九十四日目
ちょっと寝過ぎたかな、と起きて時計を見ると八時過ぎだった。良かった、そこまで遅く起きた訳でも無いや。
今日は午後から集まって海に行く。二人とも賛成してくれたから、夕陽を見ようと言うことで午後からにしたのだ。午前の内に掃除や洗濯を済ませておかなくちゃ。
着替える前に朝食を作ろうと思い、メニューを考える。ジャガイモが結構あるのでポテトサラダにしようかな。昨日炊いておいたご飯の残りもあるしサラダだけで良いや。
キュウリとニンジンとタマネギを適当な大きさに切り、その間にレンジでジャガイモを蒸かしておく。切り終わるのと温め終わるのが同時くらいだったようで、ジャガイモを取り出す時に、鳴っているであろう電子音と共に0の文字が点滅していた。冷蔵庫にしまってあった、茶碗に入れておいた残りのご飯をレンジにかけ、ジャガイモが潰をしてから冷めるのを待って、マヨネーズで全てを軽く和える。少し醤油を垂らして完成だ。
作るのにかかったのと同じくらいの時間で食べ終わる。そして皿を軽く洗って水を切ってから、水分をタオルで拭き取り、棚に片付ける。風呂場に行って洗濯機のスイッチを押す。
以前一度だけ洗濯機のスイッチを押し忘れていて、終わった頃に再び見に行き焦ったことがあってから、作動して回り出すのを見届けてからその場を離れるのが習慣になった。今日も洗濯機の前で二分ほど待ってから風呂場を出る。
リビングに戻って時間を確認しておくと、もう九時を半分以上過ぎていた。いい加減パジャマではまずいと思い、寝室にあるクローゼットから服を何着か取り出してベットの上に並べてみる。マリン柄のTシャツと迷ったが、膝下まである白地に青い横ボーダーのワンピースと、薄手のクリーム色のカーディガンを羽織ることにした。
掃除機もかけ終わり、洗濯物を部屋干しにしたところで、丁度出掛けようとしていた時間になった。日焼け止めを塗ってから化粧をする。そして、仕事用のバックと中身を入れ換えて、大きめのタオルを入れ、フラットシューズを履いて玄関を出る。本当はサンダルを履いていきたいところだけれど、運転しなきゃいけないから仕方無い。
ゆっくり歩いて、まずは駅に着く。会社勤めの人は大概休みが明けたところなので、平日の昼間に私と同じ電車に乗っているのは、年配の方と学生が殆どだ。
学生はまだまだ夏休み真っ最中なのかな。あぁ、そうかまだ学校は再開していないんだった。国は、夏休み明けから授業を再開すると発表していたけど、教える方法は板書が主になるんだろうか。
三分ほどすると、最寄り駅よりも少し大きなホームに停車した。降りるとレンタカー屋に直行する。以前と同じくネットで予約していたので、さほど時間はかからなかった。
外へ出て、ナビ付きの銀色の電気自動車に乗り込むと、なぎの家まで走らせる。実家のそこそこ車の多い通りと同じくらいの交通量で、信号では二、三台の車が止まるほどだ。
車で行くのは初めてだったので、途中曲がる道を一本間違えたことはあったけれど、待ち合わせの一時半前にはなぎの家の前に着くことができた。ふみちゃんとなぎは、既に二人で家の前で待っている。なぎは助手席の後ろ、ふみちゃんは私の後ろに二人で座って出発する。
高速に乗らなくても十分空いているので、ナビに従いながら下道をゆっくり走る。
音声案内は勿論の事使っても意味が無いので、こまめに画面を確認しないと合っているか分からないので、馴れない運転が更に不安になる。でもバックミラーに写る二人まで不安にならないよう努めよう。ラジオや音楽でもかけられれば、少しは落ち着けるのにな。
一人ナビを見ながら時間にすら目を向けないまま運転を続けていると、国道に入るよう指示された。しばらく道なりなようで、安堵してハンドルを握っていると、窓越しに青い海が見えてきた。波打つ海に、空には入道雲が浮かび、さながら残暑見舞いで送られてきたポストカードを眺めているかのようだ。バックミラーを覗くと、二人も助手席側に寄って窓の外を眺めていた。
進むにつれ標高は下がっていき、海岸線がすぐ目の前に見えてくる。
そして、目的地の海水浴場の砂浜が見えてきた。泳ぐにはちょっと遅い時期なせいもあり、海で泳いでいる人は片手で数えられる程しかいない。海の目の前にあった半日七百円の駐車場に車を停める。何処にも寄らず運転していて会話できなかったから、これでやっと話が出来る。
『なぎ、ふみちゃん着いたよ。運転大丈夫だったかな?』
『あたしは問題ないよ。運転ありがとう』
『遠出したのが久しぶりだったからちょっと酔ったけど、多分平気』
バックからペットボトルを取り出してお茶を飲むなぎは、確かに気分がすぐれないようで、家に迎えに行ったときより僅かに血色が悪くなっていた。
『荒かったよね。ごめん。少しここで休んで、なぎが良くなったら行こう。無理しない方がいいからさ』
『ありがとう』
夕方に近いのに今だ燦々(さんさん)と照りつける太陽に日焼け止めを塗り直し、車を降りる支度をする。そして換気をしようと窓を開けた途端に、車内が海の潮の匂いで満たされる。続いてなぎも窓を開けると、少しべたついた風が勢い良く吹き抜けた。
『潮風気持ち良いね、やっと海に来たって感じする』
ふみちゃんからこんなメールが届いたが、確かにこの潮風を感じ、何故だかやっと海に来た実感が沸いた気がする。目の前の景色は数分前からずっと海だったのに。
二、三分フロントガラス越しに海の波打つ様を見ていた時に、『吐き気も収まったしもう平気。ふみちゃんもしのちゃんも待たせてごめん』とメールが来たので、ドアを開け外に降り立つ。
四時だというのに外は海から反射して更に日差しが眩しく、思わず目を細めてしまうほどだ。しかし、髪が持ってかれて顔が傾いてしまいそうな程強い風なので、暑さはさほど感じない。カーディガン着てきて良かったかも。
慎重に車から降りたなぎは、手に持っていたつばの大きな麦わら帽子を頭に乗せた。日除けの、腕まである厚手の手袋をしている姿は初めて見たな。
ふみちゃんはたいうと、プリントTシャツに七分丈のジーパンを履いている。ショートカットのふみちゃんだからこそ似合う服だと思う。
道路を渡り、階段を降りるとすぐそこは砂浜が広がっていた。歩く度、靴が白い砂に埋もれていく感覚が心地よい。あ、先に走って行ったふみちゃん転けてる。急いで駆け寄って大丈夫かどうか聞いてみたけれど、怪我は無いようだから良かった。
ビーチには、見える範囲ではパラソルが二つほどポツンとさしてあるだけで、海の家すら見当たらない。お客が来ないことは私たちも承知しているからちょっと同情してしまう。ましてや期間限定の営業だろうに。
三人で並んで歩いて進むと、土が湿って茶色くなっている程海の水に近いところまで来た。不規則に打ち上げられては引いていく波を、立ち止まって眺める。会社にいる時とは全く異なる世界に入り込んだかのように、時の流れがゆっくりとしたものに変わった気がする。時々海草なんかを運びながら、白い波は絶えず形を変える。
もちろん今までも何度か海には来たことはある。記憶の中の海は、もっと安らかな、とても落ち着く印象があった場所なのに、目の前の光景はどことなく異質で、不快感ですら覚える。
ここまでの違和感は何のせいだろうと分かるまでに時間はかからない。
そう、波の音が抜けているのだ。
寄せてくる波も、波と波がぶつかり合って飛沫をあげているのも、ザァァともザブーンとも聞こえない。実際には見たこと無いけれど、無声映画を見ているようだと思ってしまう。
濡れないようにタイミングを見計らって近づき、確かめるように水を触る。水はひんやりと冷たく、少し舐めてみた人差し指はやっぱり塩辛い。
慣れていたようで馴染めてなんかいなかったこの無音。どこまでも続くような広い大洋の何処からも、音を聞くことは出来ないのか。
ふと隣に気配を感じたのでそちらを向いてみると、なぎが顔を俯かせて座っていた。そっか、渚の好きな"海の音"が聞けないんだもんね。こんな時にかけてあげる言葉が見つからなかった私は傍に寄って、なぎの背中をただやさしく撫でた。
いつの間にかふみちゃんも寄ってきて、二人で何度もなぎの背中を撫で続けた。
なぎの身体の小さなゆれが収まった頃、なぎは突然立ち上がって大きく息を吸い込むと、人がいない方に向かって、大声を出して何かを叫ぶような動作をした。
そうしてこちらを振り返ったなぎの顔からは、さっきまでの一切の翳りが消え去っていた。潤んだ目を細めて、口元には笑みが浮かんでいる。
すると今度は、丁度打ち上げられてきた小枝を拾って、砂に文字を書き始めた。二人で寄って文字を読む。
『しのちゃん ふみちゃん
今日は海につれてきてくれてありがとう よくわかんないけどなんだかすっごく元気でたよ もう大丈夫』
そっか、それなら良かったよ。なぎから小枝をもらって、私もでかでかと書いてみる。
『なぎが元気になれたなら良かったよ』
『なぎはやっぱり笑顔が似合うね』
二つ目はふみちゃんが書いた。そして夕陽が海を朱に染めるまで、足だけ海に入ったり、砂に絵を描いたり、人が少ないのを良いことに子供のようにはしゃいだ。
海を輝かせながら沈んでいく太陽を車から眺め、ふみちゃんの運転に揺られながら帰路につく。なぎの家に着くまで、後部座席でずっと会話をしていた。
「もう仕事復帰できそう」って言ってたし、もういつも通りのなぎが戻ってきてるから大丈夫だろう。
駅でふみちゃんと運転を交代して見送ったら、車を返して家に帰る。私が夕陽を見たいって言ったから帰宅できたのは九時近くと大分遅くなってしまったけど、なによりなぎが元気を取り戻してくれたのなら良かった。