第8話 プライドの音
地上に戻った僕たちを、湿った夜風が出迎えた。
レースは相変わらず服の裾を掴んだまま離さず、クロムは欠けたナイフを惜しそうに眺めている。
「新しいの買ってあげるから」
僕が言うと、クロムは不服そうに鼻を鳴らした。これがいいんだ、と主張するように柄を握りしめる。
最初の獲物を仕留めた刃には、きっと特別な意味があるのだろう。
帰り道、レースがふと足を止めた。
路地裏の壁に張られた紙を、じっと見つめている。
それは指名手配の貼り紙だった。粗い木版画で描かれた凶悪な顔が、夜風にはためいていた。
「気になる?」
レースは無言で受け取り、しばらく眺めた。
人間を観察している、というよりは、紙の繊維を品定めしているような目つきだった。
彼女にとって、世界はまだ素材の集合体でしかないのかもしれない。
城に戻ると、メルが入り口でぷるぷると震えていた。
待ちくたびれたのか、それとも僕たちの無事を確認して安堵しているのか。どちらにしても、彼女は僕の足元まで転がってきて、ぺたりと靴にくっついた。
「ただいま」
クロムが真っ先に奥へ駆けていく。空腹なのだ。
僕は苦笑しながら彼の背中を追い、途中でひらひらと動くものを見つけて足を止めた。
天井から、小さなコウモリがぶら下がっている。
こちらの気配に気づいたのか、慌てて羽ばたいて逃げようとするが、その動きは鈍い。おそらく迷い込んできて、出口を見失ったのだろう。
「クロム」
名前を呼ぶだけで、彼は意図を察した。
影が跳んだ。
音もなく壁を蹴り、天井に張り付いたクロムが、空中でコウモリの首を捻る。
呆気ないほど一瞬だった。獲物を手にした彼は、得意げに歯を剥いて笑う。
クロムの笑顔は、いつ見ても少しだけ物騒だ。
「僕の分も取っておいてね」
彼が頷くのを確認してから、僕は拠点の奥へ向かった。
レースは、僕が整えた寝床の近くで固まっていた。
所在なさげに立ち尽くす姿は、引っ越したばかりの子供が新しい部屋に馴染めずにいるようで、少しだけ胸が痛んだ。
「ここが君の城だよ」
レースは何も言わなかった。こくり、と頷いただけ。
食事の準備を終えた頃、レースがようやく動いた。
彼女は自分の指先から細い糸を引き出すと、何かを編み始めた。
その手つきは淀みなく、迷いがない。
やがて完成したのは、手のひらサイズの小さなネズミだった。糸で編まれたそれは、驚くほど精巧にクロムの姿を模している。
「……」
レースはそれを、僕に向かって突き出した。
無表情なまま、じっとこちらを見上げている。
「くれるの?」
こくり。
僕はそっとネズミを受け取った。糸の手触りは冷たかったが、不思議と温かみを感じた。
「ありがとう」
その言葉に、レースは小さく目を細めた。
笑っている、のだと思う。たぶん。
翌朝、僕は本格的な防衛の仕込みに取りかかった。
「レース、この茨を補強できる?」
市場で買った麻痺茨の蔓を差し出すと、彼女は無言で受け取り、しばらく眺めた。
それから細い指を動かし、糸を茨に絡めていく。
まるで刺繍を施すように丁寧に、しかし途切れることなく。
完成した茨は、元の面影がなかった。
糸に覆われた表面は鈍く光り、棘の一本一本が針のように鋭い。
試しにナイフで切りつけてみる。甲高い音がして、刃の方が欠けた。
「……完璧だ」
僕の声が少しかすれた。
レースは当然だ、と言うように小さく顎を引いた。
茨を設置し、糸を張り巡らせる作業は、思ったより時間がかかった。
レースは妥協を許さない。糸の角度が気に入らなければ何度でもやり直し、茨の配置が美しくなければ最初からやり直す。
レースにとって、罠は作品なのかもしれない。殺すための道具というより、自分の美学を表現するための何か。
僕はその職人気質が、嫌いじゃなかった。
三日後、すべての準備が整った。
入り口から拠点までの通路は、メルによって塵一つなく磨き上げられ、レースの糸によって透明な迷路と化していた。
肉眼では見えない。魔力探知でも捉えにくい。
踏み込んだ者は、気づかないうちに蜘蛛の巣の中心へと誘い込まれる。
「これで、誰が来ても大丈夫だね」
僕が言うと、クロムが嬉しそうに尻尾を振った。
いや、今は尻尾がないのだった。少年の姿のまま、お尻をふりふりさせている。それはそれで可愛いけれど、本人は気づいているのだろうか。
レースが差し出した新しい服に袖を通す。
黒いコートは、彼女の糸で織られた特別製だった。軽くて丈夫で、何より美しい。
「ありがとう。大事にするよ」
レースは相変わらず無表情だったが、その瞳の奥に、かすかな誇りの色が見えた気がした。
城は完成した。
あとは、客を待つだけだ。
* * *
その日、トトは珍しく浮き足立っていた。
「未踏の地下空洞だって」
酒場で拾った噂話を、彼は仲間たちに語って聞かせた。
「最近になって入り口が見つかったらしい。まだギルドに正式な依頼は出てないけど、先に調べておけば報酬の交渉で有利になる」
斥候のマルクが眉をひそめた。
「危ないんじゃないか。情報がなさすぎる」
「だからこそだよ」
トトは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「俺たちなら大丈夫だ。引き際さえ間違えなければ」
四人は翌朝、誰にも告げずに出発した。
トトを先頭に、斥候のマルク、魔術師のエマ、僧侶のガルド。
中堅の中でも実力派として知られた彼らは、これまで一度も仲間を失ったことがなかった。
慎重さと実力を兼ね備えた、理想的なパーティー。
だからこそ、少しの冒険心を抱くことを、誰も責められなかった。
地下への入り口は、思ったより簡単に見つかった。
岩壁の隙間から、生温い風が吹き上げてくる。
「空気が動いてる。奥は広いな」
マルクが呟き、ランタンを掲げて先行した。
最初の異変は、すぐに訪れた。
「……おかしい」
マルクが足を止めた。
彼は斥候として、無数の迷宮を踏破してきた。罠を見破り、敵の気配を察知し、仲間を安全に導くことが彼の誇りだった。
しかし今、その経験が警鐘を鳴らしている。
「何もない」
「罠がないのはいいことだろ」
トトが言うと、マルクは首を振った。
「違う。何もなさすぎる」
通路は異様なほど清潔だった。
小石一つ落ちていない。埃も蜘蛛の巣もない。壁は磨き上げられたように滑らかで、誰かが毎日、丁寧に掃除でもしているみたいだった。
「自然の洞窟じゃない……?」
エマが囁く。
「いや、構造は間違いなく自然のものだ。ただ、手入れされている」
マルクの声が低くなった。
「誰かが、ここに住んでいる」
四人は陣形を組み直した。
トトが前衛、ガルドがその背を守り、マルクとエマが後方へ。いつもの形だ。
——これで大丈夫。トトは自分に言い聞かせた。
これまで幾度となく彼らを生還させてきた、信頼の陣形。
けれど今、その信頼が揺らいでいた。
敵がいない。
どれだけ進んでも、魔物の影すら見えない。
それなのに、背筋を這い上がる悪寒だけが、確実に強くなっていく。
「戻るか?」
トトが振り返って尋ねた。
マルクは少し考え、首を振った。
「もう少しだけ。情報がなさすぎる。せめて何か、持ち帰れるものを」
その判断が、致命的だった。
通路が分岐した。
左右に道が伸び、どちらも同じように清潔で、同じように不気味だった。
「右だ。風がある」
マルクが判断し、先頭を進んだ。
その足が、何かに絡まった。
「——ッ!」
声を上げるより早く、マルクの体が前のめりに倒れ込んだ。
受け身を取ろうとした腕が、何かに阻まれる。見えない壁が、彼の動きを封じていた。
「マルク!」
ガルドが駆け寄ろうとして、彼もまた足を取られた。
衣服が裂ける音。悲鳴。
ガルドの太い腕に、赤い線が走っていた。
「動くな!」
エマが叫び、手にした杖に魔力を込めた。
「『光よ』」
眩い光が通路を満たす。
その一瞬、彼らは見た。
無数の糸が、空間を埋め尽くしていた。
天井から床へ。壁から壁へ。肉眼では捉えられないほど細く、複雑に絡み合い、息をするように揺れている。
それは蜘蛛の巣だった。
彼ら四人を包み込む、巨大な蜘蛛の巣。
「っ……!」
マルクが身をよじった瞬間、床が動いた。
いや、床ではない。床の下から、何かが這い出してきた。
蔓だった。
茨の蔓が、音もなく彼の足に巻きついていく。
「剣で!」
トトが叫び、剣を振り下ろした。
金属音。
刃が弾かれた。
茨は鋼のように硬く、彼の一撃を軽々と跳ね返した。
「嘘だろ……」
トトの声が震えた。
二度、三度と斬りつけるが、傷一つつかない。
それどころか、茨は彼の動きに反応して蠢き、じわじわと足元へ迫ってくる。
「魔物は!? 敵はどこだ!」
ガルドが周囲を見回す。
誰もいない。
どこにも、敵の姿は見えない。
ただ糸と茨だけが、意思を持つように彼らを絡め取っていく。
マルクの足に、棘が食い込んだ。
瞬間、彼の体から力が抜けた。
「毒……」
呻く声は、すでに掠れていた。
麻痺だ。全身に毒が回り始めている。
「撤退だ!」
トトが叫んだ。
「荷物を捨てろ! マルクを担いで逃げる!」
エマが魔法で糸を焼き切ろうとするが、間に合わない。
どこまでも無慈悲に、どこまでも効率的に、彼らを蹂躙していく罠。
けれど、不思議なことに、致命傷には至らなかった。
傷は浅く、毒は殺すほど強くない。
まるで侵入者を「殺す」のではなく、「追い返す」ことだけを目的にしているかのように。
彼らは這う這うの体で逃げ出した。
マルクを引きずり、何度も転び、それでも必死に走り続けた。
入り口に辿り着いた時、四人とも息が上がっていた。
振り返る。
暗闇の奥には、何も見えない。
追いかけてくる足音もない。
ただ、整然とした静寂だけが、彼らを見送っていた。
「……何だ、ありゃ」
ガルドが呻いた。
「誰もいなかった。誰も、何も」
トトの声は震えていた。
「なのに、俺たちは手も足も出なかった」
マルクの毒を中和し、傷の手当をしながら、四人は押し黙った。
プライドが砕けた音は、誰の耳にも届かなかった。
けれど確かに、何かが壊れたのだ。
中級冒険者としての矜持が。
「引き際さえ間違えなければ」という自信が。
* * *
夜、僕はクロムからの報告を受けていた。
と言っても、言葉ではない。彼は身振り手振りで、侵入者たちの慌てふためく様子を再現してみせた。
その演技はなかなかに上手で、思わず笑ってしまった。
「お疲れ様。二人とも」
クロムが得意げに胸を張り、レースが小さく頷く。
メルは通路の奥で忙しそうだった。冒険者たちが残していった血痕を、嬉しそうにぷるぷる震えながら舐め取っている。彼女にとっては、ご馳走なのかもしれない。
「これで噂が広まる」
僕は黒いコートの襟を正しながら呟いた。
「このダンジョンには何かがいる。でも、何がいるかはわからない。不気味なものには、誰だって近づきたくない。それでいい。」
殺す必要はない。怯えさせるだけでいい。
死体は恨みを残すけど、恐怖は人を遠ざける。
「さて」
僕は立ち上がり、闇の奥を見つめた。
「そろそろ、もう少し城を広げようか」
クロムが嬉しそうに跳ね回り、レースが無言でスカートの裾を摘む。
まだ見ぬ階層へ。まだ見ぬ誰かのもとへ。
冒険者が徒党を組む際、ギルドが推奨する基本形は四人一組の分業制です。
最重要視されるのは斥候で、彼らは先行して罠や魔物の気配を察知する、パーティの目であり耳として機能します。その情報を元に前衛が盾となって時間を稼ぎ、後衛の魔術師や僧侶が術を行使するのが、生存率を最も高める鉄則とされています。
もちろん少人数で潜る者もいますが、一度不測の事態に陥れば立て直す術を持たないため、深層への到達は困難を極めます。彼らのような中堅が評価されるのは、個の武勇以上に、この陣形を維持し互いの死角を埋め合う術を熟知しているからなのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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