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第10話 エリス

 手記を開くのは、これで三度目だった。


 朝の光が拠点の隙間から差し込み、羊皮紙の黄ばんだ表面を照らしている。文字は相変わらず読めない。曲線と直線が絡み合い、意味を持たない模様として僕の前に横たわっている。


 図解を指でなぞってみる。人型の輪郭。そこから伸びる線。結ばれる円。


 わからない。


 何かが描かれていることはわかる。重要なことが書かれていることも、たぶん正しい。けれど、それが何なのかは、どれだけ見つめても浮かび上がってこなかった。


 レースが隣に来て、同じように手記を覗き込んだ。


 しばらく眺めてから、小さく首を傾げる。


 彼女にも読めないのだ。


「だよね」


 僕は手記を閉じた。


 無理に解読しようとしても、時間ばかりが過ぎていく。知識がなければ読めないものは、知識を得てから読めばいい。


 今の僕にできることは、他にある。


「いつか、また開こう」


 木箱を探して、手記を丁寧にしまった。地図も一緒に。深層で拾った、かつての誰かの遺産。


 箱の蓋を閉じる音が、妙に大きく響いた。


 それで区切りがついた気がした。


 立ち上がって、拠点を見渡す。


 ひどい有様だった。


 いつからこんなに散らかっていたのだろう。冒険者たちが残していった遺留品。壊れた剣。割れた盾。血に染まった布切れ。食べかけの干し肉。空になった薬瓶。


 メルなら溶かして消せるものもある。けれど、消したところで仕舞う場所がない。使えそうな金属片、まだ価値のありそうな素材——捨てるには惜しく、整理するには多すぎる。結局、隅に寄せて積み上げるしかなかった。


 クロムが走り回るたびに、何かが崩れる。レースが糸を張るたびに、何かが絡まる。


 城を名乗るには、あまりにも雑然としていた。


「片付けないと」


 呟いて、手近なガラクタの山に手を伸ばした。


 その時だった。


 山が、動いた。


 反射的に後ろに跳ぶ。


 クロムが影のように僕の前に躍り出て、爪を構える。


 ガラクタの山が崩れ、いや、形を変えた。壊れた武具と布切れが寄り集まり、一つの塊になる。


 口が開いた。


 比喩ではない。文字通り、ガラクタの山に巨大な口が現れた。鋭い牙がぎらりと光り、その奥に底なしの暗闇が覗いている。


 魔物だ。


 いつからここにいたのだろう。冒険者の荷物に紛れ込んでいたのか。持ち主が死に、置き去りにされた鞄の中から這い出して、そのままゴミに擬態していたのか。


 クロムが飛びかかろうとする。


「待って」


 僕は彼を制止した。


 魔物は、口だけの塊は、僕たちを攻撃してこなかった。


 代わりに、足元に転がっていた壊れた剣を、がぶりと飲み込んだ。


 ごきん、と鈍い音。


 咀嚼している。鉄を、木を、革を、何の苦もなく噛み砕いている。


 次は盾。その次は血染めの布。薬瓶。干し肉の骨。


 次々と、ゴミが口の中に消えていく。


 クロムが困惑したように僕を見上げた。攻撃していいのか、待つべきなのか、判断を仰いでいる。


「……ミミックだ」


 宝箱に擬態して冒険者を襲う魔物。けれど本来は、何にでも化けられる。ガラクタにも。岩にも。壁にも。


 そして、何でも食べられる。


 目の前のミミックは、僕たちには興味がないようだった。ただひたすらに、ゴミを食べ続けている。


 空腹だったのだろうか。それとも、これがこの生き物の本能なのか。


「君」


 僕は一歩前に出た。


 クロムが不安そうに僕の袖を掴む。大丈夫、と目で伝える。


「それ、全部食べてくれるの?」


 ミミックが動きを止めた。


 口というより、口に見える部分が、こちらを向いた。牙の奥で、何かがきらりと光る。知性の欠片か、それとも食欲の残滓か。


 僕は力を解放した。


 雇用の力。


 契約を結び、相手を従業員として迎え入れる力。


 ゴルムの時のように弾かれるかもしれない、と一瞬だけ思った。


 けれど、ミミックには支配者がいなかった。主を失った荷物のように、どこにも属していなかった。


 力は、空白に染み込むように届いた。


 ミミックの気配が変わる。殺意が消え、敵意が消え、代わりに従順な何かが生まれる。


 契約が、結ばれた。


 ミミックはそのまま、残りのゴミを食べ続けた。


 けれど、もう怖くはなかった。もう僕の従業員だ。


 天賦が、流れ込んでくる。


 これまでと同じように。クロムから得た敏捷。メルから得た浄化。レースから得た操糸。


 そして今、新たな力が加わる。


――『亜空間』の天賦を獲得しました。


 亜空間。


 ミミックの体内にある、異次元の収納空間。そこに物を仕舞い、取り出すことができる。


 たとえるなら、底の見えない井戸。落としたものは消えるけれど、手を伸ばせばまた掴める。


「すごい」


 思わず声が出た。


 ミミックは最後のゴミを飲み込み、満足そうに、たぶん満足なのだと思う、ぷくりと膨らんだ。


 そして、ゆっくりと形を変えた。


 ガラクタの山ではなく、今度は木箱に。シンプルで頑丈な、ただの木箱。


 蓋を開けてみる。


 中には、ミミックが食べたものの一部が、きれいに整理されて収まっていた。使えそうな金属片。まだ価値のありそうな宝石の欠片。貴重な素材になりうる魔物の牙。


 ゴミは消化され、価値あるものだけが残された。


「生きた金庫だ」


 いや、金庫兼ゴミ箱か。


 レースが近づいてきて、木箱、ミミックを恐る恐る触った。ミミックは何の反応も示さない。彼女が敵でないことを、契約を通じて理解しているのだろう。


 メルもころころと転がってきて、ミミックの周りをぐるりと回った。仲間が増えたことを、彼女なりに確認しているようだった。


「名前をつけないと」


 考える。


 箱。収納。貪欲。いや、違う。


 ボックスは、ただ食べているだけだ。与えられたものを受け入れて、必要なものを残す。それは貪欲というより、むしろ素直さだ。


「ボックス」


 そのままだ、と自分でも思った。


 木箱の蓋が、かたりと小さく鳴った。


「よろしく、ボックス」


 拠点は、見違えるほど片付いた。


 ボックスがゴミを片っ端から食べてくれたおかげで、床が見えるようになった。レースが新しい糸を張り、メルが埃を掃除し、クロムが機嫌よく走り回っている。


 床が見える。壁が見える。天井から垂れるレースの糸が、蜘蛛の巣ではなく装飾のように見える。


 クロム、メル、レース、ボックス。


 四つの名前が、僕の中で並んだ。


 僕の、アニスの城は、少しずつ形を成していく。



* * *



 同じ頃、地上では——


 市場の喧騒は、エリスにとって未知の世界だった。


 果物屋の軒先から漂う甘い匂い。肉屋の店頭に吊るされた獣の塊。武具屋の陳列棚で鈍く光る剣。路地を行き交う人々の声、足音、笑い声。


 公爵家の令嬢として、エリスは市場に足を踏み入れたことがなかった。使用人が全てを用意してくれたし、そもそも彼女には外出を許されない時期が長かった。奇病に蝕まれていた頃は、窓の外を眺めることさえ叶わなかった。


 今、彼女は歩いている。


 従者を一人だけ連れて、市場の端から端まで。


「お嬢様、お疲れではありませんか」


 従者のセバスチャンが、控えめに声をかけた。白髪の老人は、エリスの乳母の夫であり、彼女が生まれた時から仕えてきた。


「平気よ」


 エリスは足を止めなかった。


 目的がある。


 あの方を、見つけなければならない。


 黒髪の少女。病を食べた、人ならざる存在。彼女の手が、彼女の唇が、エリスの胸の奥に棲みついた病を吸い上げてくれた。


 あの瞬間のことを、エリスは一日たりとも忘れたことがない。


 目覚めた時、少女はもういなかった。父は何も教えてくれなかった。治療師として招かれた、としか。


 それから数日、エリスは寝台の上で過ごした。体力が戻るのを待つふりをしながら、実際には考えていた。どうすれば、あの方に会えるのか。


 答えは単純だった。


 探せばいい。


 貴族の娘が市場を歩くのは異例だろう。噂になるかもしれない。父に叱られるかもしれない。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。


「あの、すみません」


 エリスは果物屋の前で足を止めた。


 店主が怪訝そうな顔でこちらを見る。明らかに場違いな上品な衣装。けれど、威圧するような態度は取らない。


「黒髪の、美しい少女を見かけませんでしたか? とても綺麗な方で、年頃は私と同じくらい……」


 店主は首を振った。


「うちには毎日いろんな客が来るからねえ。黒髪ってだけじゃ……」


「そうですか。ありがとうございます」


 次の店へ。


 武具屋。首を振られた。布地屋。同じ。肉屋、乾物屋、香辛料屋——どこへ行っても答えは変わらなかった。


 何軒回っただろう。足が痛くなり始めていた。けれど、エリスは歩みを止めなかった。


 諦めるという選択肢は、最初からなかった。


 あの方は確かに存在する。この街のどこかにいる。そして、いつかまた現れる。


 ならば、足跡を辿ればいい。一つずつ、丁寧に。


 小さな雑貨店の前で、エリスは同じ質問を繰り返した。


「黒髪の、美しい少女を」


「ああ」


 店主が、初めて違う反応を示した。


「黒髪の少女ねえ……」


 エリスの心臓が跳ねた。


「ご存知なのですか?」


「少し前のことだけどね。変わった買い物をしていった子がいたよ。黒髪で、そうだな、確かに綺麗な子だった」


「どんな買い物を?」


 店主は記憶を辿るように、視線を宙に彷徨わせた。


「『麻痺茨の種』を買っていったな。妙な買い物だと思って覚えてる」


 麻痺茨。


 危険な植物だ。棘に触れれば体が痺れ、動けなくなる。普通の少女が買うようなものではない。


 けれど、あの方は普通ではなかった。


 可憐な見た目。危険な力。その矛盾こそが、エリスの記憶にある少女の特徴と一致する。


「その方は、どちらへ?」


「さあ、そこまでは。買い物を済ませたら、すぐに出ていったからね」


 エリスは懐から財布を取り出した。


 金貨を一枚。


 店主の目が丸くなる。


「これを」


「い、いやいや、そんな大金は」


「お願いがあるのです」


 エリスは店主の手に、金貨を押し込んだ。


「次にその方が現れたら、すぐに我が家へ知らせてください。バルディア公爵家。私の名はエリス。必ず、必ずお礼はいたします」


 店主は金貨を見つめ、それからエリスの顔を見た。


 何か言おうとして、けれど言葉にならず、最後にはただ頷いた。


「……わかった。来たら、知らせるよ」


「ありがとうございます」


 エリスは深く頭を下げた。


 公爵家の令嬢が、市場の店主に頭を下げる。前代未聞だろう。セバスチャンが何か言いたそうにしていたけれど、エリスは気にしなかった。


 糸口を掴んだ。


 細い糸。けれど確かに、あの方へと繋がる糸。


 帰り道、エリスの足取りは軽かった。


 夕暮れの空が、赤く染まっている。市場の喧騒が遠ざかり、石畳を踏む自分の足音だけが響く。


 心の中で、何度も繰り返した。


 待っていてください。必ず、見つけますから。


 あの方が何者であっても構わない。人であろうと、魔物であろうと、それ以外の何かであろうと。


 エリスはただ、もう一度会いたかった。


 あの手の温もりを、もう一度感じたかった。


 病を吸い上げられた時、胸の奥で何かが弾けた。十四年間、ずっと蓋をしていた場所が開いた。初めて深く息を吸えた。初めて心臓が自分のものだと感じた。あの方が触れた瞬間から、エリスの体は——いや、エリス自身が、ようやく動き始めたのだ。


 それを、確かめなければならない。


 屋敷の門が見えてきた。


 エリスは振り返り、市場の方角を見た。


 どこかで、あの方も同じ空を見ているのだろうか。


 同じ夕暮れを、同じ赤を。


「必ず」


 呟いて、エリスは門をくぐった。


 探索は、まだ始まったばかりだ。



* * *



 拠点の奥で、僕は地図を広げていた。


 木箱にしまったはずだったけれど、やはり気になって取り出してしまった。手記は読めないまま置いておくとして、地図は今すぐにでも役立つ。


 ボックスの上にランタンを置き、その灯りで地図を照らす。ボックスはおとなしく台座の役目を果たしてくれている。


 広い。


 改めて見ても、このダンジョンは途方もなく広かった。


 今僕たちがいるのは、ほんの入り口に過ぎない。深層にはゴルムがいる。さらにその奥には、まだ見ぬ領域が広がっている。


 かつてここを治めていた者は、この全てを支配していたのだろうか。


 地図に書き込まれた印。読めない文字。けれど、記号のようなものは何となく理解できる。


 ここは拠点。ここは通路。ここは、危険区域だろうか。


 深層のさらに奥に、赤い印がついている場所があった。警告なのか、それとも宝物庫なのか。


 いつか、確かめに行かなければならない。


 けれど、今はまだ早い。


 クロムが僕の隣に来て、一緒に地図を覗き込んだ。彼にはこれが何を意味しているのか、わからないだろう。けれど、僕が見ているものを一緒に見ようとしてくれる。


 レースは相変わらず糸を編んでいた。今度は何を作っているのだろう。


 メルはボックスの周りをころころと回っている。新しい仲間に興味があるのか、警戒しているのか。たぶん両方だろう。


 ランタンの炎が揺れるたび、壁に影が踊った。どこからも敵意は感じない。


 地図を畳み、また木箱にしまう。


 今日はよく働いた。手記を片付け、ゴミを片付け、新しい仲間を迎え入れた。


 十分だ。


「おやすみ」


 家族に声をかけて、僕は横になった。


 クロムが僕の腕を枕にして丸まる。重い。けれど退かす気にはなれない。レースの編み針が規則正しく鳴り、時折、糸が絡まったのか舌打ちのような音が混じる。メルはボックスの蓋の上に乗って、満足そうに明滅していた。新しい仲間を、彼女なりに歓迎しているのかもしれない。


 明日も、きっと忙しい。


 城を守る。家族を守る。


 そのための力を、少しずつ蓄えていく。


 目を閉じる。


 暗闇の中で、ふと思う。


 どこかで、誰かが僕を呼んでいるような——そんな錯覚が、胸をかすめた。


 知らない声。けれど、どこか懐かしい響き。


 気のせいだ、と思い直して、意識を手放した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回もよろしくお願いいたします。

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