一話 『地獄の始まり』
神崎燐也は、一人の少女をその腕に抱き抱えて階段を駆け上がっていた。現代日本では目にかかることが出来ないような、粗末な造りの階段を。背中から感じる強烈な悪寒と恐怖を必死で振り払いながら。
本来ならば綺麗な藍色だったブレザーも、今では黒ずんでしまっている。大量の血によって。否、血だけではない。肉だ。ぶよぶよした肉も、ところどころにつけている。
腕の中の少女は、呪詛のように何度も呟く。
「大樹、小唄、明彦、寛人、風子、花、英華、愛衣、大樹、小唄、明彦、寛人、風子、花、英華、愛衣、大樹、小唄、明彦、寛人、風子、花、英華、愛衣……ッ、みんな、やだ、やだッ」
「ッ!? くっそォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!?」
呪詛のよう、ではない。呪詛そのものだ。少なくとも、燐也にはそう感じられた。
一言一言を聞くたびに、鎖に絡め取られるように足が重くなる気がする。背中に感じる悪寒に恐怖も相俟って、両足に鉄球をつけている気分になった。
満身創痍。心も体も既に限界を超えている。昼か夜かも分からない空間で、彼は休みなく数時間は走り続けていた。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走るハシルハシルハシルハシルハシルハシルハシルハシルハシルはしるはしるはしるはしる――――狂う。
狂ったように走る彼は、間違いなく狂っていた。
「絶対、絶対助けるから、助けるからッ、僕が助けるからッ」
走り続ける。腕の中に抱いた、たった一つの命とともに。
明りが見えた。階段の、遥か上に。
そして――。
……
【報告書】
最高難易度迷宮『終焉と混沌の無限迷宮』の第一階層入り口付近にて、二名の少年少女を保護。保護者は、探索に赴いていたソフィア・ネイサン氏。保護時に後ろから迫るクイーンクラスLv.八〇〇相当の魔物五〇ほどの群れを殲滅。
二人は酷く焦燥しており、ソフィア氏が直々に治療を行っている。
現在、調査団を編成し、人類限界到達点である第五〇階層へ踏み込む準備をしている。
推測であるが、二人は業人であると思われる。
公式に観測された例としては、実に一〇年ぶりのことである。
これより二人は保護観察下に置かれるが、保護者としてソフィア氏が立候補している。
少年の氏名は、リンヤ・カンザキ。
少女の氏名は、イア・アマハラ。
最初、姓名を逆転して言ったことから、一〇年前の業人と同じ出身と思われる。
追記
過去の過ちを繰り返さぬよう、賢明なご判断を、我が王、エマニュエルよ。