第13話 依頼
静けさには重さがある。
アニスは拠点の奥、磨かれた石壁に背を預けながら、その重さを測っていた。
みんなの気配が、いつもより近い。クロムは膝を抱えて蹲り、メルは床の隅で縮こまっている。レースだけが無表情のまま壁際に立っていたが、その指先は落ち着きなく糸を紡いでは解いている。ノートは書庫から出てこない。ボックスは蓋を閉じたまま微動だにしない。
三日が過ぎていた。
罠には何もかからない。麻痺茨は枯れかけ、鋼糸は埃を纏い始めている。
念話でクロムの意識に触れると、空腹という言葉では足りない、もっと根源的な渇きが伝わってくる。魔力が薄れていく感覚。
アニスは目を伏せる。
成功したと思っていた。殺さずに追い返す。恐怖を植え付け、噂を広める。それが持続可能な防衛だと信じていた。
浅かった。
恐怖は確かに広まった。広まりすぎたのだ。今や『亡霊の城』は、冒険者たちの間で禁忌として語られている。近づく者はいない。挑む者もいない。
ダンジョンは干上がろうとしていた。
「レース」
アニスは声に出して呼ぶ。配下たちにとって、主の肉声は特別な意味を持つ。
レースが振り向く。硝子玉のような瞳が、淡い光を反射する。
「レースの糸で、何か作れるかな。人間が欲しがるようなもの」
レースは首を傾げる。
「きれい、なもの」
幼い声が響く。
「きれい、だけど、つよい。ほしがる、かな」
アニスは少し考え込む。美しいものを売る。それも一つの手だろう。しかし、どこで売る。誰に売る。このダンジョンの主が作ったものだと知れれば、誰も手を出すまい。
別の方法が必要だ。
恐怖だけでなく、欲望を。
アニスは立ち上がり、埃を払う。壁に掛けられた漆黒のコートに手を伸ばす。
クロムが顔を上げる。念話で問いかけが届く。どこへ、と。
アニスはクロムの頭にそっと手を置く。
「僕の判断が間違っていた。直してくるから、少しだけ待っていて」
クロムの瞳に、微かな光が戻る。
* * *
地上に出ると、空気が違う。
湿り気を含んだ風。遠くから聞こえる鍛冶屋の槌音。荷馬車の車輪が石畳を叩く規則正しいリズム。生きている街の匂いに包まれる。
姿は黒髪の青年剣士。かつてクロムと共に『赤鉄の坑道』へ向かったときのもの。腰には短剣を佩き、背筋を伸ばして歩く。怪しまれない程度に自信を持ち。
冒険者ギルドは街の中心部にあった。
石造りの重厚な建物。入り口の上には交差した剣と盾の紋章が掲げられ、その下を様々な装いの冒険者たちが行き交う。
アニスは一瞬、足を止める。
ギルドに出入りする者たちの表情。足取り。装備の質。会話の断片。そういったものを、一つ一つ記憶に刻んでいく。
深く息を吸う。人間の匂いを纏い直す。
扉を押し開ける。
内部は予想通りの喧騒だ。受付カウンターに並ぶ列。掲示板の前で顔を突き合わせるパーティー。隅のテーブルで地図を広げている老練な冒険者。
そして、酒場。
昼間から酒を飲む者たちの姿がある。仕事を終えた者。仕事を探している者。あるいは、仕事を失った者。
アニスの視線が、窓際のテーブルで止まる。
四人の冒険者がいる。
一人は壁に背を預け、ジョッキを手にぼんやりと窓の外を眺めている。もう一人は俯いて、何かを書き付けている。残りの二人は低い声で何事かを話し合っていたが、その会話には熱がない。
アニスは知っていた。
あれが最初の侵入者たちだ。自分のダンジョンに足を踏み入れ、恐怖を刻まれて帰っていった者たち。
トト、と呼ばれていた男の横顔を見る。あのパーティーを率いていた者だ。
傷は癒えている。少なくとも、外見上は。けれど、あの男の目には奇妙な落ち着きがあった。恐怖を知った者特有の、諦念とも達観ともつかない静けさ。
自分は壊す側にいる。なのに、壊れなかった者に惹かれている。
しかし今は別の用がある。
掲示板へ向かう。依頼書が所狭しと貼り出されている。魔物討伐。護衛任務。薬草採取。失せ物探し。
アニスは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
自分で書いたものだ。レースの糸を筆代わりに、インクの代わりに自分の魔力を薄めて使った。人間の目には普通の墨に見えるが、わかる者が見れば、それが尋常のものではないと気づくだろう。
依頼内容は単純だ。
『夜光花の採取。場所は東の丘陵地帯、地下洞窟深部。報酬、金貨五十枚』
依頼主の欄は空白にしてある。匿名依頼。ギルドが仲介する形になる。
アニスは依頼書を掲示板の目立つ位置に貼り付ける。誰かが見ている気配がする。振り向かない。そのまま踵を返し、酒場のカウンターへ。
安い麦酒を一杯頼み、壁際の席に腰を下ろす。
待つつもりだ。どんな者が食いつくか、見届けるために。
* * *
反応は、思ったより早かった。
掲示板の前で、声が上がる。
「おい、見ろよこれ」
五人組のパーティーだ。
リーダーらしき男は、鍛え上げられた体躯に銀色の胸当てを着けている。腰には幅広の剣。背後に控える仲間たちも、それなりの装備を整えていた。中堅どころ、というやつだろう。
「金貨五十枚だと? 何かの冗談か」
「場所を見ろ。東の丘陵、地下洞窟……これ、まさか」
「『亡霊の城』じゃねえか」
声が低くなる。
しかし、リーダーの目は依頼書から離れない。金貨五十枚。その数字が、男の目の中で恐怖と戦っている。
「夜光花か。確かに高値で売れる。錬金術師が欲しがるやつだ」
「でもよ、あそこに入るのか? この前のパーティー、全員廃業したって話だぜ」
「死んだわけじゃない」
リーダーが言い切る。
「花を取って帰るだけだ。戦う必要はない。入って、取って、出る。それだけの話だろう」
仲間たちは顔を見合わせる。不安と欲望が、彼らの表情の上で綱引きをしている。
リーダーが依頼書を掲示板からむしり取る。
「俺たちは『銀狼の牙』だ。この程度で怖気づくわけにはいかねえ」
その瞬間、声が聞こえた。
「やめておけ」
静かな声だ。
酒場の喧騒を縫って、不思議なほど明瞭に届く。
アニスは目を細める。
声の主は、窓際のテーブルにいた男。トト。彼はジョッキを置き、『銀狼の牙』の方を見ていた。
「割に合わない」
トトの声には震えがない。かつての報告で聞いた、あの震える指の持ち主とは思えないほど落ち着いている。
「何だと」
リーダーが眉を吊り上げる。
「あそこは戦う場所じゃない」
トトは立ち上がらない。座ったまま、穏やかに続ける。
「弄ばれて終わる。どれだけ強くても、あそこでは意味がない」
「ほう」
リーダーは嘲笑う。
「お前、もしかしてこの前の連中か? ボロボロになって逃げ帰ってきたっていう」
トトは答えない。
「怖気づいて逃げた腰抜けが、偉そうに説教かよ」
酒場が静まり返る。
トトの仲間たち、マルク、エマ、ガルドが顔を上げる。緊張が走る。しかし、トト自身は微動だにしない。
「腰抜けで結構だ」
彼は言う。
「俺は生きて帰ってきた。それで十分だ」
リーダーは鼻で笑う。
「話にならんな。行くぞ」
五人は酒場を出ていく。
その背中を見送りながら、トトは静かにジョッキを傾ける。
アニスは、その横顔を見ていた。
恐怖を知り、恐怖を受け入れ、恐怖の向こう側に立っている。そういう人間の顔だ。
壊れかけて、壊れなかった者の強さ。
いずれにせよ、今は関係ない。
獲物が罠に向かっている。あとは待つだけだ。
* * *
夜が来る。
アニスはとうに拠点へ戻っていた。
みんなに指示を出す。念話で、一つ一つ丁寧に。
今夜は殺さない。傷つけすぎてもいけない。彼らには目的の花を持ち帰らせる。ただし、ただで帰すわけにもいかない。
恐怖を刻め。しかし、希望も残せ。
死ぬほど危険だが、報酬は手に入る。
そういう記憶を、骨の髄まで染み込ませろ。
クロムが頷く。念話で伝わる感情は、獲物を前にした捕食者の昂揚。飢えていたぶん、その気配は鋭い。
レースは糸を張り始める。いつもより複雑な、しかし致命的ではないパターン。逃げ道を塞ぎつつ、一本だけ安全な経路を残す。
メルは床に溶け込む。気配を完全に消して、ただ待つ。
ノートは書庫から這い出し、天井の影に身を潜める。『念話』を使い、侵入者の会話を傍受する準備だ。
ボックスは入り口近くに陣取る。ガラクタの山に偽装して、最後の仕掛けの役目を担う。
アニスは最奥の間で、静かに座していた。
足音が聞こえる。
遠く、かすかに。
来た。
* * *
『銀狼の牙』の五人は、慎重に進んでいた。
松明の明かりが、湿った壁を照らす。水滴が落ちる音。自分たちの足音。それ以外には何も聞こえない。
「静かすぎる」
斥候役の男が囁く。
「罠があるって聞いたぞ。糸とか、茨とか」
「目を凝らせ。慎重に行けば大丈夫だ」
リーダーが先頭に立つ。剣の柄に手をかけ、一歩一歩確かめるように進む。
十歩。
二十歩。
何も起きない。
「おい、案外いけるんじゃねえか」
後衛の魔術師が、少し緊張を解く。
その瞬間。
足元の床が、わずかに沈む。
全員が凍りつく。
何も起きない。
一秒。二秒。
誰かが安堵の息を吐こうとする。
頭上から、何かが落ちてきた。
糸だ。
無数の細い糸が、天井から垂れ下がってくる。触れれば肌が裂けると、本能が告げている。しかし、糸は彼らの周囲すれすれで止まる。鳥籠のように。
「動くな」
リーダーが命じる。
声が震えている。
「落ち着け。殺すつもりなら、もう死んでる」
魔術師が光魔法を唱える。周囲が明るくなる。
糸が見える。
壁から壁へ、天井から床へ、無数の糸が張り巡らされている。その隙間を縫って、彼らは歩いてきたのだ。気づかないうちに。
そして今、退路は完全に塞がれている。
「前に進むしかない」
リーダーが言う。
声は平静を装っているが、額には汗が浮かんでいる。
一行は進む。
糸の檻は少しずつ形を変え、彼らを誘導するように道を開けていく。選択の余地はない。ただ示された道を行くしかない。
やがて、広い空間に出た。
そこに花がある。
淡い青白い光を放つ花。その光は脈打つように明滅し、まるで呼吸しているようだった。岩壁の隙間から群生している。夜光花。間違いなく、依頼の品だ。
「あった」
誰かが声を上げる。
「取れるぞ。本当に取れる」
歓喜と困惑が入り混じった声。
リーダーが花に近づく。手を伸ばす。
花はあっさりと摘み取れた。
罠はない。何の抵抗もない。
斥候の手が、無意識に護符を握りしめていた。
「どういうことだ」
斥候が周囲を見回す。
「なぜ守らない。こんな貴重なものを」
答えは来ない。
彼らは花を袋に詰める。できるだけ多く。根こそぎ取るつもりで。
そのとき、空気が変わる。
温度が下がったわけではない。風が吹いたわけでもない。
ただ、何かがいると感じる。
見られている。
背後に、上に、周囲のあらゆる場所に、視線がある。
リーダーが振り向く。
闇の中に、人影があった。
黒いコートを纏った姿。銀に近い白い髪。琥珀色の瞳が、松明の光を反射している。
少女のようだ。しかし、少女ではない。
その存在感は、人間のものではない。
喉が渇く。全員が同時にそう感じた。
「帰っていいよ」
声が響く。
高くも低くもない、不思議な響きを持つ声。どこか穏やかですらある。
「花は持っていって。報酬は受け取れ。ただし、覚えておいて」
琥珀色の瞳が細められる。
「次は許すとは限らないから」
五人は動けない。
圧倒されている。
「行きなさい」
声が命じる。
呪縛が解けたように、五人は走り出す。振り向かない。振り向けない。糸の檻は消えている。退路が開いている。
ただ走る。
這い出るように地上へ戻り、夜明けの光を浴びたとき、ようやく膝が折れる。
全員、息を荒げている。
手には花が残っていた。
* * *
ギルドに花が持ち込まれたのは、その日の昼過ぎのこと。
『銀狼の牙』の五人は、言葉少なに報酬を受け取る。
彼らは廃業しなかった。逃げ出しもしなかった。ただ、あのダンジョンには二度と行かないと、誰にでもわかる顔で言う。
けれど、彼らは花を持ち帰った。
その事実が、酒場を駆け巡る。
「攻略できるのか」
「殺されなかったんだな」
「花はいくらで売れる? 金貨五十枚の依頼料に見合う価値があるのか?」
計算高い者たちが、そろばんを弾き始める。
命知らずの若者たちが、目を輝かせ始める。
掲示板には、いつの間にか新しい依頼書が貼られていた。
『地下洞窟採取依頼。各種鉱石、薬草。報酬応相談』
具体的な金額は書かれていない。しかし、場所は同じだ。
東の丘陵。地下洞窟深部。
あの城である。
窓際のテーブルで、トトは静かにそれを眺めていた。
傍らのマルクが言う。
「様子が変わったな。昨日まで誰も近づこうとしなかったのに」
「ああ」
酒場の喧騒が、少しずつ熱を帯びていく。恐怖だけだった場所に、欲望が流れ込み始めている。
エマが何か言いかけ、やめた。
トトはジョッキを傾ける。
麦酒の味が、少しだけ戻っていた。
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