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第6話 ビターチョコレート

 坑道の奥は、雨の日の鉄棒みたいな匂いがした。


 露店で買った安物のナイフを、クロムは飽きもせずにいじり回している。鞘から抜いては刃を光にかざし、また戻す。カシャ、カシャ、という金属音が、一定のリズムで暗闇に吸い込まれていく。


「気に入った?」


 僕が聞くと、少年の姿をしたクロムは、鼻を鳴らして短く頷いた。


 言葉は話せない。けれど、その落ち着きのない背中を見れば、新しい玩具を与えられた子供のように高揚しているのがわかる。


 カンテラの火が、濡れた岩肌を頼りなく照らしている。


 僕たちは観光に来たわけじゃない。新しい「家族」を探しに来たのだ。


 不意に、クロムの足音が途絶えた。


 彼が鼻をひくつかせ、天井の暗がりを指差す。


 そこには、奇妙な果実がぶら下がっていた。


 かつて冒険者だったものだ。


 幾重にも白い糸で巻かれ、丁寧に梱包されている。中身がまだ生きているのか、それとも既に腐敗が始まっているのか、外側からは判別できない。


 クロムが僕を見上げ、自分の左胸をトントンと叩いてみせた。


 心臓は動いている。まだ温かい。


 だが、彼はすぐに首を傾げた。血の匂いがしない。あまりにも綺麗すぎる、と訴えている。


 その時、空気が裂けた。


 音よりも先に、殺気が肌を粟立たせる。


「――ッ!」


 クロムが喉の奥で鋭く空気を弾き、僕の襟首を掴んで強引に後ろへ引き倒した。


 一瞬前まで僕が立っていた場所に、銀色の線が突き刺さる。


 それは矢ではなく、楽器の弦よりも遥かに細い、美しい糸だった。岩盤に深々と縫い付けられたそれは、カンテラの光を受けて鋭利な輝きを放っている。


 天井から、銀色の雨が降ってきた。


 重力に従う雨ではない。明確な意思を持った、無数の刃物だ。


 クロムが腕を振るう。硬質な音が響き、火花が散った。


 安物のナイフの刃が、無惨に欠けている。


 クロムは瞬時に攻撃を諦め、刃の腹で糸を受け流す防御に徹した。


 カチ、カチ、カチ。


 暗闇の奥から、時計の秒針のような足音が響く。


 現れたのは、濡れた黒曜石のような甲殻を持つ巨大な蜘蛛だった。八つの赤い目が、侵入者である僕たちを無機質に見下ろしている。


 アイアン・ウィーバー。この迷宮の主だ。


 クロムが低く唸り、僕を背に庇う。自分が囮になるつもりだ。


 僕は無言でその肩に手を置き、制した。


 物質には、それぞれ耐えられない音がある。


 歌声でワイングラスが割れるように、どんなに硬い鋼にも、拒絶反応を示す振動数が存在する。


 僕は右手をかざした。イメージするのは、黒板を爪で引っ掻いた時のような、世界そのものを不快にさせる振動。


「『共振』」


 キィィィン……。


 指先から放たれた魔力が、波紋のように空気を震わせ、糸へと伝播する。


 張り詰めていた銀色の糸たちが、一斉に悲鳴を上げた。


 パキ、パキパキパキッ!


 冬の朝の薄氷を踏み砕くように、鋼鉄の糸が粉々に砕け散る。


 自重を支えられなくなった主が、重い音を立てて地面に落下した。


 仰向けにひっくり返ったその腹に、すかさずクロムが馬乗りになり、欠けたナイフを喉元に突きつける。


 クロムが僕の方を振り向く。


 その瞳は冷たく、『壊していいか?』と問いかけていた。


 僕は首を横に振り、ゆっくりと近づいた。


 地面に散らばった糸の欠片を拾い上げる。砕けてなお、それは宝石のようにキラキラと光り、触れる指を切り裂きそうだった。


「きれいな仕事だね」


 僕が言うと、蜘蛛の動きがピタリと止まった。


 クロムが呆気にとられた顔で口を開ける。殺されかけたのに、何を言っているんだコイツは、という顔だ。


「これだけの殺意を編み込めるなんて、才能だよ」


 僕はしゃがみ込んで、蜘蛛の赤い目を覗き込んだ。


 そこには、殺される恐怖よりも、自分の作品を批評された困惑の色が浮かんでいるように見えた。


「殺しはしないよ。ただ、僕の城にはカーテンがないんだ」


 僕は掌に『雇用』の光を灯した。


「その糸で、誰も通れない透明な迷路を作ってほしい。君の芸術を、殺戮じゃなくて防衛に使ってみないか?」


 蜘蛛はしばらくの間、僕と光を交互に見ていた。


 やがて、カチカチと小さく顎を鳴らすと、抵抗の力を抜いてだらりと足を投げ出した。


 それは、長い孤独な労働からの、静かな引退宣言に見えた。


――『操糸』の天賦を獲得しました。


 頭の中に響く無機質な通知音と共に、喉の奥にビターチョコレートのような苦味が広がる。


 寡黙な職人の味だ。


「交渉成立だね。名前は『レース』にしよう」


 僕が名付けると、クロムが不思議そうに首を傾げた。


 レース? なんだそれ、美味いのか?


「繊細で、でも絡め取ったら離さない布のことさ」


 さて、と僕は立ち上がった。


 このまま連れて帰るわけにはいかない。


 僕は『創成』の魔力を練り上げる。彼女の持つ静けさと、あの糸のような緻密さを形にするなら、これしかないだろう。


 光が収まると、そこには一人の少女が佇んでいた。


 艶やかな栗色の髪は、あの蜘蛛の腹部を思わせる光沢を帯びている。瞳は新緑のように鮮やかだが、硝子玉のように無機質で、どこか焦点が合っていない。


 フリルのついたワンピースに、白いエプロン。


 それは古い絵本から抜け出してきた可憐な少女のようでいて、同時に、あまりに白く滑らかな肌が、磨き上げられた磁器や、あるいは冷たい甲殻を連想させた。


「……」


 レースは無表情のまま、自分の掌をじっと見つめた。


 それから、スカートの裾をちょこんと摘んで、小さく膝を曲げる。


 カーテシー。


 誰に教わったわけでもないのに、その仕草は完璧だった。まるで、ずっと昔からそうすることに決まっていたかのように。


 クロムが目を丸くしてまじまじと彼女を見る。


 恐る恐る指先で彼女の腕をつつくと、レースは硝子玉のような目で彼を見返しただけだった。


 クロムは『変なやつ』とでも言うように鼻を鳴らすと、興味を失ったようにそっぽを向いた。


 レースはトコトコと僕の隣にやってくると、当然のように服の裾を掴んだ。


 無愛想な少年と、絵画のような少女。


 どこからどう見ても、手のかかりそうな兄妹だ。


「帰ろうか。お腹が空いた」


 僕が言うと、クロムが嬉しそうに喉を鳴らし、レースが無言でこくりと頷いた。


 地下の空気は相変わらず重く澱んでいたけれど、僕たちの足取りは、ここに来た時よりも少しだけ軽くなっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回もよろしくお願いいたします。

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