第12話 トト
雨が降っていた。
冷たく、執拗に、まるでこの街全体を洗い流そうとするかのように。石畳の隙間を細い川が走り、軒先から落ちる雫が規則正しいリズムを刻んでいる。
冒険者ギルド併設の酒場『鉄の斧亭』は、いつものように喧騒に満ちていた。
討伐した魔物の自慢話。報酬を賭けた博打。安酒に酔った男たちの下品な笑い声。そういったものが渾然一体となって、湿った空気を揺らしている。
けれど、窓際のテーブルだけは違った。
四人の冒険者が座っていた。誰も口を開かない。エールのジョッキは満たされたまま、手つかずで置かれている。
リーダーのトトは、自分の指先を見つめていた。
震えている。
かすかに、けれど確実に。止めようとしても止まらない。あの夜から、ずっとこうだった。
「トト」
斥候のマルクが、低い声で呼んだ。
「ギルドから呼び出しだ。査問だと」
トトは頷いた。立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。
マルクが無言で肩を貸した。
* * *
査問室は、酒場の喧騒から切り離された別世界だった。
石造りの壁。磨かれた樫の机。燭台の炎が、四人の影を壁に投げかけている。
机の向こうに座る男は、ギルドの調査官ヴェルナーだった。白髪交じりの髭を蓄え、深い皺が刻まれた顔。かつては名のある冒険者だったと聞く。今はギルドの目と耳として、あらゆる報告を精査する立場にある。
「座りなさい」
ヴェルナーの声は穏やかだった。責めるような響きはない。むしろ、医者が患者を診るような、そういう種類の落ち着きがあった。
四人は椅子に腰を下ろした。
「報告を聞きたい」
ヴェルナーが羽ペンを手に取る。
「あの地下空洞で、何があった」
沈黙が落ちた。
誰から話すべきか。何から話すべきか。トトは言葉を探した。けれど、適切な言葉が見つからない。
彼らが体験したものを、どう説明すればいいのだろう。
「魔物は」
トトは、ようやく口を開いた。
「出ませんでした」
ヴェルナーの眉が、わずかに動いた。
「一体も?」
「一体も」
トトの声は乾いていた。
「いや、正確には……見ることができませんでした。何がいたのか。何が俺たちを襲ったのか。最後まで、わからなかった」
マルクが補足した。
「俺は斥候だ。罠を見つけるのが仕事だ」
彼の声は平坦だった。感情を押し殺しているのではない。感情そのものが摩耗しているような響き。
「足音を消して歩いた。壁を確認した。天井も見た。何もなかった。何も見えなかった。なのに——」
テーブルの下で、彼の手が膝を掴んでいる。爪が食い込むほど強く。
「俺たちは最初の一歩から、もう詰んでいたんだ」
魔術師のエマが、小さな声で付け加えた。
「探知魔法を三種類使いました」
彼女の声は、講義をする学者のように淡々としていた。それが逆に痛々しかった。
「生命探知。魔力探知。動体探知。全部、反応なしでした。だから光魔法で直接照らした。そしたら——」
彼女の手が、テーブルの下で握りしめられている。
恐怖ではなかった。少なくとも、最初は。
美しかったのだ。
光魔法の輝きに照らされた無数の糸は、まるで凍りついた雨のようだった。一瞬、息を呑むほど美しいと思った。それが罠だと気づいたのは、ガルドの腕から血が噴き出した後だった。
「糸でした。無数の糸が、空間を埋め尽くしていた。天井から床へ、壁から壁へ。肉眼では見えないほど細くて、でも……」
エマは自分の手を見下ろした。魔術師として、未知の現象を分析し、言語化するのが彼女の役目だった。けれど、あの空間で感じたものを、どう説明すればいいのかわからない。
「鋼でした」
エマの声が震えた。
「糸じゃない。鋼の線です。触れただけで、服が裂けた。ガルドの腕が切れた。私たちは、巨大な蜘蛛の巣の中にいたんです。気づかないうちに、もう逃げられない場所まで踏み込んでいた」
僧侶のガルドが、自分の腕を見下ろした。
包帯の下には、赤い線が残っている。あと少し深ければ、腱が断たれていた。
「茨もあった」
トトが引き継いだ。
「床から這い出してきた。俺が剣で斬りつけたが、刃の方が欠けた」
ガルドは包帯の下の傷を無意識に掻いた。
「浄化の祈りを唱えました」
神官として三十年。悪霊を祓い、呪いを解き、死者を安らかに送ってきた。その全ての経験が、あの空間では無意味だった。
「聖印が、冷たかった」
彼の声が、初めて震えた。
「神の加護が届かない場所があるなんて、考えたこともなかった」
聖印を握ろうとすると、今でも指が震える。神を疑っているのではない。神が守れない領域があることを、知ってしまったのだ。
ヴェルナーは、黙って書き記していた。
「それで?」
「逃げました」
トトが言った。
「それしかできなかった。戦う相手がいなかった。俺たちは……」
言葉が詰まった。
「俺たちは、害虫みたいに追い払われたんです。そういう扱いでした」
ヴェルナーのペンが、紙の上を走り続けている。
「興味深いのは」
彼は顔を上げずに言った。
「君たちが生きて帰ってきたことだ」
四人は、顔を見合わせた。
「普通のダンジョンなら、侵入者は殺される。魔物にとって、人間は餌だ。あるいは縄張りを荒らす敵だ。いずれにせよ、排除の対象になる」
ヴェルナーはペンを置いた。
「しかし、君たちは殺されなかった。傷を負い、毒を受け、恐怖を植え付けられた。けれど、致命傷には至っていない」
トトは頷いた。
それは、彼自身も感じていたことだった。
「まるで、殺すつもりがなかったみたいでした」
「あるいは」
ヴェルナーの目が、鋭く光った。
「殺すよりも、生かして帰す方が有効だと判断された」
誰も、次の言葉を継げなかった
ガルドが、重い声で言った。
「どういう意味です」
ヴェルナーは窓の外を見た。雨粒が硝子を伝い落ちていく。
四十年前、彼もまた冒険者だった。仲間を六人、ダンジョンで失った。そのうち三人は、姿の見えない敵に殺された。
「私が若い頃にも、似た報告があった」
彼の声は、わずかに低くなった。
「東の山脈。名もない洞窟。入った者は皆、同じことを言った。敵が見えなかった、と」
トトたちは顔を見合わせた。
「その洞窟は、今どうなっているんですか」
「ない」
ヴェルナーは短く答えた。
「王国軍が魔術師団を動員して、山ごと焼いた。それでも、完全に滅ぼせたかどうかはわからない」
しかし、恐怖を植え付けて生かして帰せば、噂が勝手に広まる。実態以上に恐ろしい場所として語り継がれる」
彼はペンを取り上げ、報告書の末尾に何かを書き込んだ。
「これは、知性の仕業だ。あのダンジョンには主がいる。ロードが君臨している。野生の魔物には、こんな判断はできない」
* * *
査問を終えて酒場に戻ると、空気が変わっていた。
視線を感じる。囁き声が聞こえる。
「あいつら、例の洞窟から帰ってきたらしいぜ」
「嘘だろ。生きて帰れたのか?」
「見てみろよ、顔色を。まるで幽霊でも見たみたいじゃねえか」
トトは足を止めなかった。仲間たちと共に、元のテーブルに戻った。
今度こそ、エールに手を伸ばした。
冷たい液体が喉を通り過ぎていく。味はしなかった。何を飲んでも、何を食べても、あの夜から味がしない。
「よう」
声をかけてきたのは、別のパーティーのリーダーだった。赤毛の大男で、名前はグレンだったか。
「話を聞かせてくれよ。お前ら、新しいダンジョンに入ったんだろ?」
トトは答えなかった。
エマが代わりに口を開いた。
「行かない方がいい」
「そんな恐ろしいとこなのか?」
グレンは興味深そうに身を乗り出した。
「どんな魔物がいた? お宝は? 情報を売ってくれよ、金は払う」
「いいから、行くな」
マルクが低い声で言った。
「あそこには、何かがいる。姿は見えない。気配もわからない。でも、確実にいる。そして、俺たちのことを見ていた。最初から最後まで、ずっと」
グレンの笑みが、わずかに硬くなった。
「大げさだな。お前らほどの腕で、そこまで怯えるなんて」
「大げさじゃない」
ガルドは包帯を巻いた腕を見せた。
グレンの表情が変わった。傷を見たからではない。ガルドの目を見たからだ。三十年の経験を持つ僧侶が、あんな目をしている。怯えではなく、もっと深い何か。諦めに似た、けれど諦めとは違う何か。
トトは思った。
俺たちは壊れかけている。
あの夜から、四人の間に見えない亀裂が走っていた。言葉にはしない。できない。けれど、全員がわかっていた。もう以前のようには戻れない。
言葉が途切れた。
ガルドは俯き、拳を握りしめた。
「あんな惨めな思いをしたのは、初めてだ」
グレンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は一歩下がった。
「わかった。忠告、ありがたく受け取っておく」
彼が去った後、酒場の喧騒が戻ってきた。
けれど、トトたちのテーブルの周りだけは、誰も近づこうとしなかった。まるで見えない壁があるかのように。
あるいは、彼らが纏う空気が、他の者たちを遠ざけているのかもしれなかった。
* * *
噂は、瞬く間に広がった。
三日後には、ギルドの掲示板にその名が書き加えられていた。
『亡霊の城』。
姿の見えない敵。美しく磨かれた死の罠。踏み込んだ者は、気づかぬうちに蜘蛛の巣に絡め取られ、恐怖だけを土産に追い返される。
酒場の隅で、若い冒険者が仲間に囁いた。
「聞いた話じゃ、壁が動くらしいぜ」
「馬鹿言え、糸だよ糸。見えない糸が張り巡らされてて——」
「いや俺が聞いたのは違う。床から手が生えてくるんだって」
話は人から人へ渡るたびに形を変えた。
宿屋の女将は、客に茶を出しながら言った。
「あそこに行った人、みんな目がおかしくなって帰ってくるのよ。何日も眠れなくなるんですって」
鍛冶屋の親父は、剣を研ぎながら首を振った。
「あの連中の武器を見たか? 刃が欠けてやがった。何を斬ったらああなる? 石でも斬ったのか?」
「石じゃねえよ」
客の一人が言った。
「糸だ。鋼の糸。そいつを斬ろうとして、逆に刃をやられた」
誰もが語りたがった。誰もが怖がりたがった。
けれど、確かめに行こうとする者は、ほとんどいなかった。
あの洞窟に入らなければならない。
そして、入った者が無事に帰ってくる保証はどこにもなかった。
* * *
一週間が過ぎた。
トトは、その一週間を断片的にしか覚えていなかった。
初日は眠れなかった。目を閉じると、見えない糸が瞼の裏に浮かんだ。
二日目、食事を取ろうとしてパンを口に運んだが、味がしなかった。噛んでも噛んでも、ただの繊維を咀嚼しているようだった。
三日目から五日目までは、宿の部屋に籠もっていた。窓の外を眺めていた。雨が降って、止んで、また降った。
六日目、ようやく外に出た。日光が眩しすぎて、目を細めた。
七日目。
トトは、仲間たちと共に酒場にいた。
雨は止んでいた。窓の外には、雲の切れ間から覗く夕焼けが見えた。
「そろそろ、次の仕事を探すか」
トトが言った。
指の震えは、ようやく収まりつつあった。
「あのダンジョン以外で、だけどな」
マルクが苦笑した。
「当たり前だ。二度とあそこには行かない」
「同感」
エマが頷いた。
「私たちは運が良かった。あれは、警告だったんだと思う。これ以上踏み込むな、という」
「警告を無視したら、次は殺される」
ガルドが低い声で言った。
「あの城のロードは、そういうルールで動いている。最初は警告。従わなければ、排除。合理的で、冷酷で、そして……」
言葉を切った。
「そして?」
トトが促す。
ガルドは、しばらく考え込んでから言った。
「慈悲深い、とさえ思えた」
「慈悲?」
「殺さないことを選んでいるんだ、あのロードは」
ガルドの声は、不思議と穏やかだった。
「殺す力があるのに、殺さない。追い返すだけで済ませている。それは、ある意味で慈悲だろう。俺たちが敵だと見なされていたら、今頃は白骨になっていたはずだ」
四人の間を、冷たい風が通り過ぎたような気がした。
トトは、窓の外を見た。
夕焼けが、街の屋根を赤く染めている。
「俺たちは冒険者だ」
トトは言った。
「未知に挑み、財宝を持ち帰り、名を上げる。それが俺たちの生き方だ」
仲間たちは、黙って聞いていた。
「でも、あの城は違う。あそこには、俺たちの求めるものはない。あるのは恐怖だけだ。踏み込めば踏み込むほど深くなる、底なしの恐怖」
トトは立ち上がった。
「行くなよ」
彼は仲間たちに言った。自分自身に言い聞かせるように。
「あそこには、二度と」
四人は頷いた。
誰も、それ以上は言わなかった。
トトたちは生き残った。
恥をかいた。プライドを砕かれた。けれど、命は残った。
それで十分だった。
* * *
酒場を出ようとしたとき、トトは足を止めた。
窓の外。
赤毛の大男が見えた。グレンだ。
彼は仲間を三人従えて、街の東門へ向かっていた。背中には武器を背負い、腰には縄と松明。完全な探索装備だった。
マルクが、トトの視線を追った。
「まさか」
「ああ」
トトは唇を噛んだ。
「あの方角は、間違いない」
止めるべきだろうか。走り出て、腕を掴んで、もう一度警告すべきだろうか。
けれど、トトの足は動かなかった。
言っても無駄だと、わかっていた。冒険者とはそういう生き物だ。他人の忠告より、自分の目を信じる。危険だと言われれば、なおさら確かめたくなる。
自分たちだって、そうだったのだから。
グレンの姿が、路地の向こうに消えていく。
エマが、小さな声で言った。
「……帰ってこられるかな」
誰も答えなかった。
雨上がりの夕暮れ。
トトは、まだ温かいジョッキを握りしめたまま動けなかった。
* * *
三日後、グレンたちは帰ってきた。
四人とも生きていた。
けれど、誰も何も語らなかった。酒場に入ってきたグレンは、トトと目が合った瞬間、すぐに視線を逸らした。
その夜から、グレンは酒場に姿を見せなくなった。
仲間の一人は冒険者を廃業した。故郷に帰ると言い残して、街を出た。
もう一人は、別のパーティーに移った。遠い南の国で、まったく違う仕事を始めたと聞いた。
最後の一人は、まだ街にいる。けれど、誰とも口をきかない。宿の部屋に籠もって、一日中窓の外を見ているらしい。
トトは、それを人づてに聞いた。
そして思った。
俺たちは運が良かったのだ、と。
あの城のロードは、確かに慈悲深かった。殺さずに帰してくれた。恐怖だけを土産に。
けれど、その恐怖は、ゆっくりと人を殺す。
トトは自分の手を見た。
もう、震えは止まっていた。
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