第7話 準備完了
石のベンチに腰をおろすと、張りつめていた静寂が、とほうもなく間の抜けた音に破られた。
足元にうずくまった黒髪の少年、クロムが、自分のお腹をさすりながら首をかしげている。
「ウ、ア……?」
喉の奥からこぼれるのは、言葉の形をしていない風の音だけ。この身にふりかかった「空腹」というものを、彼はまだ知らないのだ。濡れた瞳が、すがるように僕を見上げている。
反対側からは、レースが気配もなく近寄ってきていた。
彼女は僕の袖を無遠慮につまむと、能面のような顔で自分の口元を指さす。沈黙こそが、もっとも雄弁なおねだりだった。
「……なるほど。燃料切れか」
不思議な感じがした。
管理者の僕には、肉体を保つための食欲がない。魔力が尽きれば眠るし、感情を少しすすればそれで足りる。
けれど、彼らは違う。人の形をしていても、中身は野生の獣だ。生きた肉と血を取りこまなければ、その器を維持することさえできない。
「よし、食事にしよう。その前に少しだけ、庭いじりに付き合ってくれないか」
外の世界と地下をつなぐ、たった一本の回廊。
市場で手に入れた『麻痺茨』の種を、僕は通路のわきにばら撒いた。
僕が思い描くのは、拒絶だ。誰ひとりとして通さない、悪意ある繁茂。
土の中で、種が爆ぜる音がした。
次の瞬間には地面が盛りあがり、どす黒い緑の蔦が一斉に噴きあがる。それらはのたうち回りながら岩肌を侵食し、あっという間に天井をふさぐ茨のトンネルになった。指ほどの長さがある棘の先からは、紫色の毒液が汗のようににじんでいる。
「うん、悪くない」
これなら、生半可な侵入者は足を踏みいれることすらできないだろう。
満足しかけた僕の視界の端で、レースがとことこと茨の前へ歩み出た。
あどけない顔立ちには似合わない冷ややかな瞳が、僕の作った防壁を見上げている。
「……雑」
鈴を転がしたような、けれど抑揚のない声が落ちた。
「え?」
「……隙間が、多い。これじゃ、鼠も通る」
ぽつり、ぽつりと彼女は言葉をつむぐ。
もともと魔物の彼女には言葉がなかった。けれどレースは、このダンジョンに迷いこむ人間たちをずっと見てきたのだ。命乞いをする者、仲間を呼ぶ者、最期に呪いを吐く者。彼らの声を拾い集め、真似ることで、彼女は言葉という道具を手に入れた。
レースは僕の防衛線を一刀両断すると、両手を広げ、あやとりのように細い指を躍らせはじめた。
人間がどう動き、どこへ逃げこむか。その癖を骨の髄まで知っている動きだ。
ヒュン、ヒュン。
指先から放たれたのは、目に見えないほど細い鋼鉄の糸。
それが茨の棘と棘の間を縫うように、何重にも張りめぐらされていく。
一見すれば、ただの茨の道。けれど一歩踏みこめば、麻痺毒で自由を奪われ、もがけばもがくほど、不可視の刃が肉を削ぐ処刑場になる。
「……これで、よし」
レースが小さく頷いた、その時だった。
鋭い悲鳴と一緒に、天井から黒い塊が落ちてきた。
茨の甘い匂いに誘われた、大きな洞窟コウモリだ。かわいそうな迷い子は、茨に触れた瞬間に痺れてしまい、落ちた先でレースの糸に絡め取られていた。
レースが指を、くい、と動かす。糸が縮み、獲物はあっけなく絶命する。
彼女はそれを無造作に引き寄せると、僕の前に差し出した。
ガラス玉のような瞳が、ただ一言「ごはん」と訴えている。
「……すごいな。食材の調達まで自動化してしまうとは」
コウモリを受け取り、魔力で皮と骨を取りのぞく。
今の僕には、火を通したり香草で臭みを消したりするような洒落た知識はない。それに、野生の彼らにとっては、したたるような生肉こそがご馳走だろう。
「さあ、おあがり」
切り分けた肉の塊を、皿代わりの大きな葉に乗せる。
二人は、待ってましたとばかりに飛びついた。
石を積んだだけの即席のテーブル。
そこに座るのは、幼さを残した少年と、人形のように整った少女。
けれど彼らがむさぼっているのは、血の匂いが濃厚に漂う生肉だ。
クロムは行儀悪く手づかみで肉に噛みつき、喉を鳴らして飲みこんでいく。レースは指先を汚さないよう器用に、けれど猛烈な速さで平らげていく。
その光景は背徳的で、どこか残酷な絵画のように美しかった。
魔素を含んだ湧き水を口に運びながら、僕はその様子を眺めていた。
僕の胃袋は何ひとつ満たされていないというのに、胸の奥がじんわりと熱をおびていく。
これが、「満ち足りる」ということか。
「ウッ! ガウッ!」
クロムが空になった葉を突き出し、見えない尻尾を振るように体を揺らした。
「はいはい、おかわりもあるよ」
饗宴が終わると、レースが僕の元へやってきた。
そして、僕がまとっている服――魔力で形作っただけの黒衣の袖を、つまんで引っ張った。
ビリッ。
乾いた音がして、袖口が裂ける。
「……おや」
僕が目を丸くすると、レースはふるふると首を振った。
「……偽物。脆い。……美しくない」
どうやら、彼女の職人魂に火がついたらしい。
これもまた、彼女の観察眼のせいだろう。かつてここで狩った高貴な人間たちの豪奢な装いを、その瞳は記憶しているのだ。僕の魔力製の服が、ひどく粗末な張りぼてに見えて仕方がないらしい。
レースは立ちあがると、指先から真珠色に輝く糸をつむぎ出しはじめた。それは殺戮のための糸ではない。柔らかく、それでいて強靭な絹糸だ。
指が舞う。
高速で編みあげられていく糸は、光の織物そのものだった。
クロムが食べ残したコウモリの革や、僕が採っておいた発光苔の繊維すらも織りこみながら、彼女は次々と作品を生みだしていく。
十分後。
レースが差し出したのは、三人分の新しい衣装だった。
クロムには、動きやすさを重視したショートパンツと、身軽なベスト。生地は滑らかだが、ナイフすら通さないほど強く編まれている。
レース自身には、フリルをふんだんにあしらったゴシック調のドレス。蜘蛛の巣を模したレース模様が、彼女の持つ冷ややかな空気に恐ろしいほど似合っていた。
そして僕には。
「……これは、いいな」
夜の闇を溶かして固めたような、漆黒のロングコート。
襟元には銀の糸で繊細な刺繍がほどこされ、動くたびに月光のような光沢が走る。
袖を通すと、羽衣のように軽いのに、肌へ吸いつくように馴染んだ。まるで僕の魔力回路とつながっているかのように、力の循環を助けてくれる感覚さえある。
ただの服ではない。これは一級品の魔導礼装だ。
「……主様は、王だから」
レースはぽつりとそう言って、満足げに自分のドレスの裾をひるがえした。
クロムも新しい服が気に入ったのか、その場でくるくると回って飛び跳ねている。
毒の華が咲き乱れる庭園。
血の匂いがかすかに残る食卓。
そして、夜会にでも出かけられそうな正装に身を包んだ、人ならざる「家族」たち。
僕は、自分の城を見わたした。
倒さず、奪わず、雇った結果がこれだ。
地上のどんな屋敷よりも、ここは恐ろしく、そしてどうしようもなく居心地がいい。
「ありがとう、レース。最高だよ」
微笑みかけると、レースは相変わらず無表情のまま、けれどほんの少しだけ誇らしげに、優雅なお辞儀をして見せた。
衣食住は整った。
守る力も申し分ない。
僕は新しいコートの裾をひるがえし、玉座代わりの石のベンチに深く腰かけた。
短く息を吐き、視線を天井のずっと上、地上のほうへと向けた。
「……よし」
準備は、もういい。
扉は開けておくから、あとは好きに入ってくればいい。
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