百三十二日目
頭の側で目覚ましが振動したので、寝返りを打って止めようとした。しかしどうも首が回らない。どうやら寝違えてしまったみたいだ。
首を極力動かさないよう固定して、ゆっくりと起き上がる。そのまま窓の外を見ると、どうやら雨が降っているらしい。昨日の天気予報では昼頃からと伝えていたのにな。
今日はつくづくついてなさそうだ。
起きるのに手間取ってしまった分、てきぱき朝食作りに取りかかる。けれどここでも、目玉焼きに味付けをと背後の棚から塩コショウをとろうとして首を思いっきり回してしまい、軽く悲鳴をあげそうになった。
首をさすりながら食べ、着替える頃には痛みも和らいでいた。
携帯等をしまったバックを持ち、しっかり施錠したことを確認すると足早に駅へと急ぐ。
電車の到着が一分ほど遅れていたようだったので、無事乗車することができた。
車両の揺れに身を任せることきっかり十六分、流れと共に電車を降り、光を発する床を踏んで改札へと進む。
ICカードをかざして出ようとした時、目の前でバーが閉じた。出ていってしまった前の人のカードが上手く認識出来なかったらしい。隣の改札に移る訳にもいかず、赤く点滅する読み取り部と暫くにらめっこして直るのを待った。
会社に着き、仕度を終えてデスクに行くと、先週羽崎部長に提出していた資料が置いてあった。捲ってみると早速二枚目から赤ペンででかでかとバツがしてある。一番時間がかかった八枚目にもバツがしてあって大分凹む。けれどやるしかないので、パソコンの電源を入れて資料を作り直す。少しイラついているからか、キーボードを叩く手が力んでしまう。
それでも一時間ほど格闘し、小指が若干痺れてきたところで作り終えた。プリントした紙を取りに行く為、腰を上げる。
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時刻は10時31分2秒、また何の前触れもなく、世界の様子が一変した。あるはずなのに無い同然だったある"モノ"が、音を伴って再び姿を現した。
ある人は遅めの起床をした時、またある人は掃除機の電源を入れた瞬間、車のアクセルを踏もうとしていた人もいるだろう。
けれどもその殆どが、待ち望んでいたこの衝撃を苦痛とさえ感じただろう。
篠樺もその内の一人だった。
イスをしまい、数歩進んでいたところだった。言葉では形容し難い、割れんばかりの耳鳴りに襲われ、思わず近くのデスクに手をついてしゃがみこんでしまった。耳からの四ヶ月振りの膨大な情報の処理に脳が追い付けず、頭痛すら感じる。
暫くそのままの体勢をとって痛みに耐えていると、社内のあちこちから叫びのような、唸りのような不思議な音があがりだした。それが人の声だと解るまでに数十秒を要した。
そうか、声ってこんな風に聴こえるものなんだ。でも何と言っているのかは聞き取れない。誰の声かすらよく分からない。
「あ」
私も声を発してみる。久し振りに口を開けて声を出したので、果たしてこれが『あ』の発音になっているのかどうか、自信は無い。
頭痛の中で脳内に響いたのは確かに自分の声なのだけれど、こんなに震えていたんだっけ。こんなに騒々しいものだったっけ。
たった四ヶ月の間で、自分の声色も、出し方も、すっかり忘れてしまったなんて。
十数分程経つと耳鳴りも頭痛もあらかた収まってきた。ようやく自分が何をしていたのか思い出して、プリンターから既に冷えた紙を手に取り、机を伝って自分のデスクに戻る。
イスに座ると微かに軋む音がする。目の前のパソコンのモーター音だって聞こえる。印刷完了を示すポップアップを消すときにもちゃんとマウスからクリック音が聞こえる。
聴こえるんだ、私の周りはこんなにも音が溢れていたんだ。白黒になった景色を、鮮やかな色で塗り直したようだ。
突然フロアのどこかから感極まった声が上がり、そのまま周囲へと伝染していった。社会人らしからぬ行為だけれど、今日なら赦される気がして、私もつい加勢してしまった。そして社内が笑いに包まれる。久々に一体感を味わえた気がする。
その後は羽崎部長にきつく睨まれたので、慌てて資料を渡しに行く。羽崎部長が無言で資料に目を通す時間は嫌に長く感じたけれど、今度は無事にOKと言って(・・・)もらえた。手も付いていたし、『OK』くらいなら何とか聞き取れるみたいだ。
十八時の退社時間になると、終わった人から「お疲れ様でした」と言い、帰っていく。声が大き過ぎたり、口が上手く回らなかったりする人もいるけれど、それらを除けば四ヶ月前までのいつも通りの流れだ。
私も流れに乗って帰り支度をする。電車は、朝とは別の幾らかの遅延はあるようだけれど動いているから問題なく帰れそうだ。
「お疲れ様でした」
私もそう言って、会社をあとにした。ビルを出ると、車の走行音、人々の足音、話し声、それらが一気に流れ込んでくる。足音を発する中に混じって駅まで歩く。
駅が近くなるにつれ、電車が通り過ぎる音も聞こえてくる。
改札を通る時、ICカードを認識した証として、電子音を発し、バタンとゲートが開いて、私を通してくれる。
電車がホームに入る時だって、ドアの開閉時だって音が知らせてくれる。相変わらず床は光るけれど、これからは足下にばかり注意を向けなくていいんだ。
走り出した電車は、体が感じる振動に合わせてガタゴトと鳴る。耳障りなブレーキをかける音でさえ、今の私には嬉しいものだった。
一駅過ぎてから、ニュースを確認しようと思い立ってネットを開く。
世界中で、あの不思議な現象は見られなくなっているそうだ。
どうやら世界中で、この現象をどうにか解決させようと、研究者や科学者、果てには霊能力者なんていう人まで登場し、様々な策を試していたようだ。そのどれかが上手くいったのか、はたまたどれも意味を為さなかったのか、元に戻った訳だけど、皆前例の無いこの現象を解決した一人として名を残そうと躍起になっていた。
けれど本人達以外の、私や他の人達にとっては誰がやったかなんて、今は些細な問題に過ぎなかった。だって聴こえるようになったんだから。
最寄り駅の名前が聞こえたので、いったん思考を停止させる。
線路沿いを歩きながら、今度は夕食について考える。思い付かぬ内にアパートに着いてしまった。鍵を差し込んで回すと、ガチャンと良い音がして鍵が外れる。ドアを開けると、微かに電化製品の発する電気的な音が出迎えてくれた。
夕食を作る時も、入浴時も、洗濯する時だって、絶えず何かしらの音が耳に入ってくる。
寝る時まで聞こえる、アパートのすぐ側を通る電車の音を、騒がしいBGMとしてでは無く子守唄代わりにして、安心して寝る日がくるとは思ってもみなかった。