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第16話 士官学校

 鏡の中の自分が、他人みたいに見えた。


 頬のこけた青白い少女ではない。血色は戻り、肌には余計な影がない。髪は光をはね返し、瞳には濁り一つない。


 完治――そう呼んでいい姿。


 あの人が、置いていってくれた体だ。


 銀色の髪の、琥珀の瞳の、あのメイド。


 ひんやりも熱もない。ただ、当たり前の体温だけが指先に返ってくる。


 なのに。


 喉の奥から、何かがじわ、とせり上がってくる。


 胸の裏側。みぞおちのあたり。そこから、どろりとしたものが広がる。


 重たい。冷えた粘土に埋められていくみたいに、指先まで鈍くなっていく。


「……また」


 小さく声がこぼれた。


 ただ寝ているだけで、体が沈んでいったあの頃の感覚に、よく似ている。


 息をするたび、肺が水で膨らんでいくような息苦しさ。


 枕元の棚に、埃をかぶった木剣が立てかけてある。


 子どもの頃、こっそり庭の訓練場に紛れ込んで、兄たちの真似をした。すぐに咳き込んで倒れ、叱られて、それきり。


 それでも捨てられなかった玩具。


 手を伸ばして取る。木の質感が、掌にざらりと食い込んだ。埃の薄い膜が、指の線をなぞる。


 軽い。笑ってしまうほど頼りない。


 けれど、何もしないでいるよりはましだ。


 冷えた粘土に埋められていくように、指先まで鈍くなっていく。ベッドが、自分の重さごと沈んでいく。


「いや」


 唇が勝手に動いた。


 このまま横たわっていたら、きっと、本当に戻ってしまう。


 動けない体。痩せこけた腕。寝台の上でしか世界に触れられない日々。


 救いの手を差し伸べてくれたあの人に、また醜く沈んでいった自分を見せるなんて、耐えられない。


 エリス・フォン・バルディアは、木剣を抱きしめるように胸に当てると、部屋の扉を引きあけた。


 息が乱れる。けれど走る。



* * *



 庭に出ると、冬の終わりかけの空気が、肺を刺した。


 城塞都市バルディアの本邸。その中庭は、軍事貴族らしく、半分が訓練場になっている。


 踏み固められた土。打ち合い用の木杭。並んだ木剣と模擬槍。


 空は高く澄んでいるのに、胸の奥だけは濁っていた。


 足を一歩踏み出すたびに、内側で何かが揺れる。瓶の底にこびりついた澱が、少しずつ剥がれ、全体を濁らせていくみたいだ。


 息が上がる。心臓が早鐘を打つ。


 病が戻ってきたのだとしたら――。


「……やだ」


 声に出してから、彼女は自分の声が震えているのに気づいた。


 嫌だ。戻りたくない。救われてしまったからこそ、もう、あの底には戻れない。


 手に握った小さな木剣が、頼りなく汗に滑る。


 こんな玩具で、何が守れるのだろう。


 エリスは乱暴にそれを脇に投げ捨てた。


 その代わりに、訓練用の武器棚から、一本の木剣を引き抜く。実戦用の、成人男子向けの重さ。


 腕が、そのまま床に引かれるかと思った。肩口から悲鳴が上がる。


 でも、手は離さなかった。


 目の前の、古びた木杭をにらみつける。


 何かをしなければ、この中の泥が、今にも溢れそうだった。


 ひゅ、と息を吸う。肺の奥まで冷たい空気を押し込む。


 体が勝手に動いた。


 教えられたこともない構え。形になっていない足運び。


 それでも、腕は真っ直ぐ木杭へ伸びる。


 刹那。


 胸の裏側で固まっていた重さが、ぱきん、と割れた。


 冷たい塊が、熱に変わる。


 骨の髄を走るような高熱。血が沸騰する。筋の一本一本に、火の粉が散った。


「――っ!」


 声にならない声。視界の端が、白く焼ける。


 木剣が、杭に叩きつけられた。


 どすん、ではなく、どおん、と腹に響く音が、庭全体へ広がる。


 太い木杭が、真ん中から折れ曲がった。乾いた木片が、雨のように飛び散る。


 掌がじんじんと痛む。皮膚が裂けたのかもしれない。それでも、痛みより先に、別の感覚が押し寄せる。


 ――軽い。


 さっきまで脚の中に溜まっていた泥が、煙になって抜けていったような、奇妙な空虚。


 胸の奥の重石が、一瞬だけ消えた。


「……は」


 笑いが、喉から滑り出た。ひくりと引きつった、乾いた笑い。


 理由なんて、わからない。


 魔力だとか、強化だとか、そう呼ばれる仕組みのことも知らない。


 ただ、暴れた瞬間、内側に沈殿していた濁りが、別のものへ姿を変えたのだと、体だけは理解してしまった。


 ならば。


 もう一度。


 エリスは、まだ煙を吐ききっていない煙突のように、自分の体を扱うことにした。


 木剣を振り上げる。今度の標的は、庭木の一本。父がよく、的代わりに切りつけていた白樺。


 踏み込む。足元がもつれる。それでも前に出る。


 体の奥の泥が、「振れ」と命じてくる。焼けるような熱に変わるまで、動きを止めるな、と。



* * *



 執務室の窓から、庭の半分ほどが見下ろせる。


 文書に目を通していたバルディア公爵は、不意に聞こえた重い破砕音に顔を上げた。


 ふだんなら、訓練場で騎士たちが打ち合っている音に紛れて、意識の外へ流れていく程度の響き。


 けれど今のは違った。質量のぶつかり合う、嫌な音だった。


「……閣下?」


 側に控えていた騎士団長が、わずかに首をかしげる。


 公爵は返事をしない。窓枠に手をかけ、外をのぞき込んだ。


 視界の端で、折れた木杭が転がっている。


 そのすぐそばに、ひとりの少女がいた。


 金糸を束ねた髪。細い肩。腕には不似合いな長さの木剣。


 エリスだ。


 病の床から起き上がって以来、あまり外には出てこなかったはずの娘が、ひとりで訓練場に立っている。


 しかも――。


「閣下、あれは……」


 騎士団長が言葉を失った。


 エリスは、白樺の幹へ木剣を振るっていた。


 決して美しい型ではない。足もとの泥を巻き上げながら、ふらつき、よろめき、それでも前へ出る。


 それなのに、一太刀ごとに木肌が裂けていく。


 細い腕からは想像できない質量が、刃の代わりに乗っている。


 何より、目だ。


 虚ろなのに、虚ろではない。焦点がどこにも合っていないようでいて、ただひたすらに「中の何か」から逃れようとしている動物の目。


 公爵は、机の端に置いてあった手袋をひっつかむと、そのまま扉へ向かった。


「閣下?」


「行く」


 短く告げて、足早に廊下を進む。


 騎士団長は慌てて後を追った。



* * *



 庭に出ると、空気の匂いが変わっていた。


 土埃。木の屑。汗と、熱。


 エリスは、もう白樺を半ばまで切り裂いていた。木剣の腹に、無数の傷が刻まれている。


 肩で息をしながらも、まだ腕は振り続けていた。


「エリス」


 公爵が名を呼ぶ。


 いつものように朗々とした声ではない。戦場で敵の名を呼ぶときの声だ。


 娘の耳には、届かなかったようだった。


 木剣が、次の一閃の軌道に乗る。


 瞳は、父の方向を一瞬かすめたはずだ。けれど、その色には認識の気配がない。


 中にたまった濁りを、外へ叩き出すための標的が、たまたまそこに立っていただけ――そんな目。


「エリス」


 二度目の呼びかけは、わずかに低かった。


 公爵は鞘に収めたままの剣を抜く。


 柄を握る感覚は、数え切れない戦場で磨かれてきたもの。その重さは、彼の一部だ。


 飛んできた木剣の一撃を、鞘ごと受ける。


 耳に鈍い衝撃が走った。腕の骨が一本ずつ鳴った。


「……ほう」


 口の端が、かすかに持ち上がる。


 この細い腕から、どうやってこの重さが出てくるのか。


 ただ力任せに振っているだけではない。踏み込みと、振り抜きが、ぎこちないながらも一致している。


 娘の体は、使い慣れていないはずなのに、今この瞬間だけ、剣のために最適化されている。


 バルディアの血が、そうさせているのか。


 それとも――。


 打ち合いが、三合、四合と続く。


 エリスは言葉を発さない。唇を結び、ひゅうひゅうと喉を鳴らし、ただ目の前の相手に向かっていく。


 その眼差しは、父と娘のそれではなかった。


 自分の中の濁りを、目の前の硬さに叩きつけて、ようやく息ができる。そんな切迫した色。


 公爵の胸の奥に、何かが冷たい手で触れた。


 死地をくぐり抜けた兵の目を、彼は知っている。


 生き延びたのに、戦場を忘れられない者。剣を置いた途端、自分の体が崩れそうで仕方ない者。


 エリスの瞳に、ほんの一瞬、その影が差した。


 刹那、彼女の動きがわずかに乱れる。


 内側の火が、燃え尽きかけたのだと、公爵には見えた。


 最後の一撃を、彼はあえて避けなかった。


 鞘を立てて受け止め、腕全体で衝撃を殺す。


 エリスの膝が、土の上に落ちた。


 糸が切れた人形のように、だらりと崩れ落ちるところを、公爵は一歩踏み出して抱きとめる。


 孫ほどの年になりかけているが、娘はまだ軽かった。


 肩口まで汗で濡れている。髪が肌に張りつき、荒い息が喉の奥で泡だつ。


「……は、はぁ……」


 彼女の瞳が、焦点を取り戻した。


 そこには、ほんの一瞬だけ、正気の光が宿る。


 エリスは父の顔を見て、あ、と小さく口を開いた。


「お、お父様……」


 言葉がそこで途切れる。


 代わりに、別の名が喉まで上がってきて、そのまま飲み込まれた。


 ――あの方。


 銀色の髪の、冷たい手のひら。喉に溜まっていた濁りを、甘い何かに変えてくれた人。


 目を閉じれば、すぐそこにいる気がするのに、腕を伸ばせば届かない。


 その幻を掴もうとして、でも掴めないまま、エリスはふらりと頭を預けた。


「……あた、し……まだ……」


 かすれた声が、公爵の胸もとに吸い込まれる。


「まだ、動けます、から……」


 彼女は、自分に言い聞かせるみたいに呟いた。


「床に、縫いつけられるのは……もう、いや……」


 それが誰に向けられた言葉なのか、公爵にはわからなかった。


 けれど、音の端々にこびりついた、長年の閉じ込められた生活の影だけは、読み取れた。


「そうか」


 公爵は短く答える。


 腕の中の体は、熱を帯びていた。しかしこれは病の熱ではない。戦場で、全力で戦って戻ってきた兵の体温に似ている。


 息は荒いが、乱れてはいない。限界まで駆けた後の、静かな高鳴り。


 彼は不意に笑った。


「見事だ」


 囁きに近い声。


「やはり我が娘よ。死線を越え、なお剣を求めるか」


 エリスの意識は、もう半ば夢の底に沈んでいる。


 それでも、「求める」という言葉だけは、どこかに引っかかった。


 剣を、ではない。


 あの人を。


 その名を胸の内で呼ぼうとして、呼べない。名を知らない。


 けれど、求めているのは確かだ。


 その渇きだけが、胸の泥を、ぎりぎりのところでかき混ぜている。


 公爵は娘を抱えたまま、騎士団長を振り返った。


「医師を呼べ。それから、書状の用意だ」


「書状、でございますか?」


「王立士官学校宛てだ。エリスを入学させる」


 騎士団長の顔に、一瞬だけ驚きが浮かんだが、すぐに引き締まる。


「かしこまりました」



* * *



 翌日。


 医師は、奇妙な顔つきで診断を告げた。


「病的な徴候は見当たりませんな、閣下」


 額に汗を浮かべた、小柄な医師が、手帳を指で叩く。


「脈拍も呼吸も問題ございません。ただ、体内を巡る魔力の流れが、いささか暴れておりますな」


「魔力が、暴れている?」


「ええ。おそらくは、本来のお身体が耐えうる以上の魔力を、どこかで取り込み、あるいは蓄えておられる。制御できねば、筋や臓腑を痛める原因となりましょう」


 公爵は顎に手を当てた。


「それは、危険か?」


「制御できなければ、内側から体を痛めましょう。関節、筋肉、内臓に負担がかかります。ただ、先日のように外へ放出する術を身につければ――」


 医師はそこで言葉を切り、公爵の顔色をうかがった。


「武門の家の娘には、かえって好都合かもしれませんな」


 公爵は、短く笑った。


「つまり、鍛え方次第ということだな」


「乱暴な言い方をすれば、そうなります」


 医師が部屋を出た後、騎士団長が口を開いた。


「本当に、士官学校へお出しになるおつもりですか」


「他にどこで学ぶ。屋敷の庭では、とても受け止めきれん」


 窓の外では、庭師が折れた木杭と、半ば斬り裂かれた白樺の処理をしている。


 公爵はそれを眺めながら、椅子の背にもたれかかった。


「もともと、あれは剣の家に生まれた娘だ。体が弱かったから、寝台に縫いつけておいた。それが間違いだったのかもしれん」


「しかし、閣下。王立士官学校は男子中心で、しかも戦場に出る将を育てる場。病み上がりの御令嬢には――」


「病み上がりではない。今のエリスは、病床には収まらん」


 公爵の声が、低くなる。


「あふれる力を、ただ蓋をして押し込めるか。あるいは、刃の形に整えてやるか。バルディアは後者を選ぶ家だ」


 騎士団長は、唇を引き結んだ。


 バルディア公爵の言葉には、いつも軍事と家の未来が同居している。娘への情も、そこから完全には分かちがたい。


 彼は、昨夜、抱きかかえられて運ばれていくエリスの姿を思い出す。


 汗に濡れた頬。けれど、その口元に、かすかな笑みがあった。


 全力で走りきった後の、兵士の顔だ。


「……承知しました」


 騎士団長は頭を下げた。


 公爵は机に向かい、筆を執る。


 王立士官学校の校長宛ての書状。バルディア家の後継者ではないものの、直系の娘を、正式な士官候補生として送り込む旨。


 筆先が紙の上を滑るたびに、インクが新しい筋を描く。


 それは、娘の人生の新しい道筋でもあった。



* * *



 出発の日は、あっけないほど早く来た。


 エリスは、鏡の前で制服の襟を正していた。


 深い紺色の詰襟に、銀の飾り紐。王立士官学校の制服は、華美ではないが、きちんとした仕立てだった。


 胸元には、バルディア家の紋章をかたどった小さなバッジ。


 右腰には、まだ鞘しか吊られていない。実戦用の剣は、入学後に支給される。


 棚の上には、埃を払われた小さな木剣が、静かに横たわっていた。


 数日前、彼女が最初に部屋を飛び出すときに掴んだ玩具。


 結局、それで何かを斬ったわけでもない。訓練場に落ちていたのを侍女が拾い、きれいにして戻してくれた。


 エリスは、それを手に取る。


 細い刃の部分に、指を滑らせた。子どもの頃の手には大きすぎて、今の手には小さすぎる剣。


 あの頃、憧れていたもの。なりたかった自分。


 今は、この小さな剣よりも重い武器を振るえる。体の内側に、あの泥のようなものを感じるたび、それを熱に変える術を、ほんの少しだけ覚えた。


 完璧ではない。


 油断すれば、また冷たい澱が溜まり始める。朝目覚めたとき、胸の内側が少し重いのは、今も変わらない。


 だからこそ、止まれない。


 エリスは、小さな木剣をそっと旅行鞄の底にしまった。


 その上に、薄い帳面が一冊、置かれている。


 民間の情報屋に、父の目を盗んで頼んだ調査報告書。


 「麻痺茨の種を買った少女」についての聞き込みの記録。


 日付。場所。商人の証言。


 やせた銀髪の少女。琥珀色の瞳。手には花の種。


 エリスの胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 報告書の端に、エリスは小さく書き込みをした。


 ――あの方。


 名前の代わりに、それだけを。


 鞄を閉じ、制服の内ポケットに、折りたたんだ報告書の写しを忍ばせる。


 扉を開けると、廊下の向こうに父が立っていた。


「支度は済んだか」


 バルディア公爵は、いつもの軍服ではなく、礼装に近い出で立ちだ。


「はい、お父様」


 エリスは裙をつまんで一礼する。


 足元は少しふらついたが、倒れはしなかった。内側の泥は、今朝も重かったが、夜明け前に庭で素振りをしたおかげで、かろうじて動ける程度まで薄まっている。


「王立士官学校は、甘えを許さぬ場所だ」


 歩きながら、公爵は言う。


「同年代の若者が集まり、互いに切磋琢磨する。そこには、貴族も平民も関係ない。お前がバルディアの娘であることも、剣を前にすれば、ただの一条件に過ぎん」


「承知しております」


 エリスは、まっすぐ前を見た。


 廊下の先に、玄関ホール。その向こうに、待機する馬車。


 心臓が速く打ち始める。息が少し荒くなる。


 それは、病の発作ではなく、別のものだった。


「国のために剣を振るえ」


 玄関前で、公爵が言葉を継ぐ。


「バルディアの名を、そこでも刻んでこい」


「……はい」


 エリスは、ほんの一瞬だけ迷ってから、付け加えた。


「ですが、私は……それだけのために行くのではありません」


 公爵の眉が、わずかに動く。


「ほう?」


「ここに留まれば、きっとまた、動けなくなってしまうでしょう。床に縫いつけられて、何も知らないまま、腐っていく」


 言葉にすることで、自分の恐怖が輪郭を持ち始める。


 エリスは拳を握りしめた。


「それが、怖いのです」


 公爵は、しばし黙って娘を見つめ、その後ふっと笑った。


「恐怖から逃れるために剣を取る者もいる。それで構わん。戦場に立つ者の動機など、誰も最後まで見通せはせん」


 彼は、娘の肩に手を置いた。


「走れ。止まらなければ、泥は足元に溜まらん」


 父の言葉が、胸に落ちた。


 走る。


 止まりたくない。


 あの人に、もう一度会うためにも。


 校外実習。討伐任務。街への買い出し。どんな名目だっていい。


 この屋敷の外の世界なら、きっと、どこかで巡り合える。


 銀の髪でも、黒い髪でもいい。


 あの冷たい手が、喉に溜まった澱を吸い上げてくれた感触を、もう一度。


 エリスは、馬車の踏み段に足をかける。


 車内は、思っていたより狭かった。革張りの座席が、体温をすぐに伝えてくる。


 窓の外には、バルディア公爵と、騎士団長と、侍女たち。


 彼らの顔が、遠くなっていく。


 城門が開く音。車輪が石畳を噛む振動。


 エリスは懐の中の紙切れを、指先で確かめた。


 「麻痺茨の種を買った少女」。


 その一行が、体の奥の泥を、わずかにかき混ぜる。


 剣を振るう理由が、国のためか、家のためか、自分のためか。


 そんなことは、今はどうでもよかった。



 ただ一つ確かなのは。


 動き続けていなければ、あの泥に呑まれてしまうということ。


 そして、動き続けていれば、いつか必ず。


 ――あの方のいる場所まで、辿り着ける。


 馬車が城塞都市の雑踏へ入っていく。


 熱と汗と香辛料と鉄の匂いが、窓の隙間から流れ込んできた。


 エリスは目を閉じ、そのすべてを肺に満たした。


 胸の内側の泥が、じわりと蠢く。


 それを、焼けるような熱に変える日々が、ここから始まる。

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次回もよろしくお願いいたします。

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