第4話 おかえり
主が「狩り」に出かけてから、半日が過ぎた。
俺――ジャイアント・ラットのクロムは、ダンジョンの入り口付近で鼻をひくつかせていた。
俺の仕事は留守番だ。
隣では、スライムのメルが何やら楽しそうに岩の表面を磨いている。こいつは呑気なものだ。主が帰ってくるまで、俺たちがこの城を守らなければならないというのに。
その時、風に乗って懐かしい匂いがした。
土と、不思議な魔力と、俺たちを従える絶対的な支配者の香り。
(主だ! 主がお戻りだぞ!)
俺は弾かれたように立ち上がり、尻尾を振って出迎えの体勢をとった。メルも動きを止め、プルプルと期待に震えている。
足音が近づいてくる。
俺は最敬礼で主を迎えるべく、姿勢を正した。どんな獲物を仕留めてきたのだろうか。きっと血の匂いを漂わせ、威風堂々と凱旋されるに違いない。
カツ、カツ、と軽い足音が響き、入り口の影から姿を現したのは――。
「……?」
俺は思わず首を傾げた。
そこに立っていたのは、ヒラヒラとした黒と白の奇妙な布を身に纏った、華奢な「メス」の人間だったからだ。
銀色の髪を二つに結い上げ、獲物を誘うような甘い容姿をしている。
敵襲か?
俺は喉を鳴らし、威嚇の体勢に入ろうとした。
だが、鼻が告げている。
この華奢なメスからは、間違いなく「主」の匂いがすると。
「……ただいま。二人とも、いい子にしてたかな?」
そのメスが口を開くと、聞き覚えのある主の声(トーンは少し高いが)が響いた。
「チュ、チューッ!?(あ、主!?)」
俺が目を白黒させて飛び上がると、主はくすりと笑った。
「ああ、この姿か。ちょっと人間たちを騙すために化けてきたんだよ」
主は自身のヒラヒラしたスカートをつまんで見せた。
「どうだ? 似合ってるか?」
俺は混乱した。
主は、オスではなかったのか? それとも、これが主の真の姿なのか? あるいは、強い魔物は性別すらも自在に操るというのか。
わからない。俺の小さな脳みそでは処理しきれない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この姿の主も、なんだか底知れなくて、凄味があるということだ。
「キュウ……(似合っております、たぶん)」
俺が困惑しながら鼻を擦り付けると、メルは気にした様子もなく、嬉しそうに主のブーツにまとわりついていた。こいつ、順応性が高すぎるだろ。
「ふふ、驚かせてごめんよ」
主は部屋の中央にある石のテーブルまで歩み寄ると、懐から革袋を取り出し、ジャラリと中身をぶちまけた。
黄金色の円盤が、山のように積み上がる。
「大収穫だ。これでしばらくは、国に税を払って堂々と資源を調達できる」
主は上機嫌で、今度は自分の唇を指先でなぞった。
「それに、食事のほうも極上だったよ。人間の中に溜まった澱があんなに美味だとはね……。デザートまで平らげた気分だ」
主の瞳が、肉食獣のようにギラリと光った気がした。
その瞬間、俺は本能的に理解した。
この可愛い見た目の中身は、やっぱり俺たちが敬愛する、恐ろしくも頼もしい主なのだと。
「さあ、着替えたら拡張工事の続きだ。忙しくなるぞ、クロム、メル」
「チュッ!(はいっ!)」
俺は元気よく鳴いて応えた。
主がどんな姿であろうと関係ない。俺は、この最強の主についていくだけだ。
* * *
同時刻。バルディア公爵邸。
豪奢な天蓋付きベッドの上で、エリスは目を覚ました。
窓から差し込む午後の日差しが眩しい。
いつもの朝なら、鉛のような倦怠感と、内側から食い破られるような痛みに襲われるはずだった。けれど今は、身体が羽毛のように軽い。
「……夢、じゃなかった」
エリスは自身の掌を見つめ、そっと握りしめた。
指先に力が籠もる。血が巡っているのがわかる。
長年、彼女を蝕んでいた「黒い霧」は、跡形もなく消え去っていた。
執事や医師たちは「奇跡だ」と騒ぎ、神に感謝を捧げていたけれど、エリスは知っている。
これは神様の仕業なんかじゃない。
「あの人……」
脳裏に焼き付いているのは、灰銀色の髪をした、美しいメイドの姿。
冷たく澄んだ瞳と、作り物めいた美貌。
彼女が額に触れた瞬間、あんなに苦しかった熱が、甘美な痺れと共に吸い出されていった感覚を、エリスは鮮明に覚えていた。
怖くなんてなかった。
むしろ、魂ごと持っていかれるようなあの瞬間に、エリスは生まれて初めての安らぎ――いいえ、悦びを感じてしまったのだ。
エリスはベッドから起き上がり、鏡台の前へと歩み寄った。
鏡に映る自分の顔色は良い。けれど、瞳の奥には満たされない渇望が灯っていた。
「名前も、聞きそびれてしまったわ」
ただの通りすがりだと言って、彼女は風のように去っていった。
「また会えるかしら。……いいえ、会わなくちゃ」
エリスは熱っぽくため息をつき、自身の頬を両手で包み込んだ。
あの冷たい手が触れた感触を、上書きしないように。
「私を救ってくれた、私の……」
公爵令嬢の部屋に、甘く重たい独り言が溶けていった。
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