第17話 (前編) フィオナ・スノウ
息を吸うたびに、舌の奥がひりついた。
鉄の匂いだった。
油を差した留め金。鎧どうしが擦れる音。遠くから届く、打ち合う金属の響き。
王立士官学校の正門は、バルディア本邸の城門ほど荘厳ではない。灰色の石を積み上げ、上部に王家の紋章と、簡素な鉄の槍飾りが据えられているだけだ。
けれど、その向こうから吹き込んでくる空気は、屋敷のそれとはまるで別物だった。
戦場へ出る前。出陣の朝の匂い――本で読んだ言葉が、ふいに腑に落ちる。
馬車の踏み段に足をかけ、エリスは石畳に降り立った。
靴底越しに、冷たく硬い感触。砂がわずかに散っていて、きゅ、と細い音が鳴る。
冬の名残の冷気が頬を撫でる。だが、校内から立ちのぼる熱気が、それを押し返してきた。見えない炎が、人いきれとともに揺れている。
正門の前には、新入生らしき少年たちが列を作っていた。
深い紺色の詰襟。銀の飾り紐。自分と同じ制服。
その列の中に、一人だけ、雪が落ちたような色が混じっている。
肩のあたりで切りそろえられた髪。白に近い、淡い銀色。長い前髪が、顔の半分をすっぽりと覆っていた。
細い首。頼りなげな肩。制服が少し余っていて、布の皺が腕のあたりに寄っている。
彼女は列の端で、誰にも触れないようにとでもいうように、小さく身を縮めて立っていた。
銀色の髪――。
一瞬、胸が反射的に収縮する。
(……ちがう)
喉の奥に浮かび上がった記憶を、エリスはすぐに押し戻した。
あの人の銀は、硝子のように硬く冷たかった。この少女のそれは、柔らかい綿のようで、少しの風にも揺らいでしまいそうだ。
「エリス・フォン・バルディア様でいらっしゃいますね」
門の脇で待っていた年配の書記官が、名簿を抱えて近づいてきた。
丸眼鏡の奥の目が、ひととおりエリスの体格をなぞる。
「ようこそ。こちらにお名をご記入ください。ご家族の方は――」
「父は、ここまでで十分だと申しました」
エリスはペンを受け取り、行を探す。
細いインクの線が、紙の上に自分の名を描いていく。
背後で、バルディア公爵の乗った馬車が向きを変える音がした。ひづめが石畳を打ち、車輪が遠ざかっていく。
ここから先は、一人だ。
「では、列の最後尾へお並びください。入学式ののち、教場と寮の案内をいたします」
「承知しました」
列に加わった途端、いくつもの視線が、糸のように纏わりついてきた。
「本当に来たんだ……」
「バルディア公爵家の令嬢だろ?」
「昔、一度だけ見たことがある。あの時は、もっと……」
「ひどく痩せてて、今にも倒れそうだったって話だろ?」
押し殺した声。好奇と、測ろうとする色。
病室で、珍しい症状を覗き込む医師たちの目を思い出す。
けれど、ここにある目線には、哀れみはなかった。その分、まだましだ。
胸の奥、心臓の下あたりで、重たいものがぐずぐずとうごめいた。
水底に沈んだ黒い泥を、誰かが棒で突いたような感覚。
(……また)
ひっそりと息を吐く。
動かずにいれば、この濁りはあっという間に全身に広がる。あの頃のように、体の内側を重石で満たして、寝台に貼りつけにしてしまう。
それだけは、もうごめんだ。
肺の奥まで空気を落とし込み、数拍かけて押し出す。
さきほどの銀色の髪の少女が、そっと距離を詰めてきた。
前髪の隙間から、こちらをうかがう気配がある。
エリスと視線が合いそうになると、彼女は慌てたように頭を下げた。
「あの……ご、ごめんなさい。近すぎましたか」
小さな声。壊れ物に触れる前に指先を引っ込める人のような、おずおずとした調子。
「いいえ。邪魔ではないわ」
エリスも、わずかに腰をかがめて返す。
「エリス・フォン・バルディアです。エリスと呼んでください」
「……っ」
銀の髪の少女は、胸元をぎゅっと握った。
「フィオナ・スノウと申します。フィオナで……その、フィオでも」
顔の上半分は隠れているのに、頬が赤くなっているのがわかった。
覗いた片方の瞳は、薄い雲を透かした空のような灰青色。怯えと、それでも消えない好奇心が宿っている。
「よろしく、フィオナ」
「よ、よろしくお願いいたします……!」
彼女はそれだけを言うと、肩をすくめるようにしてまた前を向いた。
細い背中が、制服の布の中で少し震えている。
庇護、というには大げさだ。
ただ、こんな場所の風に長くさらしていると、削れてしまいそうだと、直感で思った。
* * *
入学式は、淡々と進んだ。
大講堂に新入生が整列する。壇上には王の名代の文官と、士官学校長。
椅子はなく、全員が立ったまま話を聞く。
覚悟のない者は、ここで足から音を上げるのだろう。
年配の校長が、一歩前に出た。
「諸君」
くぐもったが通る声だった。
「ここは、身分を量る秤ではない。貴族であろうと平民であろうと、剣を執って立つ以上、その先にあるのは戦場だ」
石壁が、言葉を反射してあちこちへ投げ返す。
「生まれつき強靭な肉体であろうと、長い病から起き上がってきた身であろうと、矢は選んで飛んではくれん。魔術の才があろうとなかろうと、刃は同じように肉を裂く」
魔術、という単語に、フィオナの肩がびくりと揺れた。
「ここで学ぶのは、そうした場所に立ってなお、帰ってくる術だ。それだけだ」
校長は、それ以上飾った言葉を重ねなかった。
簡潔な訓辞のほうが、かえって重かった。
式が終わると、クラスごとに分けられる。
「一組はこっちだ!」
大講堂の出口で、がなり声が飛んだ。
声の主は、三十代半ばほどの男だった。浅黒い肌、刈り上げた黒髪。目尻と額に、深い皺が刻まれている。
士官学校の軍服の襟元には、教官の徽章。腰には、使い込まれた剣。
「一組担当教官、ラウル・グレインだ」
男は、列をざっと見渡した。
「ここでの父親だと思え、と昔は言ったもんだが、やめた。父親だと甘えるやつが出る。ここで俺がなるのは、葬式のときに名前を読み上げるやつだ。自分の名を聞きたくなかったら、勝手にしがみついて生きろ」
どっと笑いが起こる。
緊張を紛らわせるための笑いだ、とエリスにはわかった。
フィオナは、笑う余裕もないように、ただ息を詰めている。
「グレイン教官……やっぱり、こわそうです」
小さく囁くと、かすかに震えた。
「噂を知っているの?」
「兄が……。こちらの卒業生なんです。『一度は殺されかけるが、生き残れば、あの人の言葉が骨に残る』って」
それは褒めているのか貶しているのか。
けれど、戦場をくぐった人間らしい評価だとも思えた。
グレイン教官は、そんな新入生たちの動揺には頓着しない。
「まずは寮に行く。荷物を置いて、最低限の注意事項を叩き込む。そのあと――」
短く間を置き、意地悪そうに口の端を上げた。
「剣を渡す。これから先、お前らの腹に刺さってくるかもしれない同じ鉄だ。ありがたく握れ」
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