第11話 味のしないスープ
朝になって、やはり気のせいだと思うことにした。
誰かが呼んでいる、などという感覚。夢の残滓。深層でゴルムと対峙した緊張が、まだ体のどこかに残っていたのだろう。
ランタンの灯りを消して、僕は身を起こした。
クロムが僕の腕にしがみついたまま、むにゃむにゃと寝言を言っている。人型になってから、彼は少し甘えるようになった気がする。そっと腕を抜いて、膝を立てた。
拠点は静かだった。
ボックスのおかげで床が見えるようになり、レースの糸が壁を這い、メルが隅でゆらゆらと眠っている。昨日までのゴミの山が嘘のように、そこに秩序が生まれていた。
城らしくなってきた。
僕は木箱から地図を取り出した。
広げるたびに、新しい発見がある。昨夜は気づかなかった線。今朝になって初めて見える記号。まるで地図自体が、少しずつ僕に心を開いてくれているような。
そんなわけはないのだけれど。
指先で輪郭をなぞる。
拠点の位置。入口へ続く通路。罠を仕掛けた麻痺茨の群生地。そして——
指が止まった。
拠点の壁のすぐ向こう。ほんの数歩の距離に、何も描かれていない領域があった。
空白。
通路の線も、部屋を示す枠も、何もない。
地図の製作者が描き忘れたのだろうか。いや、これほど精緻な地図を作った者が、そんな単純なミスをするとは思えない。
意図的に空白にした。
あるいは、空白にせざるを得なかった。
僕は壁を見た。
冷たい石の壁。何の変哲もない壁。
けれど地図は嘘をつかない。
「起きて」
声をかけると、クロムが跳ね起きた。レースが糸を編む手を止め、メルがころりと転がってきた。ボックスだけは、蓋を閉じたまま微動だにしない。
「調べたい場所がある」
僕は地図を示した。
クロムが首を傾げる。彼には空白の意味がわからないのだろう。当然だ。地図の読み方など、誰も教えていない。
レースが無表情のまま、壁を見つめた。
彼女には何か見えているのだろうか。
「この向こうに、何かある」
壁に手を触れた。
冷たい。湿っている。長い年月、誰にも触れられなかった石の感触。
ツルハシで砕くこともできる。『創成』で穴を開けることもできる。
けれど、それは美しくない。
僕はボックスから得た力を思い出した。
亜空間。
物を仕舞い、取り出す力。ミミックの体内にある、異次元の収納空間。
壁もまた、物質だ。
ならば——
手のひらに意識を集中させた。
石壁のブロックを、一つの「物」として認識する。この世界から切り離し、別の場所へと移動させる。
消えるのではない。収納するのだ。
石が、溶けるように薄れていった。
音はなかった。振動もなかった。ただ、そこにあったものが、なくなった。
最初から道があったかのように、滑らかな通路が現れた。
クロムが息を呑む気配がした。
僕は一歩、踏み出した。
通路は短かった。
十歩も歩かないうちに、開けた空間に出た。
書庫だった。
いや、かつて書庫だった場所、と言うべきか。
天井から染み出した水が、床に小さな水たまりを作っている。湿気が肌にまとわりつき、呼吸するたびに黴の匂いが鼻を突いた。
壁一面の棚。そこに並んでいたはずの書物は、今やその原形をとどめていなかった。
腐っていた。
紙が水を吸い、膨張し、隣の本と癒着し、やがて崩れて泥のような塊と化している。背表紙の金箔は剥げ落ち、革の装丁はカビに覆われ、文字は滲んで読み取れない。
知識の墓場。
そう呼ぶにふさわしい惨状だった。
レースが僕の隣に来た。
彼女の無表情が、わずかに曇る。死んだ冒険者の言葉を真似て話す彼女には、「書物」というものの価値がわかるのかもしれない。人間の知識。人間の記憶。それが朽ちていく様を、彼女は静かに見つめていた。
メルは入り口で立ち止まっていた。
彼女にとって、この湿気は心地よいものではないのだろう。
クロムだけが、僕の前に出た。
鼻をひくつかせ、耳を立て、暗がりの奥を睨んでいる。
何かいる。
僕にもわかった。
書庫の中央、崩れかけた机の傍らに、揺らぐ人影があった。
半透明。
輪郭が定まらない。
人の形をしているようで、していない。男のようで、女のようで、老人のようで、子供のようで——見る角度によって、印象が変わる。
悪霊。
スペクターと呼ばれる類の魔物だ。
クロムが即座に反応した。
影のように跳躍し、爪を振るう。
すり抜けた。
物理攻撃が通じない。
わかっていたことだ。けれど、クロムにはまだ理解できていなかった。彼は戸惑ったように着地し、もう一度爪を振るい、もう一度すり抜けた。
悪霊が、声を上げた。
声ではなかった。
音ですらなかった。
頭の中に直接響く、拒絶の悲鳴。
耳を塞いでも無駄だった。鼓膜を介さない音。脳髄を直接揺さぶる振動。
クロムが悲鳴を上げて後退した。レースが糸を構えようとして、膝を折った。メルは入り口で震えている。
僕も一歩、後ろに下がった。
痛い。
けれど、耐えられないほどではない。
悪霊は僕たちを追ってこなかった。
僕たちが後退すると、悲鳴も止んだ。
静寂が戻る。
書庫に、重たい沈黙が降りた。
僕は目を凝らした。
悪霊は、攻撃してきたわけではなかった。
追い払おうとしていたのだ。
近づくな、と。
何を守っている?
腐った本の山。泥と化した知識。カビに覆われた棚。
その中で、悪霊は何かを覆い隠すようにして漂っていた。
実体のない身体で、必死に何かを守ろうとしている。
僕は一歩、前に出た。
クロムが僕の袖を掴む。行くな、と言いたいのだろう。
「大丈夫」
小さく告げて、僕はさらに一歩を踏み出した。
悪霊が身構える。また悲鳴を上げるかもしれない。
けれど、僕は目を逸らさなかった。
彼が守っているものが見えた。
一冊の本。
棚の隅に、かろうじて原形を保った本があった。他の書物と同じように湿気を吸い、表紙は波打ち、ページの端は茶色く変色している。けれど、まだ完全には崩れていない。
悪霊は、その本を守っていた。
実体のない手で、触れることもできずに。
水が染み込むのを防ぐこともできずに。
それでも、そこにいた。
何年も。何十年も。もしかしたら、何百年も。
これ以上腐敗しないようにと、報われることのない祈りを捧げ続けて。
「——君」
僕は呼びかけた。
悪霊が、こちらを見た。
顔がない。目がない。けれど、確かに僕を見ていた。
「それを守りたいの?」
返事はなかった。
できないのかもしれない。言葉を忘れてしまったのかもしれない。
けれど、その姿勢が答えだった。
何があっても、そこを離れない。
何年経っても、諦めない。
たとえ自分の力では何もできないとしても。
「僕に任せて」
『創成』の力が、手のひらに集まる。
物質を作り出す力。イメージ通りに形を与える力。
武器を作ることもできる。壁を作ることもできる。
けれど今、僕が作りたいのは、そういうものではなかった。
目を閉じて、本を思い浮かべた。
ボロボロになる前の、あるべき姿を。
白い紙。滑らかな革表紙。金箔で押された文字。乾いた、かすかに埃っぽい、けれど心地よい匂い。
ページをめくる音。
指先に残る、紙の感触。
そういうものを、思い描いた。
光が満ちた。
悪霊が、動きを止めた。
棚の隅で朽ちかけていた本が、光に包まれていく。カビが消え、シミが消え、波打っていた紙が平らに戻る。
修復。
あるいは、再生。
僕が作り出したのは、新しい本ではなかった。その本が「あるべき姿」を、物質として再構築したのだ。
光が収まった時、僕の手には真新しい革表紙の本があった。
金箔が鈍く光っている。
ページを開いてみた。文字は読めない。けれど、確かにそこに知識が刻まれている。
誰かが書き記した、大切な何か。
僕は悪霊に向き直った。
「もう大丈夫だ」
本を差し出す。
「君が守りたかったものは、ここにある」
悪霊の動きが、止まった。
長い、長い沈黙。
やがて、彼の輪郭が変わった。
曖昧だった形が、少しずつ定まっていく。人の形に。痩せた、背の高い、老人の形に。
司書だったのだろうか。
この書庫を守っていた、誰か。
永遠の嘆きが、消えていく。
守るべき悲壮な理由から、解き放たれていく。
悪霊は、静かに膝を折った。
それは降伏ではなかった。
感謝だった。
僕は『雇用』の力を解放した。
抵抗はなかった。
力は、空白に染み込むように届いた。契約が結ばれる。新しい従業員が、僕の下に加わる。
――『念話』の天賦を獲得しました。
いつもなら、ここで味がする。
クロムの時は、鉄錆のような、血のような、生々しい味がした。
メルの時は、水の味。雨上がりの空気の味。
レースの時は、苦味。毒のような、けれどどこか癖になる苦味。
けれど——
何も感じなかった。
味がしない。
悪霊から流れ込んでくる力はある。天賦が、確かに僕の中に根を下ろしている。
それなのに、味がない。
水を飲んだ時の、あの「何もない」感覚。
いや、違う。
水には水の味がある。僕が今感じているのは、それとも違う。
出涸らし。
その言葉が、ふと浮かんだ。
何度も何度も淹れ直して、もう何も出なくなった茶葉のような。
搾り取られた後の、残滓のような。
僕は、ボックスを思い出した。
そういえば、彼にも味がなかった。
あの時は気に留めなかった。ミミックという生き物の性質なのだろう、と思った。
けれど、今こうして二体目の「味のない」従業員を得て、僕は考え始めていた。
彼らには、共通点がある。
野生の魔物ではない、ということ。
ボックスは、冒険者の荷物に紛れ込んでいた。主を失った鞄の中から這い出して、そのままゴミに擬態していた。
悪霊は、書庫を守っていた。何年も、何十年も、もしかしたら何百年も。
彼らは、誰かに属していたのではないか。
深層のゴルム。先代の主との契約に縛られていた巨人。彼との契約は「継続中」だった。だから僕の『雇用』は弾かれた。
けれど、ボックスと悪霊は違う。
契約が「破棄」されていた。
主の死によって、強制的に切れた契約。
その時、彼らの魂から「個性」が——「味」が——搾り取られたのではないか。
残ったのは、抜け殻だけ。
出涸らしだけ。
このダンジョンに遺された魔物たちの正体。
かつてここを治めていた者の、忘れ形見。
僕は悪霊を見下ろした。
いや、もう悪霊ではない。僕の従業員だ。
「名前をつけないと」
司書だった。本を守っていた。知識を守っていた。
けれど、今の彼に「知識」という名は重すぎる。
もっと素朴な、もっと軽やかな名前がいい。
「ノート」
呟いた。
半透明の老人が、かすかに揺れた。
受け入れた、ということだろうか。
「よろしく、ノート」
彼から得た天賦は、一つだけだった。
『念話』。
言葉を介さずに、意思を伝える力。
試しに、心の中で呼びかけてみた。
——クロム。
クロムが、びくりと振り返った。
目を丸くして、僕を見つめている。何が起こったのかわからない、という顔。
——聞こえる?
彼は戸惑ったように耳をぴくぴくさせ、それからこくこくと頷いた。
レースも同じだった。僕の声が——声ではない何かが——直接頭の中に届いている。
これは便利だ。
戦闘中に声を出す必要がない。遠くにいても、瞬時に意思疎通ができる。
連携の速度が、劇的に上がる。
けれど、『念話』の価値はそれだけではなかった。
僕は木箱を開け、手記を取り出した。
深層でゴルムから譲り受けた、先代の遺物。何度開いても読めなかった、謎の文字。
ノートに向き直る。
「これを、読める?」
手記を差し出した。
ノートは、しばらくそれを見つめていた。
実体のない目で。実体のない指先で。
やがて、彼の「声」が聞こえた。
声ではない。音ではない。意味だけが、直接僕の脳に流れ込んでくる。
——読めます。
生前の記憶が残っているのだろうか。司書として、この書庫で働いていた頃の。
——お読みしましょうか。
僕は頷いた。
ノートが、手記のページをめくる動作をした。実際には触れていない。けれど、僕が手記を開くと、彼はそれを読み始めた。
——『雇用に関する考察』。
冒頭の一行。
僕が読めなかった文字が、意味として流れ込んでくる。
——『我は女神より二つの天賦を賜った。創成と、雇用。前者は世界を形作る力。後者は魂を繋ぐ力。しかし、我は問わねばならぬ。なぜ、この力が我に与えられたのか』
手記は、ダンジョン運営のマニュアルではなかった。
少なくとも、冒頭は違う。
——『女神は言う。魔力の澱みを解消するために、と。魔王亡き後の世界を整えるために、と。しかし、それは真実か。我々管理者は、本当に世界のために存在しているのか』
女神への懐疑。
僕は、息を呑んだ。
——『魔王討伐の裏側には、語られぬ物語がある。勇者の剣が魔王の胸を貫いた、その瞬間に起こったこと。女神が微笑んだ、その理由。我は知りたい。たとえそれが、我の存在意義を揺るがすものであったとしても』
ノートの「声」が止まった。
手記の冒頭、それだけで十分だった。
僕は本を閉じた。
静寂が、書庫を満たした。
腐った本の山。湿った空気。崩れかけた棚。
その中で、僕は見えない先代の背中を見つめていた。
彼は何を知ったのだろう。
何を見つけて、何を失って、ここで命を終えたのだろう。
クロムが僕の袖を引いた。
帰ろう、と言いたいのだろう。
僕は頷いた。
「今日は、ここまでにしよう」
手記を懐にしまう。
ノートが、ふわりと僕の後ろについた。
新しい家族。
けれど、彼は何も語らない。語る言葉を持っていないのか、語りたくないのか。
いつか、聞いてみよう。
彼が何を覚えているのか。先代の管理者のことを、どれだけ知っているのか。
けれど、今は無理に聞き出すべきではない。
僕たちは、まだ出会ったばかりだ。
拠点に戻ると、メルがころころと転がってきた。
新しい仲間を警戒しているのか、それとも歓迎しているのか。
ボックスは相変わらず、木箱の姿で動かない。
レースが糸を出して、ノートの周りをぐるりと回った。触れられないとわかっているのか、触れようとはしなかった。
クロムは僕の隣に座り、疲れたように目を閉じた。
新しい知識。
新しい謎。
新しい不安。
けれど、同時に、新しい力も手に入れた。
僕は拠点の中を見回した。
クロム、メル、レース、ボックス、ノート。
五つの名前が、僕の中で並んだ。
家族が増えた。
それだけで、今日は十分だった。
手記の続きは、また明日読めばいい。
女神の真意も、魔王討伐の裏側も、今すぐ知る必要はない。
僕は目を閉じた。
誰かが僕を呼んでいる——あの感覚は、まだかすかに残っていた。
けれど、もう怖くはなかった。
呼んでいるのが誰であれ、僕には家族がいる。
一人ではない。
それを確かめるように、クロムの頭を撫でた。
彼は目を閉じたまま、小さく喉を鳴らした。
静かな夜が、更けていく。
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