しいかも知れないけれど、地元では買わずに作っている人が多い。
「篠樺は風邪とかひかなかった?」
「秋口にひきかけたけど大事には至らなかったよ。ちゃんと眠れたし」
薬飲んだら三日程で喉の腫れもひいたし、会社休むほどじゃ無かったからね。
「篠樺が眠れない時って言ったら相当な病気よね」
「姉ちゃんすぐ寝るもんな」
「そ……そんなことないよ」
自分で分かっていても、人に言われると良い気はしないや。
「全く誰に似たんだか」
「俺か?」
「さあ、どうかしらね」
お父さんは何か言いたそうに口を開きかけたけれど、黙ってしまった。……ごめんなさい。
「三人こそ元気だった?」
「みんな元気よ。聞こえるようになってからは、もううるさい位に」
「うるさいってなんだよ」
怒っているように聞こえるけれど、しゅんは笑顔だ。
「同時振動無感期の間はあまり話さなかったから、賑やかで楽しいって言っただけよ」
「確かに、毎食毎食無言で食べるのはどこか哀しかった」
「必要最低限だけ筆談していただけだもんな。今考えると、よく生活出来てたよな」
「半ば聞こえない生活にも慣れかけてたし」
「半年にも満たなかったのに、何年も聞こえていないようだったな」
「人間の適応能力って高いのね」
お母さんは一旦お茶を飲んで、一息ついてから続けた。
「まあ、お母さんは今年もこうして四人共健康で集まれたことが何より嬉しいわ」
「そうだな。今は四人だが家族全員が顔を見合って話せる、俺はこんひとときが一番幸せだよ」
みなそれぞれ考え込んでいるのか、会話はここで途切れた。私も今年あった、信じられないようなあの日々を思い返していた。
あの時真っ先に頼ったのはやっぱり家族だった。無性に寂しくて、心細くなった私を待ってくれていた。
お父さんが席を立ったのを皮切りに、二人も腰を上げた。私も食器を片付けに台所へ行く。振り返ってようやく、荷物の事をすっかり忘れていたと気付いた。荷物を部屋まで持っていく。パジャマを持ってきたか自信が無かったので中身をチェックしてみたけれど、嬉しいことにちゃんと入っていた。
ふと顔をあげて机を見てみると、何も置いておらず、がらんとしていて、それでいてきれいなままだ。しかしほこりが積もっているのが気になる。触ってみると、指の痕がくっきり残る。使うわけじゃないけど、特に決まったやることも無いし、掃除しよう。
そう思って、洗面所から濡らした雑巾を持ってきた。軽く拭いただけなのに、雑巾の四分の一が真っ黒になってしまった。濯ぐ時も、水は暫く濁っていた程だった。
その後はお母さんに呼ばれてお節料理を一緒に作った。小さい頃から作っているから、お節料理は正月と言うより年末の物のように感じてしまう。今年も、もう明日で終わりなんだよね。随分と長かった気がしちゃうや。
作っている間にすっかり日も暮れて、四人揃って談笑しながら夕食を食べる。明日は今頃年越しそばを食べているんだろう。「今年は海老天付けてよ」ってしゅんが頼んだので、明日みんなで買いに行くことになった。
食後は少しテレビを見たりお風呂に入ったり、話したりした後、疲れていたし寝ることにした。
今年の残り一日――明日も、そして明後日から始まる来年も、こうやって楽しくて、明るい日々が過ごせますように。
この話で、終わりです。
あとは、一話閑話があって完結になります。