第2話 掃除と理解
湿った岩肌を、どこまでも歩く。
歩き始めてから、どれほどの時間が経過しただろうか。
腹の奥が重い。魔力が減っている証拠だ。
だが、まだ底をついたわけではない。
身体の芯には残り火のような熱があり、いざとなれば魔法を行使するだけの余力は残されている。
「……それにしても」
僕はため息交じりに、周囲を見渡した。
「これじゃあ、落ち着いて休むこともできないな」
足元には小動物の骨が散らばり、天井からは正体不明の粘液が垂れている。
空気は淀み、鼻をつく腐敗臭が充満していた。
いずれここは城となる。僕と仲間たちが寝食を共にする「家」になるのだ。
こんな荒れ果てた場所では、僕も、そして相棒のクロムも心休まらないだろう。
「チューッ!」
先行して偵察に行っていたクロムが、短い警告音を上げて戻ってきた。
僕の思考を遮るように、奥の暗がりから何かがズルズルと這い出してくる。
半透明の緑色をした、不定形の物体。
スライムだ。
ダンジョンにおける最下層の掃除屋と言われる魔物。
彼らは本来、臆病な掃除屋だ。それなのに、なぜこんな通路の真ん中に?
よく見れば、スライムの背後には、小動物の骨が散乱していた。
そうか、クロムのような捕食者が食べ散らかした残飯の臭いに釣られて、ここまで上がってきたのか。
だが、野生のそれは気が立っているようだった。
鼻を焼くような酸の臭気。ゆらりと身体を持ち上げ、こちらを威嚇している。
「ギッ!」
クロムが低い唸り声を上げ、僕を守ろうと前に飛び出した。
速い。最初の頃より動きにキレがある。だが、
「待て、クロム! 不用意に触るな!」
僕の制止は一瞬遅かった。
クロムの鋭い爪がスライムの横っ腹を切り裂く。
しかし、ゼリー状の体は衝撃を吸収し、傷口は瞬く間に塞がってしまう。それどころか、スライムの表面が波打ち、カウンターのように体液が飛散した。
「ギャッ!?」
クロムが悲鳴を上げてバックステップする。
前足の体毛が、ジリジリと白煙を上げて焦げていた。
「くっ、やっぱり相性が悪いか」
物理的な打撃は効きにくい。おまけに接触すればこちらの身が削られる。
スライムはさらに追撃しようと、全身を鞭のようにしならせた。
僕は半身になって前に出る。
殺すつもりはない。
僕はスライムの足元の地面を凝視する。
スライムの体はほとんどが水だ。ならば、その足場を変えてしまえばいい。
天賦、『創成』発動。
僕が残りの魔力を流し込むと、スライムが接している岩盤の性質が一瞬で書き換わった。
硬く湿った岩が、白く乾いた多孔質の石――強烈な吸水性を持つ物質へと変質する。
ジュワアアア……!
蒸発音と共に、スライムの底面から水分が奪われていく。
「――ッ!?」
声帯を持たないスライムが、驚いたように身を縮こまらせた。
地面に触れれば触れるほど体内の水分が奪われる。スライムはたまらず動きを止め、しおしおと小さくなってしまった。
ほんの十数秒。
そこには、戦意を喪失し、干からびかけた緑色のゼリーが震えていた。
僕は小さく息を吐き、動けなくなったスライムの前でしゃがみ込んだ。
魔力は減ったが、まだ枯渇はしていない。
「痛い思いをさせたね。……君、いい動きだったよ」
敵意が消えたことを確認し、僕は手を差し伸べる。
その溶解能力も、物理耐性も、素晴らしい才能だ。
何より、この孤独な地下世界で出会った貴重な隣人だ。
「僕らの仲間にならないか? 悪いようにはしない」
天賦、『雇用』。
僕の掌から溢れた温かな金色の光が、スライムを包み込む。
クロムの時とは違う。喉の奥に、ひんやりとした清涼感が流れ込んできた。
雨上がりの森のような、あるいは澄んだ湧き水のような、混じりけのない冷たい味。
拒絶の色はなかった。むしろ、群れを見つけたような安堵の気配が伝わってくる。
――『溶解』の天賦を獲得しました。
――『流体操作(微)』の天賦を獲得しました。
新しい絆が結ばれた感覚。
「今日から君は『メル』だ。よろしく頼むよ」
僕が『創成』で周囲の岩から水分を抽出して与えてやると、メルは水を吸ったスポンジのようにプルプルと元気を取り戻した。
緑色の体が、僕の足元にすり寄ってきた。ひんやりしていて気持ちいい。
「っと、その前に」
僕は痛みに耐えているクロムを抱き上げた。
酸で焼かれた前足に手をかざし、治癒を施す。
「ごめんなクロム、痛かったろ。守ろうとしてくれてありがとう」
魔力がさらに減る感覚があるが、不思議と惜しくはなかった。
大事な家族の怪我が治るなら、安いものだ。
「よし、治ったな。……ほら、仲直りだ」
僕が促すと、クロムはバツが悪そうに鼻を鳴らし、メルにつんつんと鼻先を近づけた。メルも悪意がないことを示すように、ぽよんと体を揺らす。
うん、これならうまくやっていけそうだ。
僕は立ち上がり、これまでの道程――荒れ果てた洞窟を見渡した。
新しい家族も増えたことだし、まずはやるべきことがある。
みんなが安心して眠れる場所を作ろう。
「メル。床に落ちている骨や腐ったもの、それから天井の汚れを食べてくれないか? お腹いっぱい食べていいぞ」
メルは了解したように一度大きく伸びをすると、嬉々として移動を開始した。
壁を這い、天井を伝い、床を行く。
メルが通った後は、長年こびりついた汚れが嘘のように消え失せ、清潔な岩肌が顔を出した。
その時だった。
僕の身体の奥に、温かい力が流れ込んできたような感覚があったのは。
すり減っていた精神が、じんわりと潤っていく。
『魔力上納』。配下が魔力を摂取することで、そのエネルギーの一部が僕にも還元されているのだ。
メルが掃除をすればするほど、僕の魔力も満たされていく。
干上がりかけていた泉に、水が注ぎ込まれる確かな実感。
「これなら……もっといい場所にできる」
先ほどまでの気だるさが嘘のように、指先に力が戻ってくる。
僕は掃除が終わった場所から、『創成』の力を行使し始めた。
ゴツゴツとして座り心地の悪かった岩肌に手を触れる。
イメージするのは、堅牢で温かみのある石造りの家。
歪んで波打っていた床を、継ぎ目のない一枚岩のように平らにならす。これならクロムが走り回っても足を挫かないだろう。
壁には等間隔に窪みを作り、そこに先ほど採取した発光苔を植え付ける。
暗い洞窟を、柔らかく落ち着いた青白い光が包み込んでいく。
一時間後。
作業を終えた僕は、空間の中央に作った石のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
そこはもう、薄気味悪い鍾乳洞ではなかった。
磨かれた床は光を反射し、空気すらも清浄なものに入れ替わったように感じる。
水の滴る音だけが、心地よい音色として反響している。
「……うん、悪くない」
完璧な城には程遠いが、最初の拠点としては上出来だ。
整えられた空間に身を置くと、散らばっていた思考がクリアになっていくのを感じる。
「チュー」
足元には、すっかり機嫌を直したクロムが座り込み、その隣で満腹になったメルがプルプルと揺れている。
僕の、大切な仲間たち。
僕は胸の奥を押さえた。
環境は整い、メルのおかげで魔力切れの心配も遠のいた。
だが、ここで満足するわけにはいかない。
もし強敵が現れて彼らが傷ついたら?
今の僕の魔力では、彼らを守り切れないかもしれない。
真の安全圏を築き、家族を守るには、もっと多くの力が必要だ。
「よし」
僕は立ち上がり、ベンチを軽く叩いた。
拠点はできた。次は資源の確保だ。
「行くぞ、二人とも。もっと深く潜って、魔力のありかを探すんだ」
この地下世界には、僕ら以外にも魔物がいる。あるいは、魔力の源泉となる鉱脈があるかもしれない。
僕がここで生き抜き、皆が笑って暮らせる城を作り上げるためには、まだまだ喰らわねばならない。
クロムが勇ましく鳴き、メルが同意を示すように体を伸ばす。
背後の青白い光が、唯一の安全地帯として闇の中に浮かんでいる。
その光を背に、僕は未踏の暗闇へと足を踏み出した。
背中に感じる二つの気配が、少しだけ心強かった。
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