第20話 蓋の隙間から
石の工房に、かつん、と足音が響いた。
ボックスは壁際で待っていた。いつもと同じ場所。木箱の姿のまま、蔦模様の金属板を光らせて。
「ボックス」
レースの声だった。
蓋がぱかりと開く。嬉しい。名前を呼ばれるのは、いつだって嬉しい。
レースは両腕に、紙袋を抱えていた。新しい布地の匂いがする。鉄と油の混じった、針の匂いも。それから、紙の匂い。型紙というやつだろう。
「これ、収納して。亜空間」
ボックスは蓋を大きく開けて、底を見せた。
レースが中を覗き込む。無表情だが、その視線は隅々まで走査するように動いている。
「……きれい。汚さないで」
もちろん。
ボックスは蓋をかたかたと鳴らして答えた。レースの買ってきたものは、レースの宝物だ。汚すはずがない。
布が、針が、型紙が、亜空間の中へと沈んでいく。ボックスの内側は見かけよりずっと深い。異次元に繋がっている。大切なものを、いくらでも預かれる。
「ありがとう」
レースはそう言って、工房の奥へと消えていった。
* * *
静かになった工房で、ボックスは蓋を半分だけ閉じた。
前の主人のことを、ときどき思い出そうとする。
でも、もう顔が浮かばない。声も、匂いも。ただ「いた」という事実だけが、空っぽの箱の底に転がっている。出涸らし。味のない契約。それがボックスだった。
だから、アニスに拾われたときも、どこか信じられなかった。
無味だったのに。何も残っていなかったのに。
『よろしくね、ボックス』
あの日、主はそう言って、蓋を軽く撫でた。それだけだった。特別なことは何もなかった。
でも、それだけで十分だった。
今は毎日、誰かが声をかけてくれる。名前を呼んでくれる。預かってほしいものを持ってきてくれる。
それだけで、蓋の隙間から光が差すような気持ちになる。
* * *
しばらくして、廊下から気配がした。
クロムだった。黒髪の少年の姿で、手に何かを握っている。
ボックスの前まで来ると、クロムはしゃがみ込んだ。黒い瞳が、深い穴のようにこちらを見つめる。
手のひらを開く。そこには、小さな石があった。訓練場の隅で拾ったのだろうか。黒くて、つるりとしていて、どこか影に似ている。
クロムは石をそっと差し出した。言葉はない。ただ、預けたいという意思だけが、その仕草から伝わってくる。
ボックスは蓋を開けた。
石が、亜空間の闇に沈んでいく。
クロムは小さく頷いた。満足げに目を細めて、立ち上がる。そのまま廊下の影へと溶けるように消えていった。
入れ替わりに、メルがやってきた。
半透明の緑色の身体が、床を滑るように近づいてくる。ボックスの角に、ぺたりと張り付いた。
何をしているのかと思えば、角に付いた埃を舐めとっているらしい。
掃除屋の習性だ。ボックスは動かずにじっとしていた。くすぐったい。でも、嫌ではない。
メルは満足したのか、ぷるんと身体を震わせて、また廊下の方へ滑っていった。
最後に、ノートが来た。
黒革の古い帳面が、ふわりと浮かんで近づいてくる。ページがぱらぱらとめくれた。
『整理とは記憶の形だ』
念話が、ボックスの中に響いた。
『何をどこに置くか。何を残し、何を捨てるか。それが、その者の歴史になる』
ボックスは蓋を小さく開閉させた。よくわからないが、たぶん、褒められている気がする。
ノートはもう一度ページをめくると、静かに棚の方へ戻っていった。
* * *
夜が更けた。
工房の空気が冷えてきた頃、廊下から軽い足音が聞こえた。
アニスだった。
漆黒のロングコートの裾が揺れている。銀のレース刺繍が、わずかな明かりを受けて光っていた。
主は工房を通り抜けようとして、ふと足を止めた。
ボックスの前で立ち止まる。
こつん。
蓋を、軽く叩かれた。
「おやすみ、ボックス」
それだけ言って、主は廊下の奥へと消えていった。
ボックスは、蓋をかたかたと鳴らした。
おやすみなさい、主。
声は出ない。でも、届いている気がした。
蓋の隙間から、廊下の暗がりを見つめる。もう誰もいない。足音も消えた。
それでも、ボックスは温かかった。
空っぽだった箱の中に、今は宝物がたくさん詰まっている。レースの布。クロムの石。メルが舐めとってくれた角の、少しだけきれいになった感触。ノートの言葉。
そして、主の「おやすみ」。
全部、ボックスの中にある。
蓋をそっと閉じて、ボックスは眠りについた。
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