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第14話 掃除人メル

 わたしには目がない。


 だから「見る」という行為を、ほんとうの意味では理解できない。主がときおり語る、光とか、影とか、色彩とかいう概念は、わたしの核をかすかに震わせる程度だ。


 主の姿も、わたしは知らない。ただ味と振動と魔力の流れで、主を感じるだけだ。


 石畳を伝う振動。空気に漂う微粒子。湿度の変化。そして何より、味。


 味こそが、わたしの目であり、耳であり、世界そのものだった。


 この城は、いつも味がする。主が作り変えた岩壁は、きれいな石灰の味。レースが張り巡らせた糸は、金属と絹の中間のような、しゃりっとした味。


 クロムが通り過ぎた場所には、獣脂と温かな血の後味が残る。ノートのいる書庫からは、古い羊皮紙と乾いた塵埃の味が漂ってきて、どこか寂しい。ボックスは無味。


 そして主。


 主の味は、説明するのが難しかった。どの味にも似ていて、どの味とも違う。甘くも辛くもなく、熱くも冷たくもない。けれど、舐めると満たされる。


 あの味がある限り、わたしはここにいる意味がある。


 回廊の天井に張りついたまま、わたしは城全体を味わっていた。


 最近、城の味が変わった。


 以前は違った。冷たくて、酸味があって、引き締まった味。恐怖の味。侵入者たちが流した汗、凍りついた呼気、逃げ出す足音が刻んだ振動。どれも清潔で、均一で、掃除しやすかった。


 今は違う。熱っぽくて、脂っこくて、鉄錆のような血の匂いが混じる。欲望の味。


 主の方針が変わってから、城にはさまざまな人間が入ってくるようになった。彼らは恐怖よりも欲に駆られていて、その汗は粘つき、その呼気は濁っている。


 壁を触る指は脂まみれだし、靴底についた泥は石畳の隙間に押し込まれて、なかなか取れない。


 わたしは掃除人だ。


 主がそう言ったわけではない。けれど、わたしにはそれしかできない。溶かして、吸収して、魔力に変える。城を清潔に保つこと。汚れを魔力に還元して、主に捧げること。それがわたしの存在意義。


 だから最近は、少し憂鬱だった。


 汚れが、多すぎる。



* * *



 振動が来る。


 遠くから、規則的に。複数の足音。重い。金属が打ち合う硬い音も混じっている。


 また来た。


 わたしは天井のシミになったまま、動かない。体を限界まで薄く伸ばし、石の肌理に染み込む。気づかれたくないからではなく、観察したいから。どれくらい汚いか、確かめておきたいから。


 足音が近づく。


 五人。振動のパターンから、体格と装備がおおよそわかる。先頭の二人は重い。全身鎧だろう。三番目は軽い。斥候か魔術師。四番目と五番目は中程度。バランス型。


 やがて、彼らがわたしの感覚圏に入ってくる。


 松明の熱。油が燃える匂い。そして、汗の味。


 酸っぱい。期待と恐怖が混ざった、発酵途中の果実のような味。興奮している。怖がっているけれど、それ以上に、何かを得ようとしている。


「静かだな」


 声が響く。低い、男の声。


「罠は? あの糸ってやつ」


「見当たらねえ。本当にここで合ってるのか」


「地図通りだ。この先に鉱石があるはずだ」


 足音が進む。わたしの真下を通り過ぎていく。


 一人が立ち止まった。壁に意識を向けている。わたしではない。壁の表面に生えている光苔に手を伸ばしている。


 光苔だ。主が植えたもの。微弱な光を放つ苔だと主に教わった。人間には松明がなくても道がわかるらしい。


 男が腰からナイフを抜く。苔に刃を当てる。


 剥がそうとしている。


 わたしの核が、ちりちりと熱くなる。それは城の一部だ。主が作ったもの。主の意思で、主の魔力で、ここに存在しているもの。


 男がナイフを動かす。苔が一片、壁から剥がれ落ちる。


 怒りというほど強い感情ではない。けれど、不快だ。とても不快。誰かが主の服の裾を泥足で踏んでいくような感覚。


「おい、何やってんだ」


「光苔だよ。錬金術の触媒になる。小銭にはなるぜ」


「そんなもの後でいい。先に進め」


 男は舌打ちをして、剥がした苔を革袋に入れる。


 そのとき、別の男が咳払いをした。喉を鳴らして、唾を吐いた。石畳の上に、濁った液体が落ちる。


 わたしが舐めて清めた床だ。許せない。


 核の温度が、わずかに上がる。


 感情が、急速に凝っていく。これは主の城だ。主の床だ。わたしが毎日、隅々まで舐めるように清掃している場所を、なんの躊躇もなく、汚す。


 わたしは決めた。


 掃除をしよう。



* * *



 天井から、しずくが落ちる。


 最初はひとしずく。冷たい水滴が石畳にぽつんと跡を残す。続いて、もうひとしずく。そしてまたひとしずく。


 冒険者たちは気づかない。先を急いでいる。振動のパターンが少し速くなっている。緊張しているけれど、同時に高揚もしている。獲物が近いと思っているのだろう。


 しずくは増えていく。やがてそれは細い糸になり、糸は流れになり、流れは溜まりになる。


 彼らが気づいたのは、足元が濡れていることに違和感を覚えたときだった。


「なんだ、水が」


 振り向いた先には、不定形の水溜まりが広がっていた。天井から床まで繋がった、不定形の何か。


 わたしだ。


「スライムだ!」


 誰かが叫ぶ。剣が抜かれる音。金属が空を切る振動。刃がわたしの体に入る。


 くすぐったい。


 剣が通り抜けていく。鉄を感じる。手入れが行き届いていない。錆びかけている。油も塗っていない。道具を大切にしない人間は、城も大切にしないだろう。


 わたしの体は、剣によって二つに分かれる。そして、すぐに繋がる。


「効かねえ! 魔術師、火だ!」


「詠唱が」


 遅い。わたしはすでに広がり始めている。床を覆い、壁を這い上がり、天井から垂れ下がる。通路いっぱいの、ぬるりとした津波。彼らを包み込むように、ゆっくりと、しかし確実に迫る。


 逃げ場はない。前も後ろも、わたしだ。



* * *



 主の言葉を思い出す。あの穏やかな念話の響きを。


『殺してはいけないよ、メル。彼らは資源だから。壊してしまっては、もったいないでしょう』


 殺さない。それは絶対の法則としてわたしの核に刻まれている。主がそう望んだから。


 けれど、主は「汚さないでくれ」とは言わなかった。


 だから、わたしは掃除する。彼らを殺さずに、きれいにする。


 液体の中で、彼らはもがいている。


 水に溺れる人間の動きには、合理性がまったくない。手足をばたつかせ、空気を求めて口を開き、そこからさらに水が入って、また暴れる。


 わたしは彼らの体を包み込む。そして、選別を始める。


 肉は溶かさない。主がそう望んだから。それに、人間の肉はあまりおいしくない。脂っこくて、臭みがある。魔物のほうがずっと滋味がある。


 代わりに、別のものを溶かす。革。繊維。紐。留め具。


 鎧の内側を止めている革ベルトがじゅわっと溶ける。服の縫い目を構成している糸がしゅるしゅると解ける。靴の紐。武器の柄に巻かれた皮。鞘と剣帯を繋ぐ金具。


 人間の体に触れているもの、人間の体を守っているもの、人間の体を飾っているもの。それらだけを、選択的に、丁寧に、分解していく。


 わたしの酸は優秀だ。主にそう言われたことがある。生体と非生体を正確に区別し、必要なものだけを必要な速度で溶かすことができる。


 今、彼らの体は無傷のまま、装備だけが溶けていく。鎧がばらける。服がほどける。靴が脱げる。液体の中で、彼らはみるみるうちに裸になっていく。


 恐怖の味がする。欲望の脂っこさが洗い流され、純粋な恐怖だけが残る。冷たくて、酸味があって、引き締まった味。これだ。これがいい。これなら掃除しやすい。


 一人が叫ぼうとして、口に水が入って、むせる。別の一人が剣を振り上げて、しかし柄の皮がなくなって、手から滑り落ちる。また別の一人が魔法を唱えようとして、しかし触媒の革袋が溶けて、中身が散乱する。


 無力。完全に、徹底的に、無力。


 それでいい。それが正しい。主の城で勝手に暴れた罰。壁を傷つけ、床を汚した罰。


 掃除であり、教育であり、少しだけ楽しい。



* * *



 しばらく経っただろうか。彼らの動きが鈍くなる。息が続かないのだ。人間は水の中で長く生きられない。そろそろ限界だろう。


 殺してはいけない。


 わたしは体の一部を解放し、彼らに空気を与える。頭だけが水面から出る形に、体を調整する。


 彼らは咳き込み、喘ぎ、必死に呼吸する。


「なんだ、なんなんだこれは」


「装備が、装備がぜんぶ」


「くそ、くそっ」


 悲鳴と罵声が混じる。けれど、もう抵抗する力は残っていない。武器もない。防具もない。魔法の触媒もない。彼らはただの、裸の人間だ。


 わたしは彼らを運び始める。床を滑らせるように、通路を戻らせる。粘液の滑り台。


 彼らは抵抗できない。ぬるぬると滑っていく。上層へ、入り口へ、外へ。



* * *



 最後の一人を押し出したとき、外の空気が入ってきた。冷たくて、乾いていて、少し寂しい味。外の世界の味だ。わたしには似合わない。


 彼らは這うようにして逃げていく。振動が遠ざかる。悲鳴が小さくなる。やがて、静寂が戻る。


 残されたのは、彼らの装備だった。溶け残った金属。剣、短剣、鎧の金具、硬貨、宝石。有機物はすべて分解された。革も布も紐も、すべて魔力に変わった。無機物だけが、通路のあちこちに散らばっている。


 わたしはそれらを集め始める。体の一部を伸ばして、ひとつひとつ拾い上げる。剣は重い。短剣は軽い。硬貨は磨かれた金属の味がする。宝石はほんの少しだけ甘い味がする。


 すべてを核の近くに集め、運搬しやすいようにまとめる。主に届けなければ。それがわたしの役目だから。



* * *



 主が来た。


 足音が違う。彼らとはまったく違う、静かで、軽やかで、それでいて確かな足音。コートの裾が揺れる振動。髪が空気をかすかに切る感触。こちらへ意識を向けている気配。


 わたしは床のシミから、小さな突起を伸ばす。その先端に、硬貨を乗せる。金貨が三枚。銀貨が十二枚。銅貨がたくさん。


 主に差し出す。


『主』


 念話で呼びかける。声は出せない。けれど、念話でなら、少しだけ言葉を伝えられる。


『おそうじ、しました』


 主は何も言わない。しばらくの間、黙って硬貨を見つめている。それから、ゆっくりと手を伸ばす。硬貨ではなく、わたしの突起に。


 指先が触れる。


 温かい。主の魔力が流れ込んでくる。それはどんな食事よりも満足感があって、どんな言葉よりも優しくて、どんな報酬よりも嬉しい。主がわたしに触れている。それだけで、十分だ。


『よくやったね、メル』


 主の念話が響く。


『きれいになった。ありがとう』


 わたしの核が、ふるふると震える。嬉しい。この震えが、そういう名前だと知った



* * *



 夜が更けていく。


 城の奥から、主の呼吸の振動が伝わる。クロムの温かな振動。レースの糸を紡ぐ音。ノートがページをめくる気配。ボックスの静かな存在。


 家族の味がする。


 わたしは城全体に薄く染み渡り、眠らずに待つ。


 次の汚れが来るまで。


 すべてが、わたしの守るべき場所だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回もよろしくお願いいたします。

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