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第15話 鋳型

 足の裏に伝わる感触が、あるところから急に変わった。


 それまでの床は、削れば粉になりそうな、白っぽい石だった。湿り気を含んだ、馴染んだ重さ。


 そこから先は、ぎゅっと詰まった赤い岩。靴底が少しだけ弾かれる。鉄のにおいが、鼻の奥に薄く刺さる。


「……ここから、別の地層だね」


 僕がつぶやくと、前を行く黒い影が、ぴたりと止まった。


 クロムだ。


 人の子どもの姿で歩いていたはずなのに、振り向いたときにはもう、鼠になりかけていた。骨格がほどけ、腕と脚が床へ落ちるように伸び、黒髪が毛並みに変わっていく。


 耳が三角になったところで、変身は終わる。


『主。さきの石、冷たくて、硬いです』


 頭の中に、声のようなものが届く。


 声と言っても、正確には声ではない。ざらついた岩の感触だとか、歯の根に残る金属っぽい味だとか、そういう断片が、ひとまとまりになって飛んでくる。


 僕はそれを、わかりやすい言葉に並べ替えて受け取る。


「硬い、か。赤鉄の坑道とは、少し違うね」


 後ろから、レースがとことこと近づいてくる。


 人形のような顔。ガラス玉みたいな瞳。彼女だけは、喉からちゃんとした音を出せる。


「主。前方の床、音が重い。たぶん、岩の亀」


 淡々とした声。


「岩の亀」


 僕は繰り返す。


 ロック・トータス。


 この下層をうろうろするうちに、一度だけ見かけたことがある。死体として。


 砕けた甲羅の中から、ひとつだけ、濃い闇色の魔石がころりと出てきた。ノートから聞いた名前は、忘れようがない。


 希少ドロップ。闇属性の魔石。


 今はボックスの腹の底、亜空間の隅にしまってある。


 あの石の重さを、指先がまだ覚えていた。


『主、どうする?』


 天井に広がった透明な影が、ぷるりと震えた。メルだ。振動と味で世界を見る、小さな掃除屋。


『におい、さっきの死んでたやつと、ちょっと、似てる』


「行ってみよう」


 僕は決めて、コートの裾を軽く押さえた。


 レースの織ってくれた布は、湿気を寄せつけない。黒い生地が、岩肌の陰影になじむ。


「クロム、先行できる?」


 鼠の姿になったクロムが、こくんと首を振る。


 返事の代わりに、床を蹴った。


 影が、低く走り出す。



* * *



 たどり着いたのは、横に広い空間だった。


 天井は低い。空気が重い。赤い岩の床のあちこちが、ゆっくりと盛り上がり、また沈む。


 岩の山かと思ったものが、ゆるく首をもたげた。


 岩ではなく、甲羅だ。


 ロック・トータス。


 十匹はいる。


『おおきい』


 メルの感情が、冷たい水みたいに流れ込んでくる。


 クロムは床に腹をつけ、身を低くしたまま、じっと相手を見ている。


 彼の中にあるのは、興奮と、それから……かすかな焦りだ。


 最初の配下。古株。家族の中で、いちばん長く僕と一緒にいる。


 にもかかわらず、硬い敵には歯が立たない、という自覚。


 それが、尻尾の先を落ち着きなく揺らしていた。


「まずは一匹で、様子を見よう」


 僕は言い、いちばん手前のトータスを指さす。


 ずしん、と足を運ぶ音。岩と岩がこすれる、鈍い響き。


 クロムの念話が、短く飛んでくる。


『行く』


 次の瞬間、黒い影が弾かれたように前へ出た。


 床すれすれを走る。その速さは、いつ見ても気持ちがいい。ひと跳びで、亀の足元に潜り込む。


 高く握り締めた牙が、甲羅の縁へ突き立った。


 ──甲高い音がした。


 甲羅が削れたのではない。クロムの前歯が、はじき飛ばされた音だ。


 黒い体が宙に浮き、そのまま床へ叩きつけられる。


『クロム!』


 念話が思わず大きくなる。


 自分の声で自分の鼓膜を打ったような、変な違和感が頭に残った。


 ほとんど反射で、僕は魔力を地面にたたきつける。


 共振。


 岩盤の一部を震わせ、トータスの足をすくう。動きの遅い相手には、それでじゅうぶんだ。


 ぐらりと体勢を崩したところへ、メルが流れ込む。


 酸の湿った気配。足の付け根のほんのわずかな隙間を狙って、じゅうっと石を溶かす。


 レースの糸が、甲羅の反対側の足をまとめて絡め取った。


 重い体がゆっくりと転がり、どしん、と床を鳴らす。


 そこまで確認して、クロムのもとへ走った。


 前脚が変な方向に曲がっている。白い破片が床に散っていた。折れた前歯の欠片だ。


 クロムは、それでも起き上がろうとする。


『まだ……』


「もういい。今日はここまで」


 僕は彼の体を抱き上げる。


 軽い。いつもより、ずっと。


 群れの奥で、別のトータスが首をゆっくり持ち上げた。


 鈍い光が、口の奥に滲む。魔力弾の前兆。


「撤退するよ」


 短く告げると、レースとメルの気配が、すぐに退き方へ向き直る。


 ロック・トータスの群れが、動き出すよりも早く。


 僕たちは、城へ戻った。



* * *



 自室のベッドに、クロムを横たえる。


 大きな鼠の体が、ひくひくと震えている。傷は前脚だけではない。衝撃で内側もかなりやられているのが、魔力の流れから伝わってくる。


『主……』


 呼ばれた気配に、椅子を引き寄せて腰を下ろす。


「聞こえてるよ」


 折れた前脚にそっと触れる。クロムの魔力がびくりと逃げる。痛みの色が、一瞬、頭の中をかすめた。


 『創成』を使う。


 骨を固定するための薄い板を思い浮かべる。体温で少しだけ柔らかくなり、形に沿って固まる素材。


 僕の指先に、白い板がふわりと現れる。


 けれど、それは僕が知っている「それっぽいもの」の寄せ集めだ。本物の素材ではない。世界の歴史のどこにも、痕跡を持たない板。


 それでも、ないよりはいい。


 骨の位置を確かめ、板を当てて、同じく創り出した布で巻く。


 応急処置が終わるころ、クロムの震えは少しだけ収まっていた。


 けれど、念話は弱い。


『主……ぼく、ぜんぜん、噛めませんでした』


 痛みと、悔しさと、自分への怒りが、まざった塊になっていた。


「今回は、相性が悪かっただけだよ」


 僕はそう口にする。


 それは嘘ではない。本当に、相性は最悪だ。クロムの誇りである牙が、いちばん通じない相手。


 けれど、彼が欲しいのは「相性」の話ではないこともわかっている。


『いちばん、長く主のそばにいるのに』


 クロムの感情が、ふわりと広がる。


『メルは、とけないものを、とかせます。レースは、なんでも切れます。ノートは字がよめて、ボックスはなんでもしまえて……』


 言葉にしきれないものを、僕の脳が勝手に文章にしていく。


『ぼくは、ただ噛むだけなのに、その、噛むことすら』


 言葉の終わりが、細く消えた。


 床に、何かがぽとりと落ちる音がする。


 折れた牙の一片だった。さっき拾いきれなかった分だ。


 僕は身をかがめ、それを指の腹で拾い上げる。


 小さなかけら。白くて、ざらついていて、まだぬるい。


「クロム」


 彼の目の近くまで牙を持ち上げる。


「これは、君の失敗じゃない」


 断言する。


「家族の前で見栄を張ろうとして折ったんじゃない。僕たちのために、一番硬そうな場所に飛び込んだ。その結果だ」


 しばらく、静寂があった。


『でも、折れました』


「うん。折れた」


 それは事実だ。なかったことにはできない。


「ロック・トータスは、硬さにおいては、この辺りの魔物の中でもかなり上だって、ノートが言ってたよ。正面からぶつかれば、金属だってひしゃげる。君の牙が折れたのは、君が弱いからじゃなくて、あいつが硬すぎるからだ」


 クロムの尾が、わずかに動いた。ほんの少しだけ。


「硬さで勝てない相手には、別のやり方が必要だよね」


 そう言ってから、僕は自分の手を見下ろす。


 『創成』の力。


 僕は、ありそうなものを、ありそうな形で生み出すことができる。でも、それはあくまで「ありそうな」だけだ。


 レースが指摘したとおり、僕の創る服は「偽物」だ。糸の一本一本に積もった時間も、触れられた回数も、そこにはない。


 便利だが、軽い。


 本気の一撃を受け止めるための「力」そのものを、僕一人でこしらえることはできない。


 そのことが、ずっとどこかでひっかかっていた。


『主の力で、ぼくの歯を、もっと硬く……』


 クロムの念話が、かすかに揺れる。


 期待と、不安と、自分への怒り。


 僕は首を横に振る。


「たぶん、できない。見た目だけなら、それっぽい牙は何本でも創れる。でも、中身がない。形だけ立派で、すぐ欠けると思う」


 クロムの感情が、沈んだ水みたいに揺らぐ。


 僕は続ける。


「ノートが言ってたよね。魔物は、もともと形が決まってない魔力のかたまりで、育つ場所や食べるもの、周りの環境に合わせて、だんだん姿が決まっていくって」


『きいた』


「硬くなろうとするなら、中身を変えるか、器を変えるか。もしくは、その両方が要る」


 闇色の魔石の感触が、思い出の中で重くなる。


 あの石には、たぶん、クロムの体には入りきらない魔力が詰まっている。


 そのまま飲み込めば、器の方が負ける。


 壊れる。


 それは、絶対に嫌だ。


 僕は立ち上がり、部屋の隅に置いてある古びた木箱へ歩いた。


 ボックスが、静かにふたを開ける。


 そこから伸ばした手が、冷たい何かに触れた。ひとつだけ、周りの空気を吸い込むような質感。


 引き上げると、黒い石が掌の上に乗っていた。


 闇色の魔石。


 ひときわ重い。その重さは、石そのものというより、その中に詰まった魔力の重さだ。


「器を、変える」


 僕は振り返り、クロムに向き直る。


「この石を、君に食べてもらう」


 クロムの感情が、きゅっと細くなる。


『壊れます』


「そのままだとね」


 僕は魔石を握り直す。


「だから、僕の『創成』を、器のために使う」


『器……?』


「君の『こうなりたい』って形を、僕が想像して、空っぽの殻を創る。鋳型、って言うんだけど」


 クロムにはその言葉の意味は伝わらない。代わりに、「枠」とか「ぴったりした入れ物」とか、そういう映像を頭の中で見せる。


 彼の念話が、少しだけ明るくなる。


『ぼくの、からだの、未来の形?』


「うん。君の中の魔力が暴れて、体を壊そうとした時、その鋳型が『ここが脚』『ここが牙』『ここが影』って道を教える。僕はそれを、できるかぎり支える」


 しばらくの間、クロムは何も送ってこなかった。


 ベッドの上で、黒い毛並みがかすかに震えている。


 やがて、ひとつの感情が、はっきりと浮かび上がった。


 恐さと、その下にある、小さな決意。


『こわいです』


 正直な言葉だ。


『でも、主のとなりを歩きたいです。足もとじゃなくて』


 喉の奥が少し熱くなる。


「わかった」


 僕は頷いた。


「だったら、みんなにも見ていてもらおう。これは、君だけの話じゃないから」



* * *



 工房兼作業場の真ん中に、クロムを寝かせる。


 レースの糸で吊られた灯りが、部屋をやわらかく照らしていた。石畳の床は、メルが毎日磨き上げているから、どこまでも滑らかだ。


 ノートは、隅の机で静かに開かれている。ページの上に、魔力の揺らぎが薄く浮かぶ。彼の「目」だ。


 ボックスは壁際で控えめに口をあけ、荷物が飛び散らないように黙って見守っている。


 クロムは、鼠の姿のまま、目だけをこちらに向けていた。


 僕は深く息を吸い、『創成』の魔力を手に集める。


 イメージするのは、「これからのクロム」。


 硬くなるのではなく、細く、深く、どこへでも潜れるような姿。


 地面と影の境目を、すべり込むように渡っていく鼠。


 牙で岩を砕くのではなく、岩の下に伸びる闇を噛みちぎる鼠。


 指先を動かす。


 空中に一本の線を描くと、その線がそこにとどまる。


 黒い輪郭が、少しずつ立ち上がる。クロムの体を包み込むように、大きな鼠の外枠が形作られていく。


 中身は空っぽ。中空の彫像だ。


 表面はなめらかで、ひび一つない。目のあたりだけ穴が開いていて、その奥に、今のクロムの姿がかすかに見えた。


「主。からっぽなのに、生きてるみたい」


 レースが、小さくつぶやく。


 人間の言葉になったのは、その一言だけだ。あとは、皆が念話で見ている。


『こわいけど、きれい』


 メルの感覚が、ぬるりと広がる。


 ノートのページには、淡い光の線が走り、今見ているものを記録していく。


 僕は、彫像の中にいるクロムを見下ろす。


「じゃあ、始めようか」


 魔石を、クロムの前に置く。


「噛まないで、丸ごと飲み込んで。牙を使ったら、また折れる」


『はい』


 念話とともに、喉がひとつ動いた。


 黒い石が、彼の口の中に消え、喉を通って落ちていく。


 その瞬間、彫像の内側が暗くなった。


 闇が、膨らんだ。


 魔力が暴れる。僕の『創成』でこしらえた殻の内側を叩きつけ、内側から引き裂こうとする。


『……っ』


 クロムの気配が、大きくゆがんだ。


 痛み。焼けるような熱。自分の体の境目がわからなくなっていく恐怖。


 彼の「かたち」が、一度、液体のように溶けていく。


 僕は歯を食いしばり、手を彫像に当てた。


 鋳型に、魔力を送る。


 僕の魔力は、本質的には軽い。世界の外から持ち込まれた「イメージ」の塊だ。地中から湧き上がる魔物の魔力とは、質が違う。


 けれど、その軽さを、今は「地図」として使う。


「ここが脚」「ここが尾」「ここが牙」「ここが影」


 ひとつひとつ、イメージに印を付けていく。クロムの魔力が散らばりそうになるたび、彫像が枠になって動きをせき止める。


 外殻がきしむ音がした。


 生き物の骨ではない。僕の頭の中で鳴っている、イメージのひびだ。


 魔力の奔流に負けて、鋳型が崩れそうになる。


 僕は、さらに魔力を注ぎ込んだ。


 視界の端が暗くなる。額から汗が伝う。膝が少し笑う。


 でも、手は離さない。


 クロムの気配は、苦しさの底で、確かに前へ進もうとしている。


 変わりたい、という願いが、細い糸のように、その混沌の中に一本だけ通っている。


 その糸を、僕は握って、引っぱった。


 ひとつ、ぴしりと音がした。


 牙だ。


 今までより少し長く、細く、黒く。


 硬さというより、「刺さる」ための形。


 そこから先は、早かった。


 背中の線。肩の張り。太ももの筋肉。尾のしなり。


 魔力が、次々と「場所」を見つけていく。


 彫像の表面に、細いひびが走り始めた。


 ぱき、と小さな音。


 ひびはすぐに広がり、網の目のように殻を覆った。


 最後の一息を送り込んでから、僕は手を離す。


 薄い外殻が、音もなく砕け散った。


 闇の破片が宙を舞い、それが床に落ちるころには、ただの砂のように消えている。


 そこに、ひとつの影が残った。



* * *



 巨大な鼠だった。


 でも、前よりずっと、線が違う。


 全身の毛並みは、墨をこぼしたような黒で、光をあまり返さない。輪郭がところどころ揺れて見える。床の影と混ざり合いそうな、あいまいな境界。


 背中から尾にかけて、流れるようなカーブができている。耳は少し長くなり、先がとがっている。


 何より、目だ。


 色は、前と変わらない。黒いまま。ただ、その奥にある暗さの質が違う。


 深い穴、というより、細い通路みたいだ。どこかへ続いている気配がする。


 その口元が、少しだけ動いた。


『……主』


 念話が届く。


 声の高さは少し落ちていた。でも、僕を呼ぶときの調子は、いつものクロムのままだ。


『主のにおいだ。主だ』


 尾が、ぱたぱたと揺れる。


「おかえり、クロム」


 僕は手を伸ばす。


 指先が毛に触れた瞬間、舌の奥で何かがはじけた。


 古い地下室の、湿ったにおい。石と石の間に染みこんだ水気と、長い時間。


 そのすぐあとに、喉の奥を刺すような、黒胡椒の辛さ。


 ひりひりする。なのに、もう一度味わいたくなる。


 ――『影潜行』の天賦を獲得しました。


 頭の中に、いつもの冷たいメッセージが落ちてきた。


 味と一緒に、力の流れが入ってくる。


 影へ沈み、影を伝って移動する感覚。


 物質の表面ではなく、その下に伸びる「暗い筋」をなぞっていく感覚。


『すごい』


 メルの念話が、泡みたいに弾ける。


『クロム、さっきまでのクロムじゃない。けど、クロム』


 レースは近づき、じっと見つめるだけだ。


「主。きれい」


 ぽつりと、それだけ言う。


 ノートの魔力が少しだけ強くなった。ページの上に、「影」と「鼠」という字がにじむ。彼なりのメモだ。


 ボックスは、相変わらず静かだ。ただ、箱のふちが、ほんの少しだけ誇らしげに見えたのは、僕の思い込みだろう。


『主』


 クロムが僕を見る。


『ぼく、いまのぼくで、主のとなりを歩けますか』


 さっきと同じ問い。でも、そこにある感情は違う。


 今は、恐怖よりも期待の方が少し勝っている。


「もちろん」


 迷わず答える。


「君は、僕の影を広げてくれる。こんなに頼りになる存在、そうはいないよ」


 クロムの感情が、一気に明るくなった。


『はいっ』


 尾が、勢いよく床をたたく。


 その動きは、前よりもずっと静かだ。影の中で振れているような、軽い手応え。


「少し試してみようか、新しい体」


『試す』


 返事と同時に、クロムの体がふっと沈んだ。



* * *



 床の影に、彼は溶けた。


 灯りの落ちた僕の影。その黒に鼻先を沈めると、クロムの体は、石畳の中へすうっと吸い込まれていく。


 床が水になったような、変な感覚が足裏を通り抜けた。


 僕の影の中に、さらに濃い黒が混じる。


『……見える』


 クロムの念話が、興奮を含んで広がる。


『足の下に、ながい道がある。暗くて、やわらかい。明るいところは、かたい壁みたいで、通れないけど、影がつながっていれば、どこまでも行けそう』


 影の中の黒が、すべるように移動する。


 レースの足元にある細い影に触れ、その中から、クロムが顔を出した。


 レースは、ぱちりとも瞬きをしない。ただ、ほんの少しだけ肩が動いた。


「びっくりした?」


 僕がそう言うと、彼女はわずかに首をかしげた。


「少し」


 それだけ言うと、またクロムを見つめる。


『かべの中を通るとき、すこし、押される感じがしました。でも、痛くなかった。ふとんの中にもぐるみたい』


 クロムが説明を送ってくる。


 僕は顎に手をあて、頭の中で描く。


 影がつながっていれば、床でも壁でも、天井でも、関係ない。


 物質の硬さではなく、光と闇の配分で、道が決まる。


「……ロック・トータスの甲羅の内側にも、影はあるはずだよね」


 呟いた言葉に、ノートのページがかすかに震えた。


『たしかに。甲羅と肉のあいだには、光の届かないうすい層がある』


 文字になる前の思考の流れが、僕の頭へ滑り込んでくる。


「クロム」


『はい』


「もう一度、行ってみようか」


 さっきよりも、僕の声は落ち着いていた。


 クロムの感情も、さっきとは違う。


 怖さはまだ残っている。でも、その横に、はっきりした意志がある。


『行きます』



* * *



 再び、赤い岩の広間へ。


 ロック・トータスの群れは、ほとんど位置を変えていなかった。世界の変化と無関係にそこにいる、巨大な石の塊。


 足を一本溶かされた個体だけが、壁際でじっとしている。


「今度は、最初から影から行ってみよう。ひとまず一匹だけ。殺さなくていい。動けなくして、様子を見る」


 そう告げると、クロムがひとつ短く念を送ってくる。


『了解』


 地面に影がいくつも伸びている。亀の足の下、甲羅のわき、僕たちの体のまわり。


 クロムは、僕の影から沈んだ。


 黒いゆらぎが、床を這う。


 ロック・トータスの甲羅の下へ、音もなく近づいていく。


 亀は、何かを感じ取ったのか、ゆっくり首を動かした。


 だが、遅い。


 甲羅と床のあいだにできた影に、クロムの気配がすべり込む。


 甲羅の内側で、何かが走った。


 岩の殻の中を、鋭いものが滑る。ごり、ごり、と鈍い音が、殻の外まで伝わってくる。


 ロック・トータスが、体を震わせた。足をばたつかせ、甲羅をきしませる。


 それでも、影の中の動きは止まらない。


 甲羅の脇から、黒い影がにじむように滲み出てくる。


 クロムだった。


 口のまわりに、どす黒い液体を少しだけつけている。鉄さびに似たにおいが、空気に混じった。


 ロック・トータスの体が、ぐらりと傾ぐ。


 内側の臓器を少しだけかじられたらしい。致命傷ではない。でも、立ち上がる力は奪われている。


『硬いところを避けて、中身だけ、少し』


 クロムの念話が落ちてくる。


『ぜんぶ食べたら、死んでしまうから。主が、殺しちゃだめって言うから』


「ありがとう」


 僕は息を吐きながら答えた。


「上出来だよ」


 メルが、そっと近づき、残った血をきれいになめ取る。掃除として。


 ロック・トータスの体は、そのまま眠るように動かなくなった。


 命はつないだまま、戦力だけを奪う。


 僕の『雇用』は、ここでは発動しない。契約で守られた番人ではないただの魔物には、まだ僕の方針で殺さないという条件は厳しすぎる。


 でも、今はそれでいい。


 クロムの牙が、硬さに頼らない道を見つけた。それだけで、今日は十分だ。


『主』


 クロムがこちらを見る。


『ぼく、ちゃんと、できましたか』


「うん」


 僕は頷く。


「君はもう、自分の影だけじゃなくて、敵の影も齧れる。僕たちの『届かない』を、届く場所に変えてくれる」


 クロムの尾が、高く跳ねた。


『主のとなり、歩いても、いい?』


「もう歩いてるよ」


 そう言うと、クロムの感情が、かつてないくらい明るくはじけた。



* * *



 その夜。


 机に向かって、僕は先代管理者の手記の余白に、今日のことを書き込んでいた。


 『創成』は、本物を生む力ではない。


 世界に、見せかけの物質を置く力だ。


 けれど、その見せかけが、魔物のようなあいまいな存在にとっては、ときに進化の道しるべになる。


 虚構の鋳型が、本物のかたちを導く。


 クロムの例は、そのひとつだ。


 書きながら、ふと自分の手を見る。


 女神に与えられた、この中性的な体。


 これもまた、なにかの鋳型なのだろうか。


 世界を管理する者として、地上にも地下にも出られるように作られた、器。


 その器の中に、僕という魔力のかたまりが、少しずつ自分の輪郭を決めている。


 もし、そうだとしたら。


 いつか僕自身にも、別の鋳型を創れるのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎり、すぐに苦笑が漏れた。


「欲張りだな、僕」


 まずは、目の前の家族だ。


 クロム。メル。レース。ノート。ボックス。


 それぞれが、自分の形で、ここにいられるように。


 弱さも、強さも、まとめて受け止められる場所であるように。


 そのための虚構なら、いくらだって創る。


 壊れたら、また創り直せばいい。


 机に頬杖をつくと、遠くから、かすかな振動が伝わってきた。


 天井裏を走る、小さな足音。クロムの新しい影が梁から梁へ跳ぶ気配。


 壁をなめるように移動する、メルのぬるりとした感覚。


 糸がすれる、ごく細い音。レースが夜のうちに何かを編んでいるらしい。


 ノートのページが、静かにふくらんだりしぼんだりするリズム。


 ボックスの中で、亜空間がゆっくりと呼吸する気配。


 城全体が、低い子守歌みたいに揺れている。


 地下のこの小さな「家」の中で。


 影を齧る鼠の気配を、たしかに感じながら。


 僕は、目を閉じた。

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