第1話 発端は
トントントン……
心地よいリズムと鼻腔をくすぐるいい香り。何だろう。すごく安心する。
夢見心地でコロンと寝返りを打つと、ふわりと髪を撫でられた。
「………ちゃん」
名前、呼ばれた? 夢見心地に相応しい、柔らかい甘い声。
なんて幸せな夢なんだろう。
「くーちゃん、朝だよ? 遅刻するよ?」
……え、遅刻? 未だ回らない頭を無理矢理起こして重い瞼を開けると、間近に端正な顔があった。
思わず飛び起きたわたしに、彼はにっこりと微笑んだ。
「あ、起きた」
「おっおは……」
言い掛けて、自分が未だパジャマ姿なのに気がついた。寝起きで髪だってボサボサだしっ。まさか、ヨダレ跡とか付いてないよね?!
慌てて再び布団を被ろうとした、わたしの頭を優しく撫でた彼は、「二度寝したら寝坊するぞー?」と笑いながら部屋を出て階下へと降りて行った。
ああ……びっくりした。ドキドキと踊る自分の胸に手を当てて、彼が出て行ったドアを呆けたまま暫し眺めていた。
***
「……おはよー……」
とりあえず、彼に見られない様に慌ただしく洗面所に飛び込んで洗顔等を済ませ、2階の自室に舞い戻って制服に着替えてからダイニングへと降りた。
「目、覚めた? ご飯出来てるよ」
「ありがと」
キッチンカウンターに並べられた2人分の食事をダイニングテーブルへと運ぶ。
炊きたてご飯に、味海苔、沢庵、きんぴらごぼうに具沢山の舞茸のお味噌汁。それに、大根卸しの添えられた出汁巻き卵。
朝から御馳走だなあ。少なくとも、今までの私の『トーストにマーガリンを塗って食べたら上出来』な食生活からすると、天と地程の差がある。
この朝食を作ってくれた彼が向かい側に座ったのを確認して一緒に両手を合わせた。
「……美味しい」
「ほんと? 良かった」
そう言って嬉しそうに笑った彼に、胸の奥がキュンと締まる。
「亮ちゃん天才だね」
「褒めても何も出ないよ?」
心外だ。心からの賛辞だというのに。
テーブルの向かいで朝から惜しげも無く笑顔を振りまいているこの彼は、兄ではない。無論、という辺りが悲しいが、カレシでもない。
彼の名前は和泉亮介(いずみりょうすけ)。大学4年生。私の母の姉の長男……要するに従兄だ。5つしか歳の違わない彼は、数日前から私の保護者になった。勿論、書類上は従兄であり、只の同居人なのだけれど。
只の、と強調すると少し悲しい。何時からなのかもハッキリしないが、私はもうずっと彼に片想いしている。
そんな彼との同居話を聞いた夜は、ドキドキし過ぎて眠れなかった。
***
「え? なんて?」
高校1年も半ばを過ぎた頃、唐突に母が切り出した話に数回瞬きをして聞き返した。
「だから、お父さん転勤になったのよ。来月から」
転勤? 転勤て事は……
「葛葉、悪いけど貴方も転校……」
「やだよ!!」
「そんな事言ってもしょうがないでしょう?」
「お父さん一人で行けば良いじゃん!」
「そんなの聞いたら、お父さん泣くわよ」
「泣けば」
「葛葉!」
だって、漸く念願の高校に入れたんだよ? そりゃ、「制服が可愛いから」とかいうアホみたいな理由かも知れないけど、でももう、仲の良い友達だって出来たし、来月の文化祭に向けてクラスの出し物だって仕上げて来てるのにっ!
「ぜっったい、やだ!!」
「向こうも楽しいわよ、きっと」
そんな場当たり的な慰めなんていらない。そもそも、何の根拠も無いし。
「いいよ、じゃあ一人で暮らすから!」
「貴方一人置いて行けるわけ無いでしょう」
深い溜息と共に正論を言われたけれど、嫌なものは嫌なのだ。
口論している内に感情が高ぶってきて、遂に大声で泣きだしてしまった。
号泣する私に母が辟易して改めて深々と溜息を吐いた時、重い空気にそぐわない、妙に明るい音がピンポーンと室内に響いた。
私から逃げられる事にホッとしたのか、軽い足取りで「ハイハイ」と出て行った母と一緒に入ってきたのは、従兄である彼だった。
「りょ、亮ちゃん……!」
思いもしなかった彼の登場に、涙でぐしゃぐしゃになった頬を慌てて袖で拭った。
「どうしたの、くーちゃん」
優しく掛けられた声に気が弛んで、さっき以上にわんわんと幼い子どもの様に泣いてしまった。
彼は何も言わず、よしよしと頭を撫でてくれて、手にした箱を軽く掲げた。
「母さんがケーキ焼いたんだ。これでも食べて落ち着いて?」
「姉さん相変わらずマメねぇ」
「菓子作りが生き甲斐ですからね」
母と軽く談笑した彼は、わたしの方に向き直り、「ね?」と小首を傾げた。
こんな時だけど、自分に向けられた彼の魅惑の微笑みに、大泣きした事も一瞬忘れて見惚れてしまった。少し冷静になると、何だかとっても恥ずかしい。
彼に促されてダイニングテーブルに着いたわたしの目の前に並べられた、ベリーたっぷりのフルーツタルトと温かい紅茶。
相変わらず、店で売られてても可笑しくない様な出来映えのケーキ。
「今回自信作らしいですよ」
「あらそう。この前のチョコレートのあれ、……」
「ザッハトルテ?」
「ああそうそう、それもとても美味しかったわ。姉さん、お店でも開くつもりなの?」
「いや、あくまでも趣味みたいですよ」
「そうなの? 勿体無い」
「楽しそうだから良いんじゃないですか?」
談笑する2人を横目に、黙々とタルトを口に運ぶ。見た目に違わず、本当に美味しい。
もしも転校してしまったら、もう伯母さんのケーキを口にする事も無いんだな。
当然、ケーキを持ってくる彼に逢う事も無くて……
治まっていた涙が再び、じんわりと目尻に浮かぶ。
少しほろ苦いベリーの所為にしてしまいたかったけど、先程の大泣きを目撃されているのだから、今更だ。
俯いて必死で涙を堪えている私を、ちらりと窺った彼の視線が母に向いた。
「それがね、来月から主人が転勤になっちゃって」
彼は何も言葉を発さなかったが、言いたいであろう事を察知したらしい母が、溜息と共に説明を始めた。
「急よねえ。この子には可哀想だと思ってるのよ。でも、16歳の娘を一人で置いて行けないし」
「そうですよね」
庇ってくれるかと僅かに期待したけれど、一言の相槌であっさりと流されて、内心がっくりと肩を落とす。
これ以上嫌だと駄々を捏ねても実際に残れそうな名案も無く、未成年 且つ生活能力の無い自分を呪うしか無い。
我慢していたけれど、遂に再び決壊してしまった涙腺から流れ落ちる雫で、俯き気味の頬を濡らすままにしていたら、ふと視界に入った、綺麗に畳まれたハンカチ。
「はい」
泣き濡れた顔をそっと上げると、ハンカチを差し出しつつ、彼がにっこりと微笑んでいた。
いつもならキュンとするところだけど、この状況では何だか辛い。
まるで、お別れの挨拶の様なハンカチを受け取る事は出来ずに固まっていると、隣の席に移動して来た彼が、ぐしゃぐしゃな私の顔を拭いてくれた。
「くーちゃん、分かったから泣かないで」
「……ッ」
子どもをあやす様によしよしとわたしの頭を撫でた彼が、少し思案した後で母に向かって口を開いた。
「俺が面倒みるって事でどうですか?」
「え?」
思ってもみなかったその科白に、母の発した疑問符と私のそれとが見事に重なった。
「面倒って……亮介くんが?」
「はい、一応成人してますし」
「でも……大学とか、忙しいでしょう?」
「もう4年で講義殆ど無いですし、就職内定も出てるんで暇なくらいですよ」
突然降って湧いた話にドキドキが止まらない。
彼の家に居候させて貰えれば、学校は遠くなってしまうけど転校は免れそうだ。
期待に満ちた瞳で母と彼を交互に見つめていると、母が困惑顔で溜息を吐いた。
「でも、姉さんに悪いわ」
「ああ、家に来るのは無理だと思います」
「えっ?」
「今でも結構狭いんで。だから、俺が此処に来ようかと」
「亮介くんが? ウチに?」
母は目を丸くして瞬きを繰り返していたが、それ以上に私は驚いてしまって、身動ぎもせず固まっていた。
「狭い」と言った彼の言い分は解る。それは決して彼の家が小さいという意味ではない。寧ろ我が家よりも少し大きいぐらいだろう。
しかし、彼は3人兄弟の長男だ。私より2つ歳上の次男と同い年の三男が居る。おまけにでっかいゴールデンレトリバーが室内に2匹。どう考えても私の寝床は確保出来なさそうだ。
でも、だからといって、彼とこの家で同居? 二人っきりで?!
えええっ、いいの?!
朝から「おはよう」って挨拶して、学校から帰ったら「おかえり」って言ってくれて、一緒にご飯食べて、「おやすみ」も言えちゃうの?!
毎日そんな身近に彼を感じられる生活なんて、嬉しすぎる!
「まあ、亮介くんならしっかりしてると思うけど……でもねえ……」
「俺もくーちゃんと離れるのは淋しいですし」
えっ。
彼の一言に、浮かれていた頭の花が吹っ飛んで、ドキドキが全速力で駆け出した。
淋しいって、淋しいって……!
「ずっと、妹の様に思ってたんで」
……そうだよね。うん、分かってた。物心が付いた時から、お兄ちゃんお兄ちゃんと着いて回っていたわたしは、彼にとって妹以外の何物でも無いだろう。
分かってたけど、はっきり言われると凹む。
母と彼にバレない様、密かに体内の空気を吐き出した。
わたしがちょっぴり沈んでいる間に、どうやらその話は前向きに進められる事になった様で、彼は帰宅して伯母さんに相談するらしい。
……うん、妹でも良いよ。だから、どうかこの話が現実になります様に。
母に微笑みかける彼の横顔を見つめながら、願いを込めて両手をぎゅっと握り締めた。
***
「あの話、決まったから」
数日後、夕飯を食べながら母が切り出した言葉に、思わず箸を取り落とすところだった。
「ああ、亮介くんが葛葉の面倒見てくれるって話か」
母の言葉に、わたしではなく父が反応して相槌を打った。
「そう、折角ああ言ってくれたしね。任せてみようかと思うの」
「そうだなあ。亮介くんなら信用出来そうだしなあ」
どうやら彼には、我が両親の全幅の信頼が寄せられているらしい。
それはもう、実の娘よりも信用されていると言っても良い程に。
「葛葉はどう?」
「え?」
「やっぱり、どうしても此処に残りたい?」
少し切な気な瞳でわたしを見つめる両親には悪いと思うけど、やっぱり転校はしたくない。申し訳ないと思いつつコクンと首を縦に振ると、彼らが揃って溜息を吐いた。
「しょうがないわね。じゃあ、姉さんのところに電話しておくわ」
「そうだな。近々改めて挨拶に行こう」
引っ越しの段取りやら何やら、色々と話をしている両親を横目に、黙々とご飯を食べていたけれど、内心浮かれてしまって弛む頬を抑えるのに必死だった。
一週間後ぐらいから彼との生活が始まるかと思うと、とてもゆっくり座ってご飯を食べていられる心境ではなく、早々に「ごちそうさま」を告げて2階の自室へと向かった。
お父さんお母さん、ごめん。
転校したくないのが元々の発端だったけど、今は彼と生活出来る事で頭が一杯。
両親と離れて暮らすのに、こんなに浮き浮きしている自分が何だか後ろめたいけれど、思わず室内でスキップしてしまいそうな程に嬉しくて堪らないのが正直なところだ。
今夜はきっと、眠れないだろう。