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一日目

 2017年5月19日15時頃、私――茅枦篠樺(ちはししのか)は職場にいた。キーボードをカタカタと鳴らしながら今週末のプレゼンの資料を作っていた。今年に入って新商品の開発に僅かながら携わることになり、今週末も新商品のプレゼンをする。今日は仕事帰りに三人で女子会をやるので息抜きができるからか、いつもより集中している気がした。

 そして定時の18時になり、同じ開発部で同期の、背が低めで茶色がかったショートヘアな、河東 風美(かとうふみ)と一緒に退社すると、無言で駅に向かう人の流れに逆らって30分ほど歩いた所にある居酒屋に行く。駅前にも店はいくつかあるのだけれど、近すぎると誰に会うか分からない。案内されて席について、私がメニューを見ていて、ふみちゃんがおしぼりで鶴を完成させた頃に、坂田 渚(さかたなぎさ)が遅れてきた。人事部でこちらも同期で、足は長く身長も170㎝とスタイルは抜群だ。


「なぎも来たし、注文取りますか。私は生で」

「遅れてごめん、しのちゃんとふみちゃん。中園部長に捕まっちゃってさ。あっ、私も生にしようっと。ふみちゃんは?」

「あたしは烏龍茶で」

「ふみちゃんは相変わらずアルコール飲めないの?」

「ううん、一杯だけなら平気になってきた」

「食べ物も適当に頼んじゃって良い?」

「おねが~い」

「あたしサラダが食べたいな」

「サラダね。オッケー!」


 こうして女子会は始まった。三ヶ月に一度くらいはこうして三人で集まって、食べながらグチグチ喋るのだ。

 程なくしてジョッキが届いた。


「それじゃあ今日もお疲れ様。カンパーイ」


 ガチャンとジョッキを合わせると、よく冷えたビールを流し込む。半分ほど飲んでから、なぎが言った。


「仕事終わりのビールは最高だぁ」

「そうね。でもさ、なんかこの会話おやじって感じね」

「あたし達こんなんだからお嫁にいけなんだろうね」

「ちょっとふみちゃん、それは言わない約束でしょ」

「……はーい」

「あー誰かいないかな。白馬の王子様とか」

「しのちゃんはロマンチストね。私は白馬の王子様は遠慮する。キザすぎて引いちゃいそう」

「ふみちゃんは? 好きな人とかいないの?」

「い、いるわけないでしょー」


 ふみちゃんの顔が紅潮してきた。これは面白そうだとなぎは、にんまり笑った。ふみちゃんはいじり甲斐があるのだ。


「ほんと~? 顔赤いけど」

「い・ま・せ・ん」

「まあ社内恋愛しようにもね」

「いい人いないしー」

「……うん」

「それよりさ、聞いてよ。中園部長ほんっとしつこくてさ。何度言われようがお見合いなんてしませんよって話」

「なぎは大変ね」

「私達の部はなぁんにもないもんね~。ふみちゃん」


 気のせいかさっきよりも顔が赤くなっている。……まさか図星とか……ね。


「私達も合コンとか行けば変わるのかな」

「……あたしは肉食系って思われたくないし行きたくないな」

「ふみちゃん、それは考えすぎだよ。それに、ふみちゃんを肉食系っていう人はいないから大丈夫」

「ほんと?」

「「うん」」

「良かった~。あ、そろそろ一杯だけビール飲もうかな」

「じゃあ私も」

「すみません、ビール3つで」


 こんな感じで早めだけれど二時間後にお開きになった。ちょっと千鳥足気味なふみちゃんを二人で支えながら駅まで歩き、電車に乗る。


「なぎ、またね。ふみちゃんをよろしく」

「うん。次は8月頃にやろうよ。三人で海にでも行かない?」

「たまには良いかもね」


 と言いつつ二人で苦笑い。

なぎとふみちゃんの家は私とは反対方向なので、ここでお別れだ。

 そこそこ混んでいる電車にガタゴト揺られながら、5駅先の最寄りまで行く。この会社を選んだ理由のひとつは、『家から近い』ということ。家も、駅から近いことを条件に探したアパートなので、徒歩6分という近さだ。初めは昼夜問わずに電車が走る音や振動、ホームの騒がしい声が聞こえて、寝つけないこともあったが、今ではなんとも思わない。何より睡眠は大事がモットーだから。

 今日もさっさと寝よう。2階の8号室、私の部屋に着き、バックから鍵をだし半時計回りに回す。金属が回る音がして、鍵は外れた。ドアを開けると、暗くしーんとした玄関に入り明かりをつける。ジャケットをハンガーにかけ、風呂のスイッチを入れてから、明かりもつけずにソファーへダイブ。今週もやっと休日に入ろうとしている。


……………………………


 時刻は22時2分43秒、その時は来た。何の前触れもなく、この世界からある"モノ"が音もなく消えた。ある人はテレビのチャンネルを変えた時、またある人は食器を洗おうと蛇口を捻った瞬間、乗っている電車が発車するところだった人もいるだろう。もしかして寝ている人々は気づかなかったのかもしれない。


 篠樺は麦茶を飲もうとソファーから立ち上がった時だった。このソファーは材質も明るい朱色も気に入っているのだが、動くたびバネが軋む音が耳につくのが欠点だった。だが、今立ったときにはいつものギシィと嫌な音が鳴らなかったのだ。振り返って触ってみる。


「あれ?」


 私は独り言を言ったつもりだったが、結果としては口が動いただけだった。


 そう、世界のほぼ全ての人が自分の耳を疑うようなことが起きたのだ。



『音が聞こえない』



 口を開けてあーあーと喋ってみる。声が出ている感触はあるのだけれど耳には届かない。喉を触ってみると、喉仏が動いて喉は振動していることが分かる。けれども何も聞こえない。夢かと思いたくて、頬をつねってみたけれど痛い。叩いてみてもやっぱり痛い。けれどもパシンとは鳴らない。

 何故突然聞こえなくなってしまったのだろう?私の耳に何が起きたのだろう?世界の中で自分だけ透明な覆いをされ、隔絶されたようだった。この事実は一人で受け止めるには、あまりに重すぎた。お母さんに話してみよう。そう思って携帯の電話帳から母――茅枦 花菜子(ちはしかなこ)を探し、発信ボタンを押そうとして、大事なことに気づいた。


 電話しても聞こえない。もう誰の声も聞けないんだ。さっきまで会っていた二人の声、いつもは意識してないけどふみちゃんのボソッとして高い声や、なぎの若干ハスキーな声も。携帯の画面に滴が落ちる。

 私はへなへなと座りこみ、机に突っ伏して泣いた。泣いた。泣いた。隣の部屋の人のことなんか考えず、赤ん坊のように泣きじゃくった。産まれる前から当たり前のようにあった音たちは、いくら泣いても戻っては来なかった。


 その時、まだ握りしめていた携帯が震えた。ぼやけた目で渋々見てみると、お母さんからのメールだ。それだけでほんの少しだけ救われた気がして、開封するまでのわずかな時間も惜しい。ようやく開いたメールを読み、我が目を疑ったが同時に、二つの感情が私の心を駆け巡った。


 ひとつは、やっぱり聞こえないのは本当らしいという絶望。


 もうひとつは、私だけじゃなかったという安心感。安心感というのはおかしいけれど、ホッとしたのは事実だ。回線が混んでいて送られてから5分経っていたメールはこんな内容だった。


~~~~~~~~~~

しのは無事ですか?ネット等のニュース見て知ってるとは思うけれど、やっぱりお母さんとお父さんと峻椰(しゅんや)は聞こえません。一人だと不安じゃない?会社も暫くは休みになるだろうし、一度こっちに戻ってこない?しのが大丈夫ならいいのよ。

~~~~~~~~~~


 その後ネットを見て、分かっている現状を知った。耳が聞こえないこの現象は世界中で同じ時間に発生したということ、発生した原因も治る方法も分からないということ。原因については音エネルギーの無力化だとか、温暖化のせいだとか、魔法のせいだとか、宇宙人のせいだとか訳も分からない憶測が飛び交っていた。私は、この事態によくそんなことを考えられるなとちょっと呆れた。さっきまであんなに思い詰めていたので、今になって疲れが何倍にもなって戻ってきた。

 くよくよしていても何も変わらないと思うことにし、お母さんには無事だということと、帰る件については考えさせてほしいと返信して、とっくに沸いていた風呂に入ることにした。私の身体を伝い、ただ排水口に吸い込まれていくお湯。浴槽に入っても形を変えるだけのお湯。音が無くなったことでこうまでも私の生活は無機質になってしまうのか。また涙が溢れてきた。

 ひとしきり泣いた所で上がり、諸々を終えてから寝ることにした。

 しかし、電気を消して布団に入って目を瞑ると恐怖心が襲ってきた。引っ越したばかりは騒音のせいで寝つけないこともあった。しかし今では当たり前になっていた音がいざ消えると、ソワソワして寝れない。胸に手を当てると煩いほど心音が聞こえる。


 結局疲労には勝てずに、私の意識レベルはだんだんと下がっていった。

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