表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/23

第17話 (後編) バルディアの娘

 午後。まだ太陽は天の高みにある。


 一組は、校舎裏の訓練場に集められた。


 午前中に見たときよりも、土はさらに踏みしめられている。別の組がすでに一度使ったらしい。靴跡がいくつも重なり、その合間に木屑や藁が散らばっていた。


 周囲には、打ち合い用の杭や、わら人形。砂のかけらと土埃の匂いに、汗と木の匂いが混ざる。


「さすがに初日から真剣を振り回させるほど俺も短慮じゃない」


 グレイン教官が、わら人形の近くの棚から木剣を数本引き抜いた。


「今日は木だ。本物はまた今度だ」


 ざわ、と安堵とも失望ともつかないざわめきが広がる。


「二人一組になれ。すぐ隣のやつと組め。まずは、今の“素の状態”を見せてもらう。これまでどこかで剣を習ったやつも、触ったことすらないやつも、全部ここで洗い出す」


 エリスは、隣のフィオナと目を合わせた。


「一緒に?」


「よ、よろしいんですか。わたし、本当に振り方……」


「わたしも似たようなものよ。教えられたわけじゃないから」


 木剣を一本取り、フィオナにも一本渡す。


 彼女は、恐る恐る柄の端のほうを掴んだ。


 両手で抱え込むような持ち方で、とても戦いの構えには見えない。


 周囲では、少年たちが「よろしく」「手加減しろよ」などと声を掛け合っている。


「グレイン教官ー!」


 どこかの列から声が上がった。


「女子どうしで組ませちゃっていいんですか? 危ないですよ」


 冷やかし半分、気遣い半分。


 教官は、眉ひとつ動かさなかった。


「ここに()()は一人もいない。いるのは士官候補生だけだ。お前ら、自分が相手にされてねぇとでも思ってるのか?」


 どっと笑いが起こりかけて、すぐに引っ込んだ。


「相手が女だろうが、公爵だろうが、王太子だろうが、前に立った敵に情けをかけたら、その場で死ぬ。そのつもりで打ち合え」


 フィオナが、エリスの袖口をぎゅっと握った。


「し、死ぬって軽く言いますね……」


「比喩であってほしいところね」


 エリスは、木剣を軽く振って重さを確かめる。


 実家の庭で使ったものと、握り心地はそう変わらない。違うのは、足元の土だ。ここには、見知らぬ足跡が無数に刻まれている。


 グレイン教官の声が飛ぶ。


「片方が打ち、片方が受けるか避けるか、好きにしろ。頭と顔は禁止。それ以外は、自分の身は自分で守れ。――始め!」


 一斉に、木が風を切る音が立った。


 エリスは、フィオナを見る。


「わたしから打つわ。危なそうだったら、すぐ下がって」


「は、はい……!」


 フィオナは、顔の半分を隠したまま木剣を構えた。


 といっても、構えにも何にもなっていない。棒切れを胸の前に抱えて、ただ縮こまっているだけだ。


 それでも、彼女の中の何かが必死に「怖い」と叫んでいるのが伝わってきて、エリスは無意識に動きを抑えた。


 胸の下に溜まっていた濁りが、じわ、と揺れる。


 何もせずにいると、これが全身に染み出してくる。


 庭で木剣を振ったときも、父と打ち合ったときも、それを外へ押し出すようにして動いていたのだと、今さらながら気づく。


(無茶をしなければ、大丈夫)


 息を整える。


 額に汗がにじむほどではないが、肺の奥が熱を帯びる。


 木剣を肩の高さまで上げる。肩から肘、手首へと力を移していく。


 振り下ろそうとした瞬間、フィオナの声がか細く割り込んだ。


「あ、待って……!」


 ぴたり、と腕が止まる。


「ご、ごめんなさい……。今の、すごく……変な感じがして」


「変な?」


「エリスさんの中の、魔力……? ぎゅっと結び目を作って、それを無理やり引きちぎろうとしているみたいで」


 フィオナは、前髪の奥で眉を寄せている。


 彼女には、見えているのだろう。


 自分の中の濁りが、どんなふうに動こうとしていたのかが。


 エリス自身には、ただ圧がかかるような感覚しかなかった。


「……ありがとう。気をつける」


 そう言ったとき。


「おい、そこの二人」


 グレイン教官の声が飛んだ。


「手遊びに来たなら、校門から出て帰れ」


「申し訳……」


 エリスが反射的に頭を下げる。


 教官は、二人のほうへ歩いてきて、フィオナをちらりと見た。


「スノウ。お前の体つきじゃ、今ここで木の棒を振り回しても碌なことにならん。そこに立って、目と耳を使え。いずれ、お前の得意なものを前に出す時が来るまでだ」


「……はい」


 フィオナは、木剣を胸の前に抱えたまま、小さく返事をした。


 教官の視線が、エリスへ移る。


「バルディア」


「はい」


「お前は、そこにいると物足りねぇ。おい、ガルド」


 訓練場の端で腕を組んでいた大柄な少年が、名を呼ばれて顔を上げた。


 肩幅はエリスの倍はあり、腕は丸太のように太い。


「お前だ。名前は」


「ガルド・ヴェインです、教官!」


「お前とバルディアが組め。女だからって甘く見たら、あとで俺がその頭を叩き割る」


「了解っす!」


 ガルドは、にやりと笑って前に出た。


 フィオナの指先が、エリスの袖を離そうとして、しかし迷ったようにまた掴む。


「エリスさん……気をつけて……」


「ええ」


 短く答え、エリスは数歩前に出た。


 ガルドと向き合う。


 目の前の少年は、明らかに力に自信がある目をしていた。


「ほんとにやっていいんすか? 俺、手加減あんまできねーですよ」


「それで結構だ」


 グレイン教官の言葉に、ガルドは満足そうに頷いた。


「合図で始めろ。――始め!」


 土を蹴る音と同時に、ガルドが踏み込んでくる。


 木剣が、横薙ぎに走った。


 風が頬を叩く。


 エリスは、一息分だけ後ろへ下がる。足裏に砂のざらつき。


 鼻先の前を木剣が通り過ぎ、そのまま空を切る。


「おっ」


 ガルドが僅かに目を見開いた。


 次の瞬間には、上段から打ち下ろしてきた。


 さきほどよりも、明確な重みが乗っている。


 避ければ済むかもしれない。だが、足場がまだ固まっていない状態で横に飛ぶのは危うい。


 エリスは、木剣を横に構え、正面から受け止めた。


 耳の奥が鳴るような衝撃。


 腕から肩へ、一気に圧がかかる。


 受け止めきれない――と思った瞬間。


 みぞおちのあたりに、貼りついていた冷たいものが、一気に崩れ落ちた。


 固まっていた泥水の塊に、亀裂が入る。そこから熱が噴き出す。


 沸き立った湯気が、そのまま血に混ざって全身に駆けていくような感覚。


 脈が一拍ごとに強くなる。


 背骨の内側を、乾いた火が走る。


 肘から先が、自分のものではないような軽さに変わった。


 叫び声をあげたかどうか、エリスには自覚がなかった。


 気がつけば、ガルドの木剣の重さを滑らせていなしていた。


 相手の力を受け止めず、横へ流す。


 足裏で土を蹴る。


 腰をひねり、肩を引き、振り上げた木剣をそのまま前へ。


 視界の端で、ガルドの胴がわずかに開いているのが見えた。


 その空白に向けて、体が勝手に線を引く。


 踏み込み。


 自分の奥から噴き出した熱が、そのまま木剣へ乗り移った気がした。


 木と肉がぶつかる音が、訓練場に響いた。


 胸の真ん中を叩かれたような音。


 ガルドの大きな体が、後ろに弾け飛ぶ。


 砂が舞い上がり、どさりと重い音が土に落ちた。


 訓練場に、ぴんと張りつめた静けさが降りる。


 あちこちで振り下ろされていた木剣が、ぴたりと止まっている。


 喉を鳴らす音だけが、あちこちから聞こえた。


 エリスの掌は、じんじんとしびれていた。


 けれど、剣そのものの重さは、ほとんど消えている。


 ついさっきまで体の内側を埋めていた重しが、どこかへ流れ出ていったような、妙な空虚さ。


 喉の奥に、鉄の味がわずかに上がってきた。


「がっ……は、……っ」


 地面に仰向けに倒れていたガルドが、大きく咳き込んだ。


 胸を押さえながらも、必死に笑おうとしている。


「いってぇ……。何だよ今の……っ。肺まで揺れたぞ……!」


 その声で、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。


「おい、あいつ……」


「バルディアの娘、ってやつか」


「今の一撃で、あの図体が飛んだぞ……」


 押し殺したささやきが、砂の上を滑っていく。


 エリスは、どう立っていればいいのかわからなくなりながら、木剣を握り直した。


 フィオナのほうを振り返る。


 彼女は両手で木剣を抱きしめたまま、その場に固まっていた。


 長い前髪の奥で、瞳が大きく見開かれている。


「エリスさん……今の……」


 か細い声。


「中に溜まってたもの、ぜんぶ……剣に流れていきました」


 興奮と、怖れと、憧れのようなものが混じった響き。


 グレイン教官が、土埃を踏み分けて近づいてきた。


 視線が、倒れたガルドをざっとなぞり、すぐにエリスに移る。


 足の位置。抉れた土。肩の高さ。木剣を握る指のかたち。


「一撃で、か」


 低く呟いた。


「エリス・フォン・バルディア」


「……はい」


 声がわずかに震えた。


「今のは、()()()出したか?」


 問われて、エリスは言葉に詰まる。


 狙ったわけではない。自分で制御して、あの一撃を作り出した、とはとても言えない。


 ただ、内側で行き場をなくしていたものが、勝手に道を探しあて、一番近くの出口から飛び出した――そんな感覚だ。


「……わかりません」


 正直に答えるしかなかった。


 教官は、ふっと鼻で笑った。


「なら、これからわかるように叩き込んでやる。無自覚の力ほど厄介なものはない」


 そう言って、周囲を見回す。


「見物は終わりだ。続けろ」


 木と木がぶつかる音が、また少しずつ訓練場に戻っていく。


 足元の土から立ちのぼる埃の匂い。


 その奥に、やはり、薄く鉄の匂いが混ざっていた。


 エリスは、胸のあたりをそっと押さえた。


 さっきまで沈んでいた黒い水は、いったんどこかへ引いた。


 しかし、完全になくなったわけではない。底のほうで、まだ重さが残っている。


 その感覚を確かめていると、横から小さな気配が近づいてきた。


「エリスさん」


 フィオナが、前髪の向こうからこちらをのぞき込む。


「さっき、少しだけ怖かったです。でも……同時に」


 言葉を選ぶように、彼女は短く息をついた。


「もし、いつか。わたしが魔術をもっときちんと扱えるようになったら……」


 木剣を胸に抱え込む腕に、そっと力がこもる。


「その力を借りて、エリスさんの中のそれを、今みたいに爆発させないで外へ出す方法、考えられるかもしれません」


 剣でぶつけるのではなく、別の形で放つ道。


 それが本当にできるのかどうか、今のエリスには見当もつかない。


 けれど、「いつか」という時間の先に、自分以外の誰かと立っている自分の姿が、ふと想像できた。


 エリスは、小さく頷いた。


「そのときまで、わたしもここで倒れずにいないとね」


「……一緒に、がんばりましょう」


 フィオナが、精一杯の声で言う。


 訓練場の上空を、薄い雲が流れていく。


 鉄と土と汗の匂いが、鼻腔の内側に張りつく。


 きっとこれからしばらく、この匂いは離れないだろう。


 胸の底に溜まった澱が、剣で削られるたび、その匂いも少しずつ、馴染んでいくに違いない。


 エリスは、木剣を握り直し、次の一歩を踏み出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークなどで

応援いただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ