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第5話 陽だまり

 懐が温かいうちに、未来のための種をまいておくことにした。


 それはダンジョンの管理者としてというより、もっと原始的な、冬支度をするリスのような本能だったのかもしれない。


 市場は、ごった煮のスープみたいにいろいろな匂いで満ちていた。


 焼いたお肉の脂の匂い、異国の香辛料、人々の熱気。


 僕はその中を、水の中を泳ぐ魚みたいにするすると抜けて、種屋の軒先で足を止めた。


「おじさん、これください」


 僕が指差したのは、木箱の隅っこに追いやられていたドス黒い種だ。


 店主のおじさんは、商品と、僕の顔を二度見した。


「……お嬢ちゃん。そいつは『麻痺茨(まひいばら)』だぞ」


「うん、知ってます」

「花粉を吸うだけで牛がひっくり返るし、トゲに触れば三日は動けなくなる。園芸用じゃねえよ」


「そこが庭の虫よけにちょうどいいの」


 僕はにっこりと笑って、金貨を一枚、カウンターに置いた。


「……あんたんちの庭には、どんな虫が来るんだい」


「それはもう、大きくて質の悪いのが」


 おじさんは「聞かなきゃよかった」という顔をして、種を袋に詰めてくれた。


 きれいな庭には、とびきりの毒がなくちゃいけない。招かれざる客が、永遠の眠りにつけるような、ふわふわのベッドを用意してあげなくちゃ。


 次に寄ったのは、路地裏の古本屋さん。


 カビとインクの匂いがする静かな店内で、分厚い『魔物図鑑』と、表紙がカラフルな子供向けの絵本を選んだ。


「贈り物かい?」


 眼鏡をかけた老婆が、会計をしながら聞いてくる。


「えっと、まあ。弟の教育用に」


「弟さんはおいくつ?」


「生まれて……まだ数日、ですね」


「あらまあ! それはずいぶんと……早熟な赤ん坊だこと」


 老婆は目を丸くしたけれど、あながち嘘でもない。


 僕の可愛い家族たちは、いま急速に世界を知ろうとしている。ただ強いだけの獣じゃなくて、賢い家族に育てたいのだ。言葉も、知識も、たっぷりと教えてあげなくちゃいけない。


 最後に、道具屋のワゴンに放り込まれていた、安物の短剣を手に取った。


 飾り気のない、鉄のナイフ。錆びてはいないけれど、刃先は丸まっている。


「お嬢ちゃん、やめときな。そいつじゃリンゴの皮も剥けねえよ」


「構いません。お守りみたいなものですから」


 僕はそう言って、それも荷物に加えた。


 これから始める「人間ごっこ」には、こういう小道具が必要になる。「いつか使うかもしれない」と思って買っておくのが、旅の醍醐味というものだ。


 準備は整った。


 僕は軽い足取りで、街の東にある『赤鉄の坑道』へと向かった。


 けれど、人間の社会には、見えない壁がたくさんあるらしかった。


「だめだめ、帰りな」


 坑道の入り口で、門番のおじさんがシッシッと手を振った。


「ここは遊び場じゃないんだよ。魔物がうろつく場所に、そんなひらひらした服のお嬢ちゃんを一人で通すわけにはいかないね」


「……腕には自信がありますけれど」


 僕が袖をまくって見せると、おじさんは鼻で笑った。


「あのなぁ。うちの5歳の娘のほうが、まだ太い腕をしてるぞ」

「む」


 それは言い返せない。


 僕のこの体は、硝子細工みたいに華奢に作ってあるから。


「とにかく、許可証が欲しけりゃ保護者か相棒を連れてきな。それか、おとなしく家でおままごとでもしてるんだね」


 なるほど、と思った。


 人間たちは「守る」という名目で、異物を「排除」する。


 力ずくで通ることは簡単だ。でも、ここで騒ぎを起こして指名手配されるのは、賢いやり方じゃない。

 壁があるなら、壊すんじゃなくて、すり抜ければいいだけの話だ。


「……わかりました。出直します」


 僕は素直に頭を下げて、その場を離れた。


 誰もいない路地裏の、一番奥。


 腐った木箱と、野良猫しかいない静かな場所へ滑り込む。


 足元には、影みたいに寄り添っていたクロムがいる。


「さて、お着替えといこうか」


 僕は『創成』の力を、自分の体に巡らせた。


 粘土細工をこねるような、あるいは溶けた蝋を型に流し込むような感覚。


 硝子細工の少女の殻を脱ぎ捨てて、もっと背が高くて、もっと硬質な、男の人の体へと作り変えていく。


 数瞬のあと。


 銀髪のメイドはいなくなって、そこには黒髪の青年が立っていた。


 涼しげな目元に、自信たっぷりの笑みを浮かべた、いかにも「旅慣れた剣士」という姿だ。


「次は君の番だ、クロム」


 僕は足元の鼠を見下ろした。


 坑道に入るには、二人一組のほうが都合がいい。それに、いつまでも四つ足の姿じゃ、この世界を楽しむのに不便だもの。


「僕の力を分けてあげる。君の体を、人間と同じ形に編み直すんだ」


 クロムは一瞬きょとんとしたけれど、すぐに嬉しそうに鼻を鳴らした。


 僕が望むなら、どんな姿にだってなるよ、と言うみたいに。


 僕はしゃがみこんで、その小さな額に手を触れた。


 イメージするのは、風景に溶け込むような姿。


 誰の記憶にも残らないくらい静かで、でも僕の隣にいても不思議じゃない存在。


 ぽん、と煙のような光が弾けた。


 光が収まると、そこには一人の少年がうずくまっていた。


 さらさらとした黒髪は、春の陽だまりみたいに柔らかそうだ。


 顔立ちは線が細くて、どこか儚げで、少し強い風が吹けば折れてしまいそうな頼りなさを帯びている。


 魔力で織り上げた、パーカーみたいにゆったりした服が、彼の華奢な体を包んでいる。


「……あ、う……」


 クロムが自分の手を見つめて、不思議そうに声を漏らした。


 立ち上がろうとして、足がもつれてペタンと尻餅をつく。


 まだ二本足のバランスに慣れていないらしい。生まれたての子鹿みたいで、ちょっとかわいい。


「無理に動かなくていいよ。……ほら、これ」


 僕は鞄から、さっき買った絵本を取り出して、彼に手渡した。


「移動中はこれを読んでごらん。人間たちのふりをするなら、言葉は武器よりも大切だからね」


 クロムはおずおずとそれを受け取った。


 そして、真剣な顔で本を開く。……逆さまだ。


「クロム、反対」


 僕が直してあげると、彼は「なるほど!」という顔でこくこくと頷いた。本当にわかっているんだろうか。


 それから僕は、腰のベルトに差していた安物の短剣を抜いて、彼に差し出した。


「それから、これは君にあげる。僕の相棒としての証だ」


 少年の琥珀色の瞳が、驚きに見開かれる。


 彼は震える手で短剣を受け取ると、刃の匂いをくんくんと嗅いだあと、あやうく噛みつきそうになった。


「食べちゃだめだよ」


 僕が止めると、彼は少し残念そうに短剣を腰に吊るした。


 彼にとっては、切れ味なんてどうでもいいのだ。僕からの「贈り物」という事実が、黄金よりも価値があるみたいだった。


「よし。行こうか、クロム」


 もう一度、坑道の入り口へ戻る。


 門番は、さっきの少女が戻ってきたことになんて気づきもしない。目の前にいるのは、強そうな黒髪の剣士と、その弟分みたいなおとなしい少年だからだ。


「通行証を頼む」


「おう、二人組か。……おいおい、後ろの坊主、ひょろっとしてるけど大丈夫か? 魔物の餌になりそうな顔してるぞ」


 門番があきれたようにクロムを指差す。


 クロムはびくりと肩を震わせて、僕の背中に隠れた。


 門番のお弁当の匂いに反応して鼻をひくつかせているだけなんだけれど、端から見れば怯えているようにしか見えない。


 完璧な演技だ。いや、演技というより、天然なのかもしれないけれど。


「問題ないよ。彼はちょっと人見知りなだけで、仕事は早いから」


 僕が片目をつむってみせると、門番は呆れたように肩をすくめた。


「まあいいや。お兄ちゃん、弟を守ってやんなよ」


「ええ、もちろん」


 許可証を受け取って、薄暗い坑道の中へ、僕たちは足を踏み入れる。


 一歩、闇の中に踏み込んだ瞬間、背後の少年の気配が変わった。


 怯えたような猫背がすっと伸びて、水面下の氷みたいに冷たくて鋭いものが、静かに満ちていく。


 音もなく――本当に衣擦れの音ひとつ立てずに影のようについてくる、僕の最強の相棒。


 僕は口元をほころばせた。


 さあ、狩りの時間だ。

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