百二十一日目
まだ日中は十分に暑さの残る中、今日も家を出て出勤する。朝晩が大分過ごしやすくなったことがせめてもの救いだ。今週に入ってから会社のエアコンは使用禁止になってしまったので、衣類で調節するしかない。でもこうでもしないとやりくりしていけない程に切羽つまっているのは皆分かっているから文句は言わない。雑談自体が減っているから話を聞かないだけかもしれないけれど。
会社に着いたら上着をロッカーにかける。汗をかく前に脱いでしまおう。
デスクに移動してパソコンを立ち上げると、普段通りに新着メールを確認する。一通も来ていなかったのでメーラーを閉じ、一度画面から顔を上げると、ちょうどふみちゃんが出勤してきた所だった。
いつもふみちゃんは私より出勤早いのにな遅いな、と驚く。しかもなんと、後ろから矢衣さんが入ってきた。二人とも携帯を手にしている。それぞれ別れてロッカーに荷物をしまうと席に着いた。
仕事開始まではまだ少し時間があるし、気になった私はふみちゃんがパソコンを立ち上げたのを確認してから、メールしてみた。
『おはよう!朝は矢衣さんと一緒だったの?』
ふみちゃんは恐らくメールを読んだのだろう、私の顔を一瞥してからキーボードを打ち始めた。暫くして私のパソコンにメールが届く。
『朝というか、今、あたし矢衣先輩のアパートに住ませてもらってるんだ』
えっ?
斜め上を行く返信に、思わず声を出してしまった。
その後、パソコンを触っていた他の人達が、だんだんとこちらを驚きを持った目で凝視してきた。私の声が聞こえた訳ではないし何故だろう。その問いは、さっきのメールを再読したらすぐ解けた。
なんとふみちゃん、返信を社内一斉送信に設定してしまってたのだ。まだ気付いていない様子のふみちゃんは、先輩を思い出しているのかニコニコしながらキーボードを叩いている。
これは教えてるべきなんだろうけど、どう伝えようか決めあぐねていると、顔を赤らめつつ慌てた矢衣さんがやって来て、ふみちゃんを連れて社外に出ていった。
羽崎部長が私を睨んできたので、心の中でふみちゃんに謝罪して仕事を始めることにした。私のせいな部分もあるし、帰ってきたらちゃんと謝ろう。
今日もまた定時で帰れたので、ふみちゃんとなぎの三人で駅まで一緒に帰ることにした。駅に着いて別れるまで、ふみちゃんは耳を赤らめてずっと俯いてた。当然朝の事はなぎにも伝わっていたのだろうけれど、その様子を見てか一切触れなかった。普段のなぎなら質問攻めにしていただろう。果たして私と別れてから、二人が電車内でどんな話をしたのかは知らないけれどね。
あんなに暑いと思っていたのに、夜風は既に秋を纏っていて少しばかり肌寒い。小さなくしゃみをひとつしながら、風邪に気を付けなくちゃと歩調を早める。
冷えた手先よりも更に冷えきったドアノブを回して玄関に入る。そして手探りでスイッチを押し、明かりを点ける。夕食を作るべく手洗いとうがいをさっさと済ませるとキッチンに移動する。豚肉あるししょうが焼きでも作ろうかな。
食器も体も洗い終わってさっぱりしてからソファーに座って、リモコンで"テレビ"のスイッチを入れる。今月から一局だけ放送再開したのだ。
と言っても一日何度かニュースを放送しているだけなんだけど。しかもキャスターなど人は出演しておらず、文字や写真等のみで、パソコンで見る物と大して変わらないような事しかやってない。字幕付きで今までの番組でも放送すれば楽しめると思うんだけどな。
宣伝は無いので、二十分ほど流すように観ていたら、興味深いニュースを見つけた。テレビ画面に映された言葉は『初めは異変に気付かなかった、翌日になって外に出てみて初めて違和感を持った。だって私には聞こえていたから』
初めとは勿論五月十七日の聞こえなくなったあの時のことだ。しかし、これまでこの『鼓膜が振動しなくなる』現象がみられない人なんて一人もいなかった筈。一体なぜなのかと画面が切り替わるのを今かと待っていた。次はこう書いてあった。
『聴覚障がいを持つこの方は、手術をして人工内耳という補聴器具を右耳に装着していて、これを通じての音は聞こえていたそうです。鼓膜を介さず直接内耳に電気信号を送る聞き方だからでしょう』
よくは分からなかったが、つまりこの人も現象の例外では無いということか。
画面はまた切り替わった。
『でも今は着けていません。私は皆と同じ生活がしたいだけですし、自分だけ聞こえていても街から音が消えかかっているので着けてないんです』
この人は今までずっと、聞こえない事の方こそがあたりまえとして生活してきてたんだよね。世界中が同じ苦しみを味わう前から。
様々な苦難を抱えながら生きている人がいることを、改めて感じさせられる、そんなニュースだった。
その後も観ていたけれど、さっきのニュース以上に関心を引く話題も無さそうだったので、天気予報だけ確認してスイッチを切った。
不快に思われた方がおりましたらすみません。