白柵の内側にいる人
「ちょ……っと、もう……」
眩しい木漏れ日が揺れる遊歩道。
俺の左隣で朔弥はくすぐったそうに身を竦めた。
よく見れば、俺より少し背の低い朔弥の黒髪の一部が、風もないのに上へ下へと踊っている。
「なんだ、またちょっかいかけられてんのか」
「うん……、悪意はなさそうなんだけど……」
困ったように笑う朔弥は、実にお人よしだと思う。
本当に悪意のない奴は、人の髪なんて引っ張らねえんだよ。
「ったく、懲りねぇ奴らだな」
俺は、朔弥の柔らかな前髪を弄ぶ犯人へと手を伸ばす。
「そこ……、あ、敬史の指、触れたよ」
「ん、これな」
指先に、確かに何かがふわっと絡みつく。
蜘蛛の糸のような、そんなささやかな感触を確かめながら、俺はそいつを朔弥から引っぺがして、一歩距離を取る。
「ほら、もう柵閉じとけ」
俺の言葉に、朔弥はほんの一瞬寂しげな顔をして、それから「はぁい」と答えて俺の側だけ開いていた白柵を閉じる。
思わず、少し俯いてしまったその黒髪を撫でてやりたくなる。
だが今の朔弥は『柵の中』だ。
俺にも、もちろん他の誰にも、触れることはできない。
まあ、柵を建てた本人は別だけどな。
俺は、左手にわずかに残った蜘蛛の糸のような感触を、そこらにぺいっと投げ捨ててから朔弥に言う。
「帰ったら、いっぱい構ってやっから」
俺の言葉に、朔弥は瞳を輝かせて頷く。
「うんっ」
素直な仕草に、つい『俺が守ってやらねぇと』みたいな気分になる。
別に何ひとつ、俺が守ってやらなきゃなんない理由はないんだけどさ。
いやまあ、そんなこともないか。朔弥は大事な親友だもんな。俺が守ったっていいよな。
もし俺に弟がいたら、こんな感じなんだろうか。
こんなに素直で可愛い朔弥だが、友達は俺が初めてだという。
まあそりゃ、こんな柵があればな……。
朔弥の周囲をぐるりと取り囲む白柵は、いわゆる『結界』だ。
色んなものに好かれやすい朔弥を守るため、朔弥が幼い頃に祖父さんが用意した物らしい。
チューリップの咲く花壇にでも立ってそうな、木製の柵を白く塗っただけの、一見どこにでもありそうな白い柵は、朔弥が歩けば歩いた分だけ移動する。
この柵が誰にでも見えるなら、きっと朔弥が孤立することもなかったんだろうけどな。
柵が見えるのは、朔弥と朔弥の祖父さんと、なぜか俺だけだった。
朔弥を初めて見たのは、小学五年生の夏休みの終わり頃。
俺は家に帰る途中で、街灯の隣にポツンと佇む朔弥に出会った。
周囲をぐるりと柵に囲まれて、所在なさげに俯いている少年を見て、俺は思わず尋ねた。
「こんなとこで何してんだ?」
幼い朔弥が驚いたように顔を上げる。
背は俺よりちょい小さいくらいだけど、顔は俺より一回りくらい小さくて、大きな瞳がくりくりしてて可愛い。
服が男っぽいから男子かと思ったけど、もしかしたら女子かも知んねーな。なんて俺は思う。
「え……」
「もしかして、捨てられたのか?」
「えっ!?」
だってほら、捨て猫とか捨て犬とかって、段ボールに入れられてたりすんだろ?
朔弥は周りを柵に囲まれてるからさ、そんなふうに見えたんだよ。
「僕、先週ここに引っ越してきたんだけど……、ちょっと、道に迷っちゃって」
「ふうん?」
「えっと、二階建ての、緑の屋根の家を目印にしてたんだけど……」
「あ、それ多分俺ん家だ。ここらだと緑の屋根って俺んとこだけだもんな、目立つってよく言われる」
俺の言葉に朔弥が破顔する。
「本当!? 場所分かる?」
「当然。ついてきな」
言って数歩駆け出してから、俺は慌てて振り返った。
そういや、こいつ柵ん中入ってたよな。
柵は腰の高さくらいまであったし、運動が苦手なやつだと出てくるのにちょっと時間が要るかもしれない。
「ぅえっ!?」
見知らぬ少年は柵を気にする様子もなく、俺のすぐ後ろについてきていた。
柵もまた、地面に刺さっているように見える部分ですらそのままに、地面の上を滑るように移動してくる。
俺が立ち止まったので、朔弥もまた立ち止まって小さく首を傾げる。
「どうかした?」
「その柵、どうなってんだ?」
「ぇ……」
その時の朔弥の驚いた顔は今でも覚えている。
本当に、信じられないものを見るような目で俺を見ていた。
「僕の柵が……見えるの……?」
「ん? ああ、なんかすげーなそれ」
小五の俺の、バカみたいな感想に、朔弥はこぼれるような笑顔で答えた。
「うんっ」
***
二学期が始まって、俺のクラスに転校生が来た。
年下に見えた朔弥は、実は同い年だった。
それにもちょっと驚いたけど、俺がもっと驚いたのは、俺以外の奴にはあの柵が見えてないってことだ。
学校で、教室で、人との距離が近づく機会は意外と多い。
前から後ろの席にプリントを配る時や、後ろから前の席にプリントを回収する時。
それは頻発した。
「ちょ、ちょっと待ってね」
前から二番目の朔弥が慌てて柵を開こうとする。
それが待てなかったのか、一番前の席の田口は「ここ置いとくから」と机の上にプリントを置こうと手を伸ばした。
途端に、バチィッと音を立てて弾かれる腕とプリントの束。
「痛っってぇ……」
田口の、弾かれた指先がじわりと赤くなる。
「ご……ごめんね……」
謝る朔弥を、田口が睨みつける。
「おー、また山代の静電気かー?」
先生の、うんざりしたような声。山代は朔弥の苗字だ。
朔弥の結界に人が弾かれる現象について、朔弥の親は『超静電気体質』だと学校に説明していた。
「すみません……」
朔弥がもう一度謝る。
「めちゃめちゃ痛てーんだけど。見てこれ先生ー、赤くなった!!」
「田口も気をつけろよ」
「もう俺この席やだよー」
田口の言葉にみんなが笑う。
笑い声の中で、朔弥は小さくなっていた。
「田口くんに悪いことしちゃったなぁ……」
帰り道、しょんぼりしたままの朔弥が言う。
朔弥の家が俺の近くだったこともあって、転校初日の帰り道に付き添いを先生に頼まれて以降、俺達は一緒に帰るようになっていた。
「んな事ねーだろ。待てって言ってんのに待たなかった田口が悪いんだって。お前は柵開けようとしてたのにさ」
先生も、朔弥の親の説明通り、帯電している電気を逃すのに少し時間がかかるから、触れる前に声をかけて少し待ってほしいという事をクラスの全員に伝えていた。
それでもこうやって、数日に一度は事故が起こる。
「他の奴も皆、お前の柵が見えたらいいのにな」
俺の呟きに、朔弥が小さく「ありがとう」と言う。
礼を言われるような事、俺は全然してねーけど。
そこまで考えてから、ふと閃く。
「いや、そうだよ。……俺がやればいいんだよ」
「え? 何を?」
「俺は見えてんだしさ。お前に触りそうな奴がいたら、俺が止めてやればいいんだって」
そう言って、俺はドヤ顔で朔弥を見る。
「だろ?」
朔弥は、大きな瞳がこぼれそうなほど目を見開いて、それから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、東条くん」
「その『東条くん』ってのさ、なんか肩苦しいと思ってたんだよな。俺のことは敬史でいいよ」
俺が言うと、朔弥が戸惑いつつ答える。
「え、じゃあ僕も、朔弥って呼んでもらったらいいの……かな?」
なんで疑問系なんだよ。
「今まではなんて呼ばれてたんだ?」
「んー……、僕、仲のいい友達っていなかったから……。ずっと苗字で呼ばれてた」
「そーなのか? 話しやすいし、いい奴なのにな」
それになんか、可愛いんだよな。
男にこんなこと言ったら嫌かも知れないから、言うつもりはないけどさ。
朔弥は、しゅんと俯いて呟くように言った。
「この、白柵があるから……」
なるほどな。と俺はようやく納得する。
まあ、仲良くなってくれば皆、手を叩いたり肩を叩いたり背中を叩いたり、それなりに接触するもんだよな。
その度に痛い目に遭うんじゃ、近寄りたくなくなる気持ちもわからなくはない。
「けどさ、柵が開いてる時なら触れるのにな」
俺の言葉に、朔弥はじわりと柵を開く。
それがなんだか嬉しくて、開いた柵の隙間に手を突っ込んで、朔弥の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「あ、そっか。柵だから朔弥か。ん。覚えた」
俺が手を引っ込めると、柵がスルスルと閉まる。
「そういうわけじゃないんだけど……まあ、それで覚えてくれるならいいかなぁ」
朔弥は俺にくしゃくしゃにされた髪のままで、そう言って笑った。
***
翌日、俺は玉砕覚悟の上で、先生に席替えを頼んでみた。
だって、新学期になって席替えをして、まだ二週間も経ってなかったしさ。
けど先生はあっさりと、俺たちの席替え……というより席移動を許してくれた。
朔弥は窓際一番後ろの席で、俺はその一つ前だ。
ほんのこれだけで、授業中の無駄な静電気騒動はおさまった。
班活動の時も、うっかり柵の中に手を突っ込みそうな奴がいれば俺が止めたし、その分、俺がうっかり先生の話を聞いてなかった時には、朔弥が助けてくれた。
行事が多い二学期の学習発表も音楽発表も静電気騒動を起こさずこなして、俺たち中々いいコンビなんじゃねーかな。なんて、ちょっと調子に乗っていた十二月、事件は起きた。
日直だった俺と朔弥は、全員分のノートを半分ずつ抱えて、職員室に向かっていた。
あの日は雨で廊下が湿っていて、職員室に続く階段はワックスがかけられたばっかりで、俺は親に何度言われても上履きの踵を踏んだまま歩いていた。
俺はもう後ちょっとだと思った階段を一番上まで駆け上がり、てっぺんで盛大に滑った。
「敬史くんっ!」
俺の背中が、走らず真面目に歩いて登ってきた朔弥に思い切りぶち当たる。かのように思えた次の瞬間、俺は勢いよく結界に弾かれて、手すりを乗り越え下の階まで一気に落ちた。
頭を強く打ったことは覚えてる。
頭って、意外と弾むんだな、と思った事も。
目が覚めた時、俺は病院で、たくさんの管に繋がれていた。
母さんが俺に抱きつくようにして、俺の意識が戻ったことを喜んでいた。
あれこれ質問されて、あれこれ説明されてるうちに、俺はベッドごと集中治療室とかいう窓のない部屋から、大部屋に移される。
部屋の外は明るくて昼間のようだったのに、日直の日は確か火曜だったのに、父さんまでもが私服姿のまま俺に付き添っていて、俺は随分と大変なことになってたらしい。と、俺はその時ようやく気づいた。
夕方に差し掛かる頃、学校帰りの朔弥が朔弥の母親と一緒に俺の病室に来た。
俺の母さんが廊下に出て、朔弥の母親と話してる間、俺は朔弥とカーテンの内側で二人きりになった。
「わざわざ来てくれたのかよ、なんか悪ぃな」
俺は言って、笑おうとしたけど、縫われた頭と頬の傷が引き攣って変な顔になってしまう。
朔弥は俺をじっと見つめながら、その大きな瞳に涙を浮かべた。
「ちょ、おい、泣くなって。学校でなんかあったのか? 俺、休んでてごめんな。まだすぐには退院できねーらしいんだけど、新学期には間に合うからさ」
俺は慌てて朔弥に謝る。
だってこんな、俺が泣かしたみたいじゃねーか。
俺は朔弥のこんな顔、知らない。
こんな、悲しくて辛くてたまらないみたいな顔……。
「……ごめんね……」
朔弥がポツリとこぼした言葉は、涙の粒と一緒に朔弥の頬を伝った。
俺は心臓がぎゅうっと握りつぶされるみたいに苦しくなる。
「な……、なんで朔弥が謝るんだよ。俺が勝手にすっ転んだだけだろ」
「違うよ、僕が――」
「弾かれたとしても! それは俺が悪いんだって!」
俺は思わず叫んでいた。
頭も顔も肩も、身体中の傷がズキンと痛む。
でもそれ以上に、俺は心が痛かった。
俺のせいで朔弥が自分を責めてるって事が。せっかく学校でもいい顔をするようになってきた朔弥に、また暗い顔をさせてるのが俺だって事が、どうしても許せない。
カララと扉の音がして、母さんが慌てて戻ってくる。
「ちょっと敬史、病室で大きな声出さないのっ 他の子も寝てるんだからねっ?」
「……だって、こいつが謝るから……」
「朔弥君が?」
「俺が一人で転んだだけなのにさ……」
母さんは俺と朔弥を交互に見てため息を吐く。
「仲が良いのは大いに結構だけどねぇ……。まあここは、せっかくなんだから新学期からのお手伝いをよろしくってお願いしておいたら? あんた、しばらくは松葉杖生活なのよ?」
母さんの言葉に、俯いていた朔弥がバッと顔をあげて言う。
「僕にできる事ならなんだって手伝うからっ、何でも、言って……」
朔弥の視線が、俺につながる管や包帯でグルグル巻きの頭や手足をなぞるごとに、朔弥の声は勢いを失っていく。
落ちた衝撃で、俺は頭をパックリ割って、肩と鎖骨にはひびが入り、足と腕の骨が折れていた。
「だーかーらー、朔弥が気にする事じゃねーって言ってんだろ」
苦笑するつもりが、やっぱり頬が引き攣って変な顔になる。
朔弥はそんな俺を見て、また後悔の色を濃くする。
ああくそ、どうすりゃ笑ってくれるんだよっ!
「今度は静かに話してなさいよ」
と言い残して、母さん達はまた廊下に出た。
なんかそんなに俺たちに聞かせたくない話が色々あんのかな。
朔弥の事、悪く言われなきゃいいけどさ……。
見れば、朔弥は黙ったまま俯いている。
俺は、あちこち痛む体を起こしてるのが辛くなって、ベッドを倒した。
病室の白い天井に、俺たちを囲むベージュのカーテン。
「なんかさ、柵の中みたいだよな」
「え……?」
「こうやってカーテンに囲まれてると、ちょっと落ち着くっつーか。朔弥の柵の中ってこんな感じなのかなーってさ」
朔弥は、俺の視線を辿るようにして天井を見上げる。
「なあなあ、俺も朔弥と一緒に柵の中に入ることってできんのかな?」
「柵の中に? そんなの……考えた事もなかった……」
驚いたような声に、俺は視線だけで朔弥を見る。
ああよかった。ちょっとだけ、朔弥の空気が和らいだような気がする。
「……敬史くん、本当に、ごめんね……」
「あぁぁぁくっそ……。もう謝んなっつってんのにさぁぁぁ……」
俺がうんざりと吐き捨てると、朔弥が小さく笑った気がした。
***
それから二週間半、なんとか三学期が始まるギリギリで俺は登校許可がもらえた。
ちなみに『サンタさんは病院には来ないものなんだ』と母さんは言っていた。
うん、まあ俺の治療費はなんか学校の保険とかが出るらしいんだけどさ、色々と買うものがたくさんあるみたいなんだよな。
腕も足も折ってるもんで、普通の服はまるで着れねーしさ。
ちょっと元気になってからは「だから上履きはちゃんと履きなさいって言ってたでしょ」なんて、俺がリハビリでへたばる度に延々言われてさ、いやもう、あれ以降俺は一度も靴の踵を踏まずに生活してる。マジで。これだけは身についた。
それにしても、ギプスと松葉杖の生活って大変なんだな。
俺も前に松葉杖の奴に「いいなー触らしてー」なんて気安く声かけたりしたことあるんだけどさ、ダメなんだよな、あれ、触らすの。
俺の場合は病院からのレンタルだからダメってのもあるけど、それよりも俺の松葉杖で他の子が怪我するってのが危ないらしい。
あの時は、結構仲良い奴だったのに、即断られてショック受けたりもしたんだけどさ、全然知らずにそんな事言った俺がアホだったんだなってやっとわかった。
松葉杖登校生活は、起床時間からまるで変わった。
他の子達が来る前に教室に移動しておかないと危ないってんで、登校は一番になったし、荷物も量が持てねーからって、朔弥が俺の登校から下校までずっと持っててくれた。
授業中も足をあげてなきゃいけないとかで台が必要だし、ずっと乗せてると踵が痛むからってクッションまで挟んで、そんな細かいあれこれを全部朔弥がしてくれた。
俺の世話をする度、朔弥は俺のために柵を開ける。
「そんなに何度も開け閉めして平気なのかよ」
尋ねた俺に、朔弥は「大丈夫だよ」と笑った。
馬鹿な俺は、それを素直に信じてしまった。
そんなの、平気じゃないなんて言えるはずないって。
なんであの時の俺は気づけなかったんだろうな。
無理してでも、朔弥なら俺を助けようとするに決まってんのにさ。
俺が階段で足を踏み外してから二ヶ月が過ぎた頃、そろそろ松葉杖も外れそうだと病院で言われたーなんて話をしながら、俺達は二人で下校していた。
松葉杖にもすっかり慣れて、俺は最初に比べて歩きも早くなっていた。
俺の家までもう数歩だ。
ちょっと公園で寄り道したせいで、夕日が俺たちの足元に長い影を作っていた。
その影が、朔弥の影だけが、一瞬ざわりと蠢いた気がした。
嫌な予感に全身が粟立つ。
「今日も一日お疲れ様」
朔弥はそう言って俺に微笑むと、俺に荷物を渡そうと柵を開く。
「ダメだ! 開けるな!!」
俺は反射的に叫んだ。
瞬間、朔弥の影が何倍にも膨れ上がる。
広がった真っ黒な闇は悪魔のような形にまとまると、朔弥を目掛けて急降下した。
朔弥は慌てて柵を閉じようとしているが、柵が閉じ終わるよりも、悪魔のような影が朔弥に突っ込む方がほんの僅かに早い。
俺は無我夢中で手を伸ばしていた。
ガシッと。確かな手応えを感じる。
真っ黒い闇を、俺は無事な右手で確かに掴んだ。
闇は驚いたように俺を振り返った風に見えた。
「敬史くん!?」
「いーから早く柵を閉めろ!!」
闇の塊は、まだ柵の隙間に挟まっている。
「……っ、ダメだっ閉まらない……っ」
「じゃあ俺がこれをひっぺがすから、そしたらすぐ閉めろよ!」
「そ、そんな事……」
できるのか、と問われれば、わからんと言うしかない。
でも、俺にはなんとなく、手応えからしてこれは引っ張れるような気がしていた。
ただ問題なのは、足に踏ん張りが効かない俺がどこまでやれるか、だ。
掴んだままの黒い塊が、ギギギィと軋むような音を立てて、より深く柵の内側へと入り込もうとする。
「や、やだ、……来ないでっ」
朔弥の怯えた声に、俺の全身の血が沸いた。
「させるかよ!」
俺は松葉杖を捨てて、両手で闇を握りしめる。
「まだ俺だって、中に入れて貰えてないんだぞ!?」
ズキンと鈍く痛む足に構わず体重をかける。
「お前みたいなのに先を越されてたまるかっ!!」
俺は叫びと同時に、全力でそれを引き抜いた。
次の瞬間、朔弥が柵を完全に閉める。
白く塗られた木の柵が、これほど頼もしく見える日が来るとは。
俺は、引き抜いた勢いのまま投げ捨ててしまった黒い塊の行方を確かめようと後ろを振り返る。
そこには夕日を背に、しゃんと背筋を伸ばして歩いてくる小柄な老人がいた。
あの真っ白な和服と丸っこい黒い帽子はどこかで見た事がある。
ああそうか、前に初詣に行った神社で……。
「おお、おお、これは頼もしい友人がいたものだねぇ」
老人はニコニコしながら、道端で蠢く黒い塊を持っていたヒラヒラ付きの棒のようなもので軽く叩いて消した。
「な、なんだそれ、すっげぇ棒だな……」
「これかい? 大幣だねぇ」
「オオヌサ?」
「朔弥、大丈夫かい?」
謎の老人は、そう言って、朔弥の背を撫でる。
って、はぁ!?
「なんで柵の中にいる朔弥に触れるんだよっっ!!」
俺が叫んだ途端、ガララッと二階の窓が勢いよく開いた。
「ちょっと敬史! 家の前で騒がないでよ! 近所迷惑なんだからっ!」
母さんだ。
いや、どっちかと言えば、俺の叫び声より母さんの怒鳴り声の方がでかいんじゃねーか?
「あらっ、あらあら? そちらの方は……?」
母さんがようやく老人の存在に気付いて慌てて取り繕う。
よかった。この爺さんは母さんにも見えるタイプの人なんだな。
「いつも朔弥がお世話になっております、朔弥の祖父です」とその老人は美しい角度で礼をした。
***
「敬史? どうかした?」
声をかけられて、俺はハッと隣を振り返った。
俺の左隣には、いつものように朔弥がいた。
「いや、ちょっと子どもの頃の事を思い出してただけだ」
「えー? それっていつ頃の事? 僕の知らないくらい昔の事?」
そのちょっと鼻にかかったような声で、朔弥が俺に甘えたがっているのがわかる。
子どもの頃の、鈴のような高くて甘い声も可愛いかったが、今の朔弥の声も優しい落ち着いた響きで、時々掠れるところが色っぽくてたまらないと思う。
「朔弥と初めて会った頃の事だよ」
俺が答えれば、朔弥は大きな瞳を見開いて、それから嬉しそうに笑った。




