第17話 (後編) バルディアの娘
午後。まだ太陽は天の高みにある。
一組は、校舎裏の訓練場に集められた。
午前中に見たときよりも、土はさらに踏みしめられている。別の組がすでに一度使ったらしい。靴跡がいくつも重なり、その合間に木屑や藁が散らばっていた。
周囲には、打ち合い用の杭や、わら人形。砂のかけらと土埃の匂いに、汗と木の匂いが混ざる。
「さすがに初日から真剣を振り回させるほど俺も短慮じゃない」
グレイン教官が、わら人形の近くの棚から木剣を数本引き抜いた。
「今日は木だ。本物はまた今度だ」
ざわ、と安堵とも失望ともつかないざわめきが広がる。
「二人一組になれ。すぐ隣のやつと組め。まずは、今の“素の状態”を見せてもらう。これまでどこかで剣を習ったやつも、触ったことすらないやつも、全部ここで洗い出す」
エリスは、隣のフィオナと目を合わせた。
「一緒に?」
「よ、よろしいんですか。わたし、本当に振り方……」
「わたしも似たようなものよ。教えられたわけじゃないから」
木剣を一本取り、フィオナにも一本渡す。
彼女は、恐る恐る柄の端のほうを掴んだ。
両手で抱え込むような持ち方で、とても戦いの構えには見えない。
周囲では、少年たちが「よろしく」「手加減しろよ」などと声を掛け合っている。
「グレイン教官ー!」
どこかの列から声が上がった。
「女子どうしで組ませちゃっていいんですか? 危ないですよ」
冷やかし半分、気遣い半分。
教官は、眉ひとつ動かさなかった。
「ここに女子は一人もいない。いるのは士官候補生だけだ。お前ら、自分が相手にされてねぇとでも思ってるのか?」
どっと笑いが起こりかけて、すぐに引っ込んだ。
「相手が女だろうが、公爵だろうが、王太子だろうが、前に立った敵に情けをかけたら、その場で死ぬ。そのつもりで打ち合え」
フィオナが、エリスの袖口をぎゅっと握った。
「し、死ぬって軽く言いますね……」
「比喩であってほしいところね」
エリスは、木剣を軽く振って重さを確かめる。
実家の庭で使ったものと、握り心地はそう変わらない。違うのは、足元の土だ。ここには、見知らぬ足跡が無数に刻まれている。
グレイン教官の声が飛ぶ。
「片方が打ち、片方が受けるか避けるか、好きにしろ。頭と顔は禁止。それ以外は、自分の身は自分で守れ。――始め!」
一斉に、木が風を切る音が立った。
エリスは、フィオナを見る。
「わたしから打つわ。危なそうだったら、すぐ下がって」
「は、はい……!」
フィオナは、顔の半分を隠したまま木剣を構えた。
といっても、構えにも何にもなっていない。棒切れを胸の前に抱えて、ただ縮こまっているだけだ。
それでも、彼女の中の何かが必死に「怖い」と叫んでいるのが伝わってきて、エリスは無意識に動きを抑えた。
胸の下に溜まっていた濁りが、じわ、と揺れる。
何もせずにいると、これが全身に染み出してくる。
庭で木剣を振ったときも、父と打ち合ったときも、それを外へ押し出すようにして動いていたのだと、今さらながら気づく。
(無茶をしなければ、大丈夫)
息を整える。
額に汗がにじむほどではないが、肺の奥が熱を帯びる。
木剣を肩の高さまで上げる。肩から肘、手首へと力を移していく。
振り下ろそうとした瞬間、フィオナの声がか細く割り込んだ。
「あ、待って……!」
ぴたり、と腕が止まる。
「ご、ごめんなさい……。今の、すごく……変な感じがして」
「変な?」
「エリスさんの中の、魔力……? ぎゅっと結び目を作って、それを無理やり引きちぎろうとしているみたいで」
フィオナは、前髪の奥で眉を寄せている。
彼女には、見えているのだろう。
自分の中の濁りが、どんなふうに動こうとしていたのかが。
エリス自身には、ただ圧がかかるような感覚しかなかった。
「……ありがとう。気をつける」
そう言ったとき。
「おい、そこの二人」
グレイン教官の声が飛んだ。
「手遊びに来たなら、校門から出て帰れ」
「申し訳……」
エリスが反射的に頭を下げる。
教官は、二人のほうへ歩いてきて、フィオナをちらりと見た。
「スノウ。お前の体つきじゃ、今ここで木の棒を振り回しても碌なことにならん。そこに立って、目と耳を使え。いずれ、お前の得意なものを前に出す時が来るまでだ」
「……はい」
フィオナは、木剣を胸の前に抱えたまま、小さく返事をした。
教官の視線が、エリスへ移る。
「バルディア」
「はい」
「お前は、そこにいると物足りねぇ。おい、ガルド」
訓練場の端で腕を組んでいた大柄な少年が、名を呼ばれて顔を上げた。
肩幅はエリスの倍はあり、腕は丸太のように太い。
「お前だ。名前は」
「ガルド・ヴェインです、教官!」
「お前とバルディアが組め。女だからって甘く見たら、あとで俺がその頭を叩き割る」
「了解っす!」
ガルドは、にやりと笑って前に出た。
フィオナの指先が、エリスの袖を離そうとして、しかし迷ったようにまた掴む。
「エリスさん……気をつけて……」
「ええ」
短く答え、エリスは数歩前に出た。
ガルドと向き合う。
目の前の少年は、明らかに力に自信がある目をしていた。
「ほんとにやっていいんすか? 俺、手加減あんまできねーですよ」
「それで結構だ」
グレイン教官の言葉に、ガルドは満足そうに頷いた。
「合図で始めろ。――始め!」
土を蹴る音と同時に、ガルドが踏み込んでくる。
木剣が、横薙ぎに走った。
風が頬を叩く。
エリスは、一息分だけ後ろへ下がる。足裏に砂のざらつき。
鼻先の前を木剣が通り過ぎ、そのまま空を切る。
「おっ」
ガルドが僅かに目を見開いた。
次の瞬間には、上段から打ち下ろしてきた。
さきほどよりも、明確な重みが乗っている。
避ければ済むかもしれない。だが、足場がまだ固まっていない状態で横に飛ぶのは危うい。
エリスは、木剣を横に構え、正面から受け止めた。
耳の奥が鳴るような衝撃。
腕から肩へ、一気に圧がかかる。
受け止めきれない――と思った瞬間。
みぞおちのあたりに、貼りついていた冷たいものが、一気に崩れ落ちた。
固まっていた泥水の塊に、亀裂が入る。そこから熱が噴き出す。
沸き立った湯気が、そのまま血に混ざって全身に駆けていくような感覚。
脈が一拍ごとに強くなる。
背骨の内側を、乾いた火が走る。
肘から先が、自分のものではないような軽さに変わった。
叫び声をあげたかどうか、エリスには自覚がなかった。
気がつけば、ガルドの木剣の重さを滑らせていなしていた。
相手の力を受け止めず、横へ流す。
足裏で土を蹴る。
腰をひねり、肩を引き、振り上げた木剣をそのまま前へ。
視界の端で、ガルドの胴がわずかに開いているのが見えた。
その空白に向けて、体が勝手に線を引く。
踏み込み。
自分の奥から噴き出した熱が、そのまま木剣へ乗り移った気がした。
木と肉がぶつかる音が、訓練場に響いた。
胸の真ん中を叩かれたような音。
ガルドの大きな体が、後ろに弾け飛ぶ。
砂が舞い上がり、どさりと重い音が土に落ちた。
訓練場に、ぴんと張りつめた静けさが降りる。
あちこちで振り下ろされていた木剣が、ぴたりと止まっている。
喉を鳴らす音だけが、あちこちから聞こえた。
エリスの掌は、じんじんとしびれていた。
けれど、剣そのものの重さは、ほとんど消えている。
ついさっきまで体の内側を埋めていた重しが、どこかへ流れ出ていったような、妙な空虚さ。
喉の奥に、鉄の味がわずかに上がってきた。
「がっ……は、……っ」
地面に仰向けに倒れていたガルドが、大きく咳き込んだ。
胸を押さえながらも、必死に笑おうとしている。
「いってぇ……。何だよ今の……っ。肺まで揺れたぞ……!」
その声で、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。
「おい、あいつ……」
「バルディアの娘、ってやつか」
「今の一撃で、あの図体が飛んだぞ……」
押し殺したささやきが、砂の上を滑っていく。
エリスは、どう立っていればいいのかわからなくなりながら、木剣を握り直した。
フィオナのほうを振り返る。
彼女は両手で木剣を抱きしめたまま、その場に固まっていた。
長い前髪の奥で、瞳が大きく見開かれている。
「エリスさん……今の……」
か細い声。
「中に溜まってたもの、ぜんぶ……剣に流れていきました」
興奮と、怖れと、憧れのようなものが混じった響き。
グレイン教官が、土埃を踏み分けて近づいてきた。
視線が、倒れたガルドをざっとなぞり、すぐにエリスに移る。
足の位置。抉れた土。肩の高さ。木剣を握る指のかたち。
「一撃で、か」
低く呟いた。
「エリス・フォン・バルディア」
「……はい」
声がわずかに震えた。
「今のは、狙って出したか?」
問われて、エリスは言葉に詰まる。
狙ったわけではない。自分で制御して、あの一撃を作り出した、とはとても言えない。
ただ、内側で行き場をなくしていたものが、勝手に道を探しあて、一番近くの出口から飛び出した――そんな感覚だ。
「……わかりません」
正直に答えるしかなかった。
教官は、ふっと鼻で笑った。
「なら、これからわかるように叩き込んでやる。無自覚の力ほど厄介なものはない」
そう言って、周囲を見回す。
「見物は終わりだ。続けろ」
木と木がぶつかる音が、また少しずつ訓練場に戻っていく。
足元の土から立ちのぼる埃の匂い。
その奥に、やはり、薄く鉄の匂いが混ざっていた。
エリスは、胸のあたりをそっと押さえた。
さっきまで沈んでいた黒い水は、いったんどこかへ引いた。
しかし、完全になくなったわけではない。底のほうで、まだ重さが残っている。
その感覚を確かめていると、横から小さな気配が近づいてきた。
「エリスさん」
フィオナが、前髪の向こうからこちらをのぞき込む。
「さっき、少しだけ怖かったです。でも……同時に」
言葉を選ぶように、彼女は短く息をついた。
「もし、いつか。わたしが魔術をもっときちんと扱えるようになったら……」
木剣を胸に抱え込む腕に、そっと力がこもる。
「その力を借りて、エリスさんの中のそれを、今みたいに爆発させないで外へ出す方法、考えられるかもしれません」
剣でぶつけるのではなく、別の形で放つ道。
それが本当にできるのかどうか、今のエリスには見当もつかない。
けれど、「いつか」という時間の先に、自分以外の誰かと立っている自分の姿が、ふと想像できた。
エリスは、小さく頷いた。
「そのときまで、わたしもここで倒れずにいないとね」
「……一緒に、がんばりましょう」
フィオナが、精一杯の声で言う。
訓練場の上空を、薄い雲が流れていく。
鉄と土と汗の匂いが、鼻腔の内側に張りつく。
きっとこれからしばらく、この匂いは離れないだろう。
胸の底に溜まった澱が、剣で削られるたび、その匂いも少しずつ、馴染んでいくに違いない。
エリスは、木剣を握り直し、次の一歩を踏み出した。
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