百四十日目
あれから二、三日は会話するのにも苦労していたけれど、次第に感覚は取り戻せてきて、一週間も経てば聞こえなかった四ヶ月間が若干嘘のように思えてくる程、生活に支障は無くなってきた。
貿易もすぐ再開されたし止まっていた交通機関も今は通常運行だ。ラジオやテレビは放送までにまだ時間がかかるだろうけれど、ニュース番組なら何本かやっている。その内買い物も不自由しなくなるだろうし、音楽やスポーツなどだって復活し出すだろう。そういえば、いつだったかニュースで今日から学校が再開するって報道してたな。
勤めてる店のカルマーシだって来週から六店舗全て営業再開させる予定だ。それに従い、当然私の仕事も何倍にも増えてしまった。まるで今まで激減していた仕事が一気に襲ってきたかのようだ。
今日も家を出る足取りが重くなってしまう。それでも仕事が無くて働けないよりはマシだと思って、駅に向かってとぼとぼ歩く。
何でいつもより早く家を出たんだろうか忘れかけていた時、あぁ煎餅を買いに行くんだと思い出した。会社に置いておくお菓子が切れてしまったので、何か適当に買ってきて欲しいと頼まれていたんだった。夏になぎの家に行った際持っていった煎餅屋が、朝早くからやっているからまたその店に行く。
駅の商店街は朝だから開いている店が少ないんだろうけれど、以前来た時より活気がみなぎっているようだ。シャッターに休業の旨を書いた貼り紙が無くなっているからかな。ここも営業再開しだしたんだね。
少し進むとやはり漂ってくる醤油の焦げる香ばしさ。良かった、やっぱり開いているんだ。暖簾をくぐると、どこか懐かしいような優しい声が迎えてくれた。
「いらっしゃい」
エプロンをしたおじいちゃん店主だ。また同じ詰め合わせを今度は二箱手にとって、会計に持っていく。
「二箱でちょうど三千円だね」
長年やっていて流石に値段は覚えているのか、言ってからレジを操作している。お金を払うと、煎餅を柔らかな紅色の紙袋に入れて手渡してくれた。受け取って店を出ようと後ろを向きかけた時、
「ありがとうございました」
と聞こえた。そして、以前買ったときもしていたように、左手の甲を上にしてその上で包丁で切るように手が動いた。まだいつもの電車の発車時刻まで時間があるし、この際だから聞いてみようと思って店主と向き直る。
「すみません、その手ってなんですか?」
「ああ、これのことかい?」
そう言うとさっきの動作をもう一度繰り返してくれた。
「そうです。気になっちゃって」
「これは"ありがとう"を意味する手話だよ。あの聞こえなかった時に地域サークルで手話講座をやろうってなってね、参加して覚えた手話を忘れないように日常でも使ってたら、つい癖になってしまってな」
「へぇ、手話だったんですか。知らなかったです」
「お嬢さんも、この手話は覚えて損は無いかもしれんな」
「感謝は大事ですものね。こうでしたっけ?」
紙袋を一旦カウンターに置いて、私も見よう見まねでやってみる。左手は手の甲が上だったはず。
「そうそう、合ってますよ。それで表情も付いたら完璧だ」
「"ありがとうございます"良いものを覚えられました。では」
「こんな爺の話に付き合ってくれてありがとうね」
さて、買い物も済んだし電車に乗りますか。何時に帰れるか分からないけど、今日も頑張れる気がしてきた。
光るのを止めてしまった床を踏んで、到着した電車に乗り込む。
会社に着いて、人事部の中園部長に頼まれていた煎餅と領収書代わりのレシートを渡す。
「煎餅か、すまないね頼んでしまって」
「いえ、いいんです。通勤途中にありましたし」
「そうか。月末には多分お金返せるだろうから。給料と一緒の方がいい?」
「では一緒でお願いします」
「わかった伝えとく」
さて、午後の会議までにどれだけ仕事終わらせられるだろうか。パソコンの立ち上がったのでさあ取りかかろうと思った時、電話が鳴った。よりによって何で私の所に来るんだろうか。そう思いつつも声に出さないように気を付け電話に出る。
ランチを食べに行って早めに戻って来ると、会議室の準備をする。新商品を作るかどうかの会議だ。まずここから話し合うのは煩わしいけれど、本来の仕事が出来るだけまだ嬉しいと思った方がいいのかな。
時間迄に開発部の五人が揃ったので羽崎部長の進行のもと各自意見を出し合った。
「まだ集客が見込めないのでは」
「価格にこだわったメニューならどうか」
様々な意見が飛び交い、書記の矢衣さんがそれらをホワイトボードにさらさらと、けれども整った字で書き連ねていく。
一時間半に及ぶ会議の結果、新商品開発は見送ることに決定した。しかし材料は出来るだけ元の業者に戻していこうということになった。常連客には材料の変更が分かってしまったようだったのだ。
会議の後は、デスクに戻って仕事の続きだ。ひとつ終わってもまだまだある。今日中に自分なりのノルマの四つは終わらせなければ今週が辛くなる。
結局八時にはなんとか仕上げられたので、伸びをひとつしてからパソコンの電源を落とす。今日も帰ったらさっさと寝よう。
この"ありがとう"の手話は実際の日本手話です。みなさんも覚えてみてください。