五十日目
今日はふみちゃんと、なぎの様子を確認しに行くんだよね。なぎに何も無いといいんだけど。思わず嫌な想像が頭を掠めてしまう。いや、中学高校と皆勤で、風邪も滅多にひかないと言っていたなぎに限って大丈夫だろうと振り払う。
二時になぎの家の最寄り駅の改札を出たところで集まることになっている。大して大きな駅じゃなかった記憶があるから、すぐ会えるだろう。そう思って二十分前に着く電車で行くことにした。ちょっと時間が長いけれど電車が無いから仕方が無い。ふみちゃんは反対方向の電車だから、もっと良い電車があるのかもしれない。
朝食を済まし部屋の掃除が終わったところで、お土産を買ってないことに気づいた。突然訪問する形になってしまうので、なぎは実家で暮らしているから、両親に渡せるものがあった方がいいだろう。駅の商店街に確か煎餅屋があったから買ってから行こう。開いていると良いんだけど。
短針が頂点を十八度ほど過ぎた頃、軽く化粧を済ませてアパートを出る。途中でいつかの三毛猫をまた見かけた。私を見るなりトコトコと走り去ってしまった。どうも相性が悪いらしいね。
商店街はシャッターの鉄色が減ってきていた。何で毎日通っているのに気付かないんだろうと考えてみたら、通勤時間にはまだ店が開いていなかったことを思い出した。それはいいとして、問題は煎餅屋が開店しているかどうかだ。確か奥の方だったとうろうろしながら歩いていると、醤油が焼ける香ばしい匂いがしてきたと思ったら、目の前の店が煎餅屋だった。暖簾をくぐって店内に入り、詰め合わせを一箱持って、優しそうなおじいちゃんがいる会計まで行く。終始笑顔で顔をしわくちゃにしていたおじいちゃんから箱を入れた袋を受けとると、去り際に軽く頭を下げながら左手の甲を上にしてその上で包丁で切るような動作をしていたのが目の端に映った。あれは何だったのだろう?よく見えなかったけれど、振り返った時も笑っていたから変な意味じゃないんだろうな。
商店街を引き返し、駅に向かう。電光板には、ちょうど調べた時刻の電車が表示されていた。乗り遅れないように小走りで階段を上がる。今日はヒールを履いていないから苦ではない。
土曜の昼過ぎだからか座ることができ、それから約四十分間電車に揺られていた。
目的の駅は、記憶通り各駅停車でしか止まらない小さな駅だった。今はどこの路線も各停の電車しか運行していないので、通り過ぎる心配は無用だ。改札を出てふみちゃんを探してみたけれど、それらしき人影は見当たらなかった。その代わり本屋があったので、涼むのも兼ねて寄って待っていることにした。窓側にいればちょうど改札が見える。
ところが反対方向の電車から降りてきたとみられる数人が改札から出てきても、肩にかかる位のショートヘアのふみちゃんは現れない。携帯を取り出してみてもメールは届いていなかった。一応二時まで待ってはみたけれど、外に居ても見付けることは出来なかった。この駅改札は一つしか無いのにな。連絡を取ろうと携帯を取り出すと、ちょうど着信を示すランプが点滅していた。ふみちゃんからだ。
『しのちゃんまだ着かないのかな?二時で合ってるよね?』
あれ、もう着いてたの?取り合えず
『着いたけれどふみちゃんが見当たらないんだよね』
と返信を打つ。すぐに返ってきた返信には、目を疑うことが書いてあった。
『おかしいな。会社の駅で良いんだよね?』
そういうことか。以前もふみちゃんが予定を一日早く考えていて、電話越しに慌てたこともあった。もう天然なんだか知らないけれど同級生として恥ずかしいよ。メールの送信履歴にはちゃんと駅名まで書かれた文面が残っているのに。
無事に一本後の電車で合流でき、バスに乗って、坂田と書かれた表札の家に辿り着いた。表札の横に掛かっている白いチャイムを押してみる。ところがここでも困ったことが起きた。音が聞こえない訳だから応答のしようがない。幸いカメラがあるのだけれど、それも誰かが受信機の画面の表示に気付かない限り駄目だ。そんな考えが通じたのか、二人で顔を見合わせ困っていると、なぎの母親がドアから出てきてくれた。バックからさっとメモ帳を取り出して、渚の様子を伺いに来たことを伝えると少し困った顔をしつつ中に入れてくれた。居間に案内されると父親がいたので、先ほど書いた挨拶を見せ、『つまらないものですが』とメモ帳に書いてから煎餅を渡し、もう一度理由を説明した。しかし、肝心のなぎはいない。
聞くと、耳が聞こえなくなったことが余程ショックだったのだろう、二階の自室に閉じ籠って出てこないのだと言う。家族でも食事と風呂の時以外では顔を合わせないそうだ。だから、二人が来たことは一応伝えてみるけれど、もしかしたら帰ってもらうことになってしまうかも、と母親が麦茶を持って来て、紙に書いてくれた。
それから母親がなぎからの返事を伝えてくれるまでの間、気まずさから頂いた麦茶をちびちびと飲んで時間を待った。いつか新聞で読んだ鬱病になる人が増えているという記事がふと頭に浮かんだ。
ところでふみちゃんは何をして待っているんだろうと首を動かしてみると、父親と携帯の画面を見せ合って笑っていた。ネットでも見てるのかと思ったらメール作成の画面で、ただ話しているだけだとわかった。話に入れてもらおうと思ったところで、隣の部屋のドアが開き、申し訳なさそうな顔をした母親が現れた。隙間から見えた隣の部屋には電子ピアノが置かれていた。そういえば子供の頃から弾いていて、今でもたまに弾くって言ってたっけ。
母親は楽しそうな二人に少々驚いた様子だったけれど、すぐメモ帳を取って、『なぎさの調子が優れなくて、申し訳無いけれど会うのは控えたいって言ってるの。仕事は暫くは復帰できそうにないって伝えてくださいだそうです。折角来てもらったのにごめんなさいね』と私達に見せた。『こちらこそ突然お邪魔してしまい、ご迷惑をおかけしました』と書き残して、二人で家を出た。外から二階を見上げると、まだ明るいのにカーテンが引かれた部屋があった。きっとあの部屋になぎは居るんだろうな。
そのまま家に帰り、八時を過ぎた頃、携帯にメールが届いていることに気付いた。なぎからだった。
『今日はわざわざ来てもらったのに本当にごめんなさい。メールも何度かしてくれていたんだね。ずっと携帯を開けなかったんだ。でも、今日二人が見舞いに来てくれたお陰で頑張れるかもしれないって思えてきた気がする。心配かけてごめんね。』
顔は見られなかったけれど、なぎの「声」が聴けて、幾分かほっとした。