第9話 アニス
レースが、また何かを編んでいた。
細い指が淀みなく動き、糸が形を成していく。その手つきは祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
完成したものを見て、僕は小さく息を呑んだ。
四つの人形が、並んで座っていた。
一番小さいのは、ぷるぷると揺れる青い塊。メルだ。その隣には、尖った耳と長い尻尾を持つ黒い影。クロム。そして銀色の髪を持つ少女。レース自身。
最後の一体は、黒いコートを纏っていた。
「……僕?」
レースが頷く。
僕は人形を手に取った。細部まで丁寧に作り込まれていて、黒い糸で表現されたコートの襟元まで、実物そっくりだった。
クロムが覗き込んできて、嬉しそうに自分の人形を指差した。それから、メルの人形。レースの人形。そして僕の人形。
彼は何かを言いたそうに口を開き、けれどすぐに閉じた。
首を傾げている。
レースも同じように、僕の顔をじっと見つめていた。
「どうしたの?」
答えは返ってこない。
代わりにレースが、人形を一つずつ指差した。
メル。クロム。レース。
そして、僕。
——僕の人形だけ、名前がない。
「……ああ」
そういえば、と思った。
僕は彼らに名前を与えた。クロム。メル。レース。けれど、僕自身には名前がなかった。
女神は僕のことを何と呼んでいただろう。「あなた」とか「そなた」とか、そんな曖昧な二人称だけで、固有の名前を与えられた記憶がない。
前の世界での名前は、もう思い出せない。思い出す必要もない気がしていた。あれは別の誰かの人生だ。
けれど今、ここで。
家族が僕を呼ぶための言葉が、どこにもなかった。
「困ったな」
呟くと、クロムが不安そうにこちらを見上げた。
違うよ、と僕は首を振る。困ったのは、君たちのせいじゃない。
名前がないことに気づかなかった自分自身に、少しだけ驚いているだけだ。
与える側でいることに慣れすぎて、与えられる側だった頃のことを忘れていた。
しばらく考えて、一つの言葉が浮かんだ。
「アニス」
声に出してみると、思ったより馴染んだ。
「僕の名前。アニスにする」
クロムが何度か口を動かした。声は出ない。けれど、形だけは追っているのがわかった。ア、ニ、ス。
メルがぷるん、と震えた。喜んでいるのか、困惑しているのか。たぶん両方だ。
レースは無言で、僕の人形——アニスの人形の胸元に、小さな刺繍を加えた。
何の文字かはわからない。けれど、それが僕の名前の代わりなのだと、すぐに理解できた。
「ありがとう」
レースが、ほんの少しだけ目を細めた。
名前を得たからといって、何かが劇的に変わるわけではない。
日々は相変わらず続いていく。メルが掃除をし、クロムが走り回り、レースが糸を紡ぐ。僕はそれを眺めながら、城の管理者としての仕事をこなす。
けれど、一つだけ変わったことがある。
クロムが僕を呼ぶ時、口の形が違う。声は出ないけれど、彼は確かに「アニス」と呼んでいる。
それだけで、胸の奥が温かくなった。
同時に、重くもなった。
名前を持つということは、失われる可能性を持つということだ。
彼らが「アニス」と呼ぶたびに、僕はここにいる。ここにいなければならない。この城が崩れれば、その名前を呼ぶ声も消える。
守らなければ。そのためには、力がいる。
* * *
ある朝、僕はついに限界を認めた。
魔力が足りない。
正確には、この階層で得られる魔力では、これ以上の拡張が難しい。冒険者たちが残していく血痕や恐怖は確かに糧になるけれど、それだけでは城を育てるには不十分だった。
「もっと深くへ行かないと」
地図はない。けれど、この洞窟がどこまでも続いていることは、空気の流れでわかっていた。
上からは人間たちがやってくる。では、下には何があるのか。
「クロム、一緒に来て」
名前を呼ぶと、彼はすぐに駆け寄ってきた。
レースとメルには留守番を頼む。二人とも、不安そうな——いや、レースは相変わらず無表情だけれど、スカートの裾を握る力が少しだけ強くなった。
「すぐ戻るよ」
約束する。
クロムが僕の隣に並び、メルが入り口まで見送りに転がってきた。
レースは何も言わなかった。ただ、僕のコートの裾に、こっそりと糸を一本結びつけた。
お守りのつもりだろうか。
僕はそれに気づかないふりをして、暗洞の奥へと足を踏み出した。
通路は、思ったより長かった。
途中から傾斜が急になり、空気が重くなっていく。
クロムは相変わらず軽やかだった。壁を蹴り、天井を這い、影のように僕の周囲を飛び回る。彼にとって、暗闇は故郷のようなものなのかもしれない。
やがて、壁の様子が変わった。
「……これは」
自然の岩肌ではない。
誰かが彫ったような、規則正しい紋様。読めない文字。
途方もなく古いが、確かに人の手が刻んだものだった。
「誰かが、ここにいたんだ」
かつて、この洞窟を使っていた誰かが。
クロムが鼻をひくつかせ、耳をぴんと立てた。
僕も気配を探る。
深い。重い。そして、とても古い何かが、この先にいる。
* * *
通路の終わりは、巨大な空間だった。
天井は見えない。闇が濃すぎて、どこまでが壁でどこからが虚空なのかもわからない。
けれど、そこに何かがいることだけは、すぐにわかった。
苔に覆われた、巨大な影。
岩のように動かない。けれど、生きている。息をしている。
——魔物だ。
今まで見たどんな魔物より大きく、どんな魔物より古い。
クロムが僕の前に出ようとした。制止する。
「待って」
僕は一歩前に出て、力を解放した。
雇用の力。
契約を結び、相手を従業員として迎え入れる力。
これまで、この力が失敗したことはなかった。
——けれど。
「……弾かれた」
力が、跳ね返された。
まるで見えない壁にぶつかったように、僕の意志は相手に届かなかった。
巨大な影が、ゆっくりと動いた。
苔が落ちる。埃が舞う。
そして声が響いた——低く、重く、洞窟そのものが喋っているような。
『……客か』
『久しいな。人の子よ』
「人じゃないよ」
僕は答えた。震えそうになる声を、必死に押さえながら。
「僕は——アニス。この上の階層を治める者」
『名を持つか』
影が少しだけ動いた。興味を示しているのか、それとも値踏みしているのか。
『我もまた、名を持つ。しかし呼ぶ者がおらぬ。もはや意味のない音の連なりよ』
「なぜ、僕の力が届かなかったの」
『契約は一つ。我は既に主を持つ』
影の声には、淡々とした諦観があった。
『かつてこの地を治めた者との契約が、今も我を縛っている。主が戻るまで、この深層を守り続けよ。それが我に与えられた命』
「その主は、どこに」
『知らぬ。去ったのか、滅んだのか。もはや確かめる術もない』
どれほどの時間が経ったのだろう。
主人を待ち続けて、苔に覆われるほどの歳月。永遠にも等しい孤独。
僕はクロムの方を見た。
彼もまた、じっと影を見つめていた。敵意はない。ただ、長い時間をかけて何かを思い出そうとしているような、静かな目だった。
彼もかつては、こうして暗闇の中で一人だったのだろうか。
「戦うつもりはないよ」
僕は両手を広げて見せた。武器を持っていないことを示すように。
「僕が欲しいのは魔力と、城を広げる場所。君の領域を侵すつもりはない」
『去れ』
拒絶は、即座だった。
影が、初めて興味を示した。
『我に交渉の余地はない。主の命に従うのみ』
「その主は、もういないんだろう?」
『おらぬ。ゆえに待つ。それが契約だ』
頑なだった。
当然だろう。彼にとって契約とは存在理由そのものだ。それを曲げろというのは、死ねと言うに等しい。
僕は別の問いを投げた。
「名前は?」
影が、わずかに揺れた。
『……何?』
「君の名前。さっき、呼ぶ者がいないと言っていた。でも、名前はあるんだろう?」
沈黙が降りた。
長い沈黙だった。洞窟の湿気が肌に染みるほどの、永い時間。
『……ゴルム』
ようやく絞り出された声は、錆びた鉄のようだった。
『我が名はゴルム。かつて、主はそう呼んだ』
「ゴルム」
僕は声に出して呼んだ。
影が——ゴルムが、大きく震えた。
『……久しいな。その響きは』
「僕もつい最近まで、名前がなかった」
クロムを見る。レースを思う。メルを思い出す。
「呼んでくれる誰かがいて、初めて名前になるんだと思う。君の主がいなくても、僕が呼べる。それじゃ駄目かな」
また、沈黙。
けれど今度の沈黙には、さっきとは違う色があった。
『……詭弁だな』
「そうかもしれない」
『主でもない者に呼ばれたところで、契約は変わらぬ』
「うん。でも、少しだけ楽にならない?」
『……分からぬ。楽とは何だ。我はもう、忘れた』
「じゃあ、思い出すまで呼ぶよ。ゴルム」
代わりに、長い溜息のような音が洞窟に響いた。
『……よかろう』
その言葉と同時に、空間の圧力が和らいだ。
『我とて、無意味な戦いは望まぬ。そなたが契約を守る限り、この先の道は開いたままにしておこう』
「ありがとう」
『礼は要らぬ。ただし——』
影が、奥の方を示した。
『主が残したものがある。我には読めぬ。そなたに読めるなら、持っていけ。——あるいは、これも主の遺志かもしれぬ』
「いいの?」
『我は番人であって、管理者ではない。守るべきは領域のみ。遺物の行方までは、命じられておらぬ』
不思議な論理だった。けれど、彼なりの誠意なのだろう。
僕は頭を下げて、奥へと進んだ。
小さな部屋があった。
かつては誰かの書斎だったのかもしれない。崩れかけた棚と、埃に埋もれた机。
その上に、二つのものが残されていた。
一つは、羊皮紙を綴じた手記。
もう一つは、丁寧に折り畳まれた地図。
地図を広げて、僕は息を呑んだ。
「……こんなに」
今僕がいる場所は、ほんの一角に過ぎなかった。
このダンジョンは、想像を遥かに超えて広い。深い。複雑に入り組み、階層を重ね、どこまでもどこまでも続いている。
手記を開く。
文字は読めない。けれど、ところどころに図解がある。
人型の輪郭。そこから伸びる線。結ばれる円。
——雇用の力についての、考察のように見えた。
「誰だったんだろう」
かつてこの場所を治めていた者。番人と契約を結び、この深層を作り上げた者。
僕と同じ力を持っていたのか。それとも、全く別の何かだったのか。
答えは見つからない。
けれど、彼がここにいたことだけは、確かだった。
帰り道、クロムは上機嫌だった。
戦わずに済んだことが嬉しいのか、新しい発見に興奮しているのか。たぶん両方だろう。
影のもとを通り過ぎる時、僕は足を止めた。
「また来てもいい?」
返事はなかった。
けれど、拒絶もなかった。
それで十分だと思った。
* * *
拠点に戻ると、レースが入り口で待っていた。
彼女は僕のコートの裾——自分が結んだ糸を確認して、小さく息をついた。
メルが転がってきて、僕の足にぺたりとくっつく。
クロムは真っ先に奥へ駆けていき、空腹を主張するように食料庫の方を指差した。
「ただいま」
僕は地図と手記を、レースに見せた。
「お土産」
レースは手記を受け取り、しばらく眺めた。
文字は読めないはずだ。けれど、図解には興味を示したようで、細い指でなぞるように辿っていく。
メルは地図の上をころころと転がり、やがて拠点の位置に落ち着いた。ここが自分たちの城だと、主張するように。
その夜、僕は手記を読み返していた。
読めない文字。意味のわからない図解。
けれど、ページをめくるたびに、かつてここにいた誰かの気配を感じる。
彼も同じように、仲間を集めて城を作っていたのだろうか。
番人を雇い、罠を仕掛け、訪れる者たちを迎え撃っていたのだろうか。
そして、なぜいなくなったのか。
——深追いは、しない。
今は、まだ。
僕にはやるべきことがある。守るべき家族がいる。
謎は謎のままでいい。いつか、答えが必要になる時が来たら、その時に考えればいい。
手記を閉じて、僕は横になった。
すぐ隣で、クロムが丸まって眠っている。少し離れたところで、レースが糸を編んでいる。入り口付近では、メルがぷるぷると震えながら見張りをしている。
家族がいる。
名前がある。
歴史を知った。
それでも変わらない、穏やかな時間が流れていく。
「おやすみ」
誰にともなく呟いて、僕は目を閉じた。
明日もきっと、今日と同じような一日が始まる。
掃除をして、罠を確認して、時々やってくる冒険者を追い返して。
それでいい。
それが、僕の——アニスの、日常なのだから。
魔物や精霊といった魔力生命体にとって、『名前』を持つことは特別な意味を持ちます。通常、彼らは「種族」という大きな枠組みの一部に過ぎず、個としての境界線は曖昧です。
そこに固有の『名』を与える行為は、彼らの存在を世界に楔として打ち込み、個としての輪郭を確定させる儀式に等しいものです。名を得た魔物は「ネームド」と呼ばれ、同種族の個体とは比較にならない速度で学習し、独自の進化を遂げる傾向にあります。
ただし、これには代償も伴います。
名付け親は、名付けた対象との間に魔力の経路を構築することになり、彼らが存在しているだけで常に一定量の魔力を消費し続けることになります。アニスが感じた「魔力不足」は、城の拡張だけでなく、無自覚に家族たちへ供給し続けている維持コストが増大していることも一因なのです。
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