繰り上がり皇太子は悪役令嬢と破滅回避したい
半年で四人の皇子が死んだ。
流行病だと言われている。宮廷医は手を尽くしたと首を振り、神官長は「御神意でございます」と繰り返すばかり。第一皇子が倒れてから第四皇子が息を引き取るまで、わずか半年。皇帝陛下の御子六人のうち四人が棺に納められた。
そして帝である父もまた、最後の皇子を看取った月に倒れた。皇后――第一王子の母君は、それより半月早く。半年足らずで帝国は皇帝と皇后、四人の皇子を喪った。
残ったのは僕と、まだ乳離れもしていない末弟だけ。
継承権第五位。
母は後宮で最も位の低い側妃で、僕が十三の歳に病で世を去っている。形見の耳飾りだけが手元にあった。
後ろ盾になるような実家もない。派閥もない。宮廷の片隅で誰の記憶にも残らず本ばかり読んでいた十六歳の皇子が、ある朝突然、皇太子になる。
誰のことだ? 僕だ。
立太子の儀は盛大だった。正式な即位は成人の十八歳と定められ、それまでは宰相が摂政を務める。花が飾られ、楽団が壮麗な戦慄を奏で、居並ぶ貴族たちが跪いて忠誠を誓う。
形の上では。
実際に僕の目を見て誓った人間が何人いたか。折る指すら見つからない。
けれど怖くはなかった。
成人まであと二年。十八になれば皇帝として親政を始められる。今は宰相ヘルムート閣下にお任せしている政務も、いずれ自分の手で——
そう信じていた。信じていられた、と言うべきだろうか。
あの夜会で、あの女に出会うまでは。
皇太子就任を祝う夜会。名目上は僕のための催しだが、主賓のはずの僕ほど居心地の悪い人間はいないだろう。
貴族たちが代わる代わる挨拶に来る。当たり障りのない祝辞を述べ、微笑みを浮かべて去っていく。笑顔と目が分離した謎の生き物みたいだった。この少年は使えるか。御しやすいか。取り入る価値はあるか——品定めの視線が肌に刺さる。
十三杯目の祝杯を傾けたあたりで、僕はそそくさとバルコニーに逃げた。道中に給仕の皿から仔羊のローストをひとつつまむ。
庭園から吹き上げる風が心地いい。ローズマリーが香り、脂が舌の上でとろけた。皮目が軽く焦げていて、塩の利き方がちょうどいい。皇太子になった恩恵など、今のところこの仔羊くらいのものだ。
——我ながら情けない。
背後で、バルコニーへ続く扉が開いた。
「あら」
低く、涼やかで。およそ祝いの席に似つかわしくない声音。
「殿下のお姿が見えないと思いましたら、仔羊と夜風がお好みでしたの」
振り向くと、深い紫紺のドレスがバルコニーに出てくるところだった。
背が高い。僕より少し——いや、明らかに高い。認めたくないが事実だ。年の程は十六から十八あたりだろうか。黒い髪を緩く編んで左肩に流し、琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見据えている。
その目には、今夜散々浴びてきた品定めの色がなかった。もっと別の——値踏みではなく、挑むような光。
周囲の空気が張り詰める。
僕の後ろに控えていた侍従官のブルーノが、青い顔で耳元に囁いた。
「アルトシュタット公爵家のご息女、イレーネ嬢です。殿下、どうかお気をつけて」
「気をつけるとは?」
「——社交界で『悪役令嬢』と呼ばれている方です」
悪役令嬢。
噂は聞いていた。社交の場で歯に衣着せぬ発言を繰り返し、縁談を三度蹴り、宰相派の方針を公然と批判して宮廷貴族の半数を敵に回した公爵令嬢。
その公爵令嬢が、扇の向こうからこちらを見て笑っている。
笑顔というには、刃物、いや、凶器じみていた。
「初めてお目にかかりますわ、殿下。アルトシュタット公爵が長女、イレーネでございます」
「——ユリウスだ。お目にかかれて光栄だよ、イレーネ嬢」
社交辞令。僕にだってこれくらいはできる。
「まあ、光栄。――では早速ですが、殿下、少しお話がございますの」
イレーネの視線がブルーノに向いた。
ブルーノが助けを求めるような目でこちらを見る。僕は小さく頷いた。悪役令嬢と二人きり。正気の沙汰ではないかもしれないが、逃げるのも違う。
ブルーノは深く一礼して、逃げるように広間へ戻っていった。
夜風がドレスの裾を揺らしている。バルコニーには、僕とこの女だけが残された。
イレーネは扇をぱちりと閉じた。琥珀の目が据わっている。
「成人すれば、実権を握れるとお思いですか?」
祝賀の夜会で、真正面から殴られた気分だった。
「……何を言っている?」
「質問を質問で返すのは、政治家としては三流ですわよ」
返す言葉がない。いや、言葉以前に頭が追いついていない。この女は祝いの場で何を——
「殿下。近衛軍の指揮系統は、今どなたの手にあるかご存じ?」
「それは……宰相閣下が一時的に——」
「財務府の人事権は?」
「それも——」
「官僚の任命裁可は? 地方総督への連絡網は? 御璽の管理は?」
矢継ぎ早だった。ひとつも答えられない。
指が冷たくなっていく。仔羊を持ったまま、握る力だけが強くなる。
イレーネは扇の先で自分の肩を軽く叩きながら、穏やかに——残酷なほど穏やかに——告げた。
「殿下に残っているのは、玉座だけですわ」
足の裏から血の気が引いていくのがわかった。
「『皇帝として扱われること』と『皇帝として統べること』は、まるで別物でございます」
違う、と言いたかった。そんなはずはない。成人すれば——親政を始めれば——
だが反論の言葉がひとつも浮かばないことが、すでに彼女の正しさを証明している。
僕が言葉を返せずにいると、イレーネは矢継ぎ早に続けた。
「このままでは殿下は傀儡になります」
「いずれ皇権派は切り捨てられます」
「最後には毒杯でしょうね」
イレーネが言葉を紡ぐたびに、胸の鼓動が速くなっていく。
口の中に残った仔羊の脂が、急に重くなった。
「……では、どうすればいいんだ」
声が掠れていた。自分でも驚くほどに。
「まあ」
イレーネが瞬いた。嘲りではない。純粋な驚き——そして、ほんの少し感心したような目。
「尋ねてくださるのですね」
「君が正しいなら——僕が本当にお飾りにされかけているなら、知らないふりをしている場合じゃないだろう」
彼女の唇の端が、扇の陰でわずかに上がる。
嘲笑ではなかった。何と言えばいいのか——試験に受かった生徒を見る教師のような顔。
それはそれで腹が立つのだが。
「殿下に必要なのは、実権を持つ後ろ盾ですわ」
即答。あらかじめ用意していたとしか思えない。この女は最初からこの話をするために僕に近づいた。
「具体的には?」
「有力大貴族家の支持。社交界での影響力。宰相閣下に対抗しうるだけの派閥基盤」
指折り数えるように、淡々と並べていく。
「そして——王妃教育を修了し、外交と内政の双方に通じた伴侶」
伴侶。
つまり。
「……婚約者が必要だと?」
「ええ。それも、お飾りではない本物の」
頭を抱えたくなった。有力貴族で、社交界に影響力があり、王妃教育済みで、皇権派——そんな都合のいい人間がどこにいるというのか。
顔を上げると、イレーネが微笑んでいる。
先ほどまでの刃物じみた笑みとは違う。どこか楽しげで——企みを含んだ顔。
夜風に晒されているにも関わらず背中を汗が伝う。
嫌な予感がした。
「——ここに、ちょうどいい淑女が一人おりますけれど」
イレーネはいたずらな笑みを浮かべ、演じるように頭を下げた。
三秒ほど、意味がわからなかった。
わかった瞬間、仔羊を落としかけた。
「……君が?」
「アルトシュタット公爵家の長女。王妃教育は十四で修了しておりますわ。社交界では嫌われておりますが——嫌われるだけの影響力があるとも申せます。皇権派との繋がりもございますし」
自分を売り込む口調は商人のようで、同時にどこか楽しそうだった。この状況を楽しんでいるのか、この女は。
「それは——求婚、なのか?」
「国家戦略の提案、とお受け取りくださいませ」
恋愛感情のかけらもない涼しい顔で、この女は僕に婚約を持ちかけている。
どうかしている。完全にどうかしている。
——のだが。筋は通っていた。恐ろしいほどに。
「ひとつ訊いていいか」
「どうぞ」
「なぜ、そこまでする」
イレーネの微笑みが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
見逃しそうなほど小さな揺らぎ。扇を持つ指先にわずかに力がこもったのが見えた。
「皇帝権が崩れれば、公爵家も無事ではいられません」
政治的な理由だろう。正しい——けれど、それだけだろうか。
「宰相派からは、すでに危険視されておりますの。私」
声が変わった。ほんの一瞬だけ、鎧を脱いだような声色。
「このまま殿下がお飾りになれば、次に排除されるのは皇権派の貴族です。アルトシュタット家はその筆頭ですわ」
つまり、彼女も追い詰められている。
僕と同じように——いや、もしかしたら僕以上に。僕は曲がりなりにも皇太子だ。簡単には排除できない。だが彼女は公爵家の令嬢とはいえ一介の貴族に過ぎない。
実権掌握している宰相がその気になれば——
胸の底が軋んだ。
あれだけ堂々と僕の幻想を壊して見せたこの女が、実は同じ崖っぷちに立っている。
「——それに」
イレーネが視線を逸らした。
初めて見る仕草だった。この女がまっすぐ前を見ないでいる瞬間があるなんて、思いもしなかった。
「私は、お飾りの皇帝など好みませんので」
好みません、と彼女は言った。
お飾りではない皇帝を——この女は求めている。
背骨に芯が通った。
——ああ。
初めてだ、皇帝になりたいと思ったのは。
手を差し出した。
「ユリウス・エルンスト・ヴァイスフェルト。第五皇子にして——不本意ながら、繰り上がりの皇太子だ」
イレーネが目を見開く。
「イレーネ嬢。君の提案を受ける」
彼女はわずかに息を呑み——それから笑った。刃物じみた笑みでも、企みを含んだ微笑みでもない。
ただ、きれいだった。
「——光栄ですわ、殿下」
手袋越しの指は細くて冷たい。こんなに冷たい手であれだけのことを言い切ったのかと思うと——少しだけ笑えた。
ガラス扉越しに、視線を感じた。
広間の灯りの中に宰相ヘルムートが立っている。バルコニーのこちらを――繋いだ手を、静かに見据えていた。
穏やかだったはずの彼の口元から、笑みが消えている。
夜会の喧騒が、遠くなる。
バルコニーから広間へ戻ると、空気が変わった。
皇太子と悪役令嬢が並んで歩いている。それだけで、さざ波のように囁きが広がる。
「注目されていますわね、殿下」
「君のせいだろう」
「私のおかげ、と言ってくださいませ」
否定できないのが悔しかった。
広間を横切る。品定めの視線はもうない。代わりにあるのは警戒と困惑。繰り上がりの、傀儡であるはずの皇太子が初めて自分の意思で動いた——宮廷はそう受け取るだろう。
出口の手前で、イレーネが扇の陰から囁いた。
「明日から忙しくなりますわよ、殿下」
「わかっている」
「嘘。まだ何もわかっていないお顔をしていらっしゃいますわ」
わかっていないのは本当だから、黙った。
宰相派との駆け引き。貴族の切り崩し。社交界の掌握。やるべきことが山のようにあるのだけは、漠然と伝わってくる。
「イレーネ嬢」
「はい」
「——よろしく頼む」
彼女は一瞬だけ瞬いて——それから深く、優雅に頭を下げた。
「こちらこそ。末永く、お手柔らかに」
翌日、帝国中に報せが走った。
皇太子ユリウスが、アルトシュタット公爵家の令嬢イレーネを婚約者に迎える——と。
嗤う者が大半だった。警戒したのは、ほんの数人。
宰相ヘルムートだけが、沈黙を守った。
——これは恋じゃない。まだ。
政略で、共犯関係で、生き残るための手段だ。
けれどあの夜、彼女の冷たい指先がかすかに震えていたことを——
僕はたぶん、ずっと忘れない。
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